大韓帝国皇帝・高宗は「日本が退位させた」のか――「山川の歴史教科書」に書かれた“不可解な一文”(前編)

執筆者:新城道彦 2025年2月7日
タグ: 韓国 日本
エリア: アジア
大韓帝国の初代皇帝・高宗は、1907年にオランダのデン・ハーグで開催された万国平和会議に密使を派遣し、第二次日韓協約(韓国保護条約)の不当性などを国際社会に訴えようとした。この「ハーグ密使事件」の直後に皇位から退く(Wikimedia Commons)
山川出版社の『詳説日本史』と言えば、日本史のスタンダードとして、長年多くの高校生に読み継がれてきた歴史教科書である。しかし、日本史において最も敏感なテーマの一つである「韓国併合」に関して、きわめて実証性に乏しい記述があることが明らかになった。史実とは異なる歴史認識が放置されれば、今後の日韓関係にも深刻な悪影響を及ぼしかねない。

はじめに

 福沢諭吉は1882年の『時事新報』で西洋列強がアジアに迫る危機を「火の蔓延するが如し」1と表現し、「隣家」である朝鮮が「焼亡」してしまえば日本まで「類焼」する恐れがあると論じていた。朝鮮王朝は長期にわたる政治腐敗や社会の乱れによって破綻の危機にあり、そこに西洋が介入して日本に火の粉が飛んでくることを恐れていたのである。

 そのように日本の国防において朝鮮半島がいかに重要であるかを認識していたのは福沢だけではなかった。山県有朋は朝鮮半島を日本の「主権線」(国土)と密接にかかわる「利益線」に位置づけ、日本の安全のためには「利益線」を保護する必要があると第一回帝国議会の施政方針演説で訴えていた。それゆえ、日清戦争時に朝鮮で開化派政権が発足すると、日本はこれに干渉して近代化を図り、行政機構を改編して宮中事務と国政事務を分離するなどしている(甲午改革)。この改革は露館播遷で一時後退するが、日露戦争後の1905年に伊藤博文が大韓帝国(以下、韓国)の初代統監に就任すると、再び宮中や財政などの諸改革に取りかかった。

 しかし、そうした近代化改革は「専制政治」2にこだわる皇帝の高宗からすれば既得権益の喪失を意味し、許し難いことであった。そこで高宗は、1907年にオランダのデン・ハーグで開催された万国平和会議に信任状を持たせた密使を派遣して第二次日韓協約(韓国保護条約)の不当性などを国際社会に訴えようとした。「ハーグ密使事件」の名で知られるこの有名な事件は山川出版社が発行する『詳説日本史』にも次のように書かれている。

 これに対し韓国皇帝高宗は、1907(明治40)年にオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に密使を送って抗議したが、列国に無視された(ハーグ密使事件)。日本は、この事件をきっかけに高宗を退位させ、ついで第3次日韓協約を結んで韓国の内政権をもその手におさめ、さらに韓国軍を解散させた。〔後略〕3

 日本史の教科書には珍しく、比較的多くの紙幅を割いて朝鮮半島のことが記述されている段落である。だが、ここには典拠のわからない不可解な一文が含まれている。それは、「日本は、この事件をきっかけに高宗を退位させ」の部分である4。ハーグ密使事件の直後に高宗が皇位から退いたことは間違いないが、それを行った主体が日本だったことを示す一次史料を筆者は寡聞にして知らない。もしこの一文が信頼できる史料にもとづいて書かれていないならば、高等学校の歴史教育において実証性が担保されてないということになってしまう。

 そこで、まず本稿の前編では当事者の史料をもとにハーグ密使事件から高宗の退位に至る経緯を整理する。そのうえで、後編では『詳説日本史』の一文がいつから何を典拠にして書かれるようになったのかを調査し、その史料的裏づけを検証する。 

『詳説日本史』(山川出版社)

1.当事者の史料からみた高宗の退位

 ハーグ密使事件から高宗の退位に至る経緯を記した当事者の史料として、『日本外交文書』『一堂紀事』『日韓合邦秘史』がある。『日本外交文書』は、外務省が日本の外交に関する基本的史料を提供する目的で編纂した公刊史料集である。第40巻第1冊にハーグ密使事件後の伊藤統監と日本政府関係者の電報が数多く収録されている。『一堂紀事』は、李完用の甥で秘書の金明秀が李完用の一周忌を記念するために関係文書を編纂して1927年に上梓した伝記である。李完用は政府首脳としてハーグ密使事件後の難局に対応しており、韓国側の視点から高宗の退位を把握するうえで欠かせない史料といえる。『日韓合邦秘史』は、黒龍会の葛生能久が同時代の記録や証言をもとに著した書籍である。黒龍会の内田良平(統監府嘱託)と連携して高宗の退位を推進した一進会の宋秉畯農商工部大臣らの言動が詳細に記録されている。

Ⅰ『日本外交文書』

 まずは伊藤統監や日本政府関係者の視点からみた高宗の退位である。伊藤は7月7日に西園寺公望首相に長文の電報を送り、ハーグ密使事件後の韓国の動向を報告している。これによると、事件発覚の直後に伊藤は李完用首相を介して高宗に、今回の行為は日韓協約に違反しているので、日本は韓国に対して宣戦の権利があると告げている。対する高宗は、自分は関与していないと弁明するが、伊藤は密使が委任状の所持を公言していることに触れ、「最早虚言を弄して取消すべきに非ず」5と咎めた。

 なお、1940年に出版された伊藤博文の伝記『伊藤博文伝』下巻には、この7月7日付電報を参照している箇所で、伊藤が李完用を招いて「貴下宜しく首相たる責任を以て韓皇に奏聞して処決を促がすべしと勧告し」6たと書かれている。あたかも伊藤が李完用を使って高宗に退位を強いたかのような表現である。しかし、7月7日付電報にそれらしい記述は見当たらない。たぶん伊藤が李完用を通じて高宗に「責任全く陛下一人に帰する」と伝えたことを拡大解釈し、史料にない内容を書き加えたのであろう。

 電報の内容に戻ろう。7月6日には李完用が伊藤を訪ねてきて、「国家と国民とを保持せば足れり皇帝身上の事に至りては顧るに遑なし」と内密に告げたという。これを聞いて「譲位」を意図していると判断した伊藤は、「尚熟慮すべし」と告げてその動きを牽制した。そして西園寺に対しては「譲位の如きは本官深く注意し、韓人をして軽挙事を過まり其の責を日本に帰せしむる如きは固より許さざる所なり。此の点に付ては御安心ありたし」7と報告している。つまり、この時点で伊藤は高宗の譲位に消極的であり、李完用らが勝手に動かぬよう戒めていたことがわかる。

 その一方で伊藤は、ハーグ密使事件の発覚は日本が韓国に対して何らかの措置をとる好機であると考えており、日本政府の方針を定めて訓示してほしいと西園寺に依頼していた。そこで、西園寺は元老や閣僚と協議し、「処理要綱案」と「第二要綱案」を添付して12日に伊藤に返電している。「処理要綱案」は、韓国皇帝が持つ内政権を統監に委任させるというものであり、「第二要綱案」は高宗に譲位させるという内容であった。譲位に関しては「韓国政府をして実行せしむるを得策と為すべし」8という但書まで付いていた。これをみる限り、日本政府は内政権の掌握だけでなく、高宗の譲位も視野に入れていたことがわかる。しかし、高宗の譲位について廟議で討議した際に「今日実行」と主張したのは寺内正毅のみであり、山県有朋は「今日は否」、その他多数は「否」と答えていた。つまり、「第二要綱案」も可決されたとはいえ、日本の閣僚や元老の多くは譲位の方針に反対していたといえよう。

 それにもかかわらず、韓国では19日(詔勅の日付は18日)に譲位が強行された。同日、伊藤が西園寺にこの間の経緯を報告した電報によると、直前の16日に李完用、17日に大臣一同が参内して譲位は避けられない旨を奏上したが、高宗を激怒させただけで失敗に終わったという。伊藤はこのように韓国の大臣たちが急に動いたのは、林董外相が韓国にやって来るとの報に接したことが原因だと分析した。つまり、大臣たちは日韓関係が重大な局面にあると予測し、韓国政府が自ら進んで何らかの措置をとらなければならないと考え、伊藤の助力や同意を求めることなく高宗の譲位を「自力断行」したというのである。ちなみに、伊藤は18日に高宗から大臣たちの譲位要求にどのように対処すべきか意見を求められた際に、「陛下の臣僚にあらざる本官が是非の奉答を敢てし、或は之に干与すべき筋合にあらず」9と回答してこの問題に関わることを断固拒否したと西園寺に報告している。

 韓国の大臣たちが自発的に譲位に向けて動いたと証言するのは伊藤だけではない。たとえば渡韓した林外相は珍田捨巳外務次官宛の電報で「〔高宗の譲位は〕当方より希望したるものに非ず。全く韓国政府当局者が日本の要求の大なるを予期し、幾分か之を和らげむとするの意に出でたるものなる」10と述べている。また、原敬内相も日記に「朝鮮国王其位を皇太子に譲りたりと云ふ、我提議に起りたる事にあらず、彼国内閣員等我国に対する謝罪の意味と又難局を避くるの意味とに起りたる事ならん」11と記している。

 ところで、高宗が19日に発した詔勅は「軍国の大事を皇太子をして代理せしむ」という表現になっており、「譲位」の意を明確にしていたわけではなかった。これは朝鮮の古例にもとづいて、新王が王位を継いだ際に前王がまだ存命ならば正式の即位式を行わず、「代理の名」において国政を担うことになっていたからであった。それゆえ、林外相はこの表現の違いをそれほど気にかけず、珍田次官に「譲位を意味すること明白なり。念の為め電報す」12と伝えていた。しかし、苦労して譲位の道筋を付けた韓国の大臣たちは、高宗の「陰謀」を警戒した。林の報告によると、彼らは譲位の事実を明確にするために新帝の純宗から旧帝の高宗に「太上皇帝」の称号を進呈させることにし、21日に李完用、趙重応、李載崐が参内して純宗にこの案を奏請したという13。しかし、純宗の傍らにいる高宗の妨害でなかなか受け入れられず、三大臣は夜半に退出した。22日午前0時30分に宋秉畯、高永喜、李秉武、任善準の四大臣も宮中に向かい、退いた三大臣と城門のあたりで遭遇した。ここで彼らは協議し、ともに参内して再度説得することにした(宋秉畯ら四大臣は控所で待機)。やがて高宗の態度が軟化して午前5時に「上」を除いて「太皇帝」の称号を奉るという妥協案が成立し、純宗がその旨を記した詔勅を発した。

Ⅱ『一堂紀事』

 ついで、李完用首相の視点からみた高宗の退位である。ハーグ密使事件が発覚すると、李完用は伊藤から、日韓協約に違反したのは明らかであるから日本は韓国に対して宣戦を布告すべき充分な理由があると告げられている14。これに対して李完用は、内閣は関与していないことを釈明し、なるべく穏便に解決するよう懇願した。しかし、伊藤が取り合わなかったため、ただ「戦々兢々」として退いたという。

 そのころ巷間では、日本が韓国を攻めて皇帝を拉致していくなどのデマが流れたため、社会不安が高まっていた。韓国政府においてこの難局を切り抜ける妙案を出す者はおらず、李完用が事を収める一計として、高宗が皇太子に譲位し、日本に対して「弁解」するという方策を提案した。この案に大臣たちから異論が出なかったため、李完用は7月6日に再度会議を開いて話し合い、正式に高宗に譲位を進奏した15。つまり、『日本外交文書』にある、伊藤が李完用に「尚熟慮すべし」と告げて譲位に向けた動きを牽制したまさにその日に、李完用は早くも高宗に譲位を勧めていたのである。ただし、このとき高宗は激怒して提案を受け容れなかった。

 その後、李完用は林外相が韓国にやって来るという情報に接することとなる。林が渡韓する目的は日本政府の対韓方針を伊藤に説明することにあった16。しかし、疑心暗鬼になった李完用は、「伊藤公は韓廷より何等の消息なきを以て、己〔原文ママ〕むなく日本政府に向ひ、外務大臣林董の出張を電請した」と捉え、「是亦尋常ならざる計画に由るなり」17と懸念した。それゆえ、林の漢城到着が18日だとわかると、まず16日に李完用が参内して高宗を説得し、さらに17日には御前会議で大臣一同が「聖裁」を迫った。林の入京で緊張に包まれた18日にも李完用らは御前会議を開いて高宗を説得し、翌日午前1時についに高宗が詔勅を下したという。『一堂紀事』には伊藤や林が高宗の退位に直接介入したことを示す記述はなく、韓国の大臣たちが自発的に動いたとする『日本外交文書』の内容と合致している。

Ⅲ『日韓合邦秘史』

 最後に黒龍会や一進会の視点からみた高宗の退位である。まず、ハーグ密使事件の報に接して激怒した伊藤は、統監府の幹部に「今回は決して赦さず。必らず断然の処置を取るべし」18と漏らしたという。ただし、長谷川好道韓国駐箚軍司令官が伊藤から聞いた話によると、この「処置」は「兵権、財政、警察、司法の四権を収むる」ことであり、高宗の「廃立」ではなかった。

 7月5日、内田良平は宋秉畯農商工部大臣および一進会会長の李容九と協議した際に、「今回こそは韓皇を譲位せしめざる可からず。閣員果して決行するを得べきか」と確認した。これに対して宋秉畯は、まず自分が李完用に「譲位は僕已に統監の意向を探り得たり」と嘘の情報を伝えて「術中に収めん」と述べている。この意見に内田が「廃立の事は全く統監をして与り知らしむべからず」と注意すると、宋秉畯は「勿論なり。只だ李完用を決心せしむるに、統監の不賛成ならざる意向を探り得たりと称するのみ」19と応じた。

 宋秉畯の証言によると、李完用は実際に「術中」に陥り、高宗を「廃立」する決心を固くしたという。そして、李完用は15日に林外相の入韓が間近であることを知ると、国を護るためには譲位を実現するしかない旨をこの日の閣議で大臣たちに訴えた。これに対して趙重応がいったん伊藤統監に諮ることを提案したところ、宋秉畯が大喝して「統監は何物ぞ。日本 天皇陛下の代理に非ずや。吾儕(わなみ)は韓国々務大臣なり。吾儕国務大臣は、日本の交渉に恐れて此の如く凝議せるに非ずや。之れを伊藤侯に謀〔原文ママ〕らむとは何等の愚蒙ぞ。此責任は国務大臣に在るに非ずや」20と反駁したという。こうして翌16日の閣議で「廃立の議」が決し、李完用が1人で参内して高宗にその旨を奏上した。しかし、このとき高宗は頑なに拒んでいる。

 17日の早朝に内田が伊藤を訪問した。この席で伊藤は、「欣然」として昨夜李完用が高宗に譲位を奏上したことを記した報告書を見せるとともに、自身も「譲位に不賛成ならざる意向」21を示したという。つまり、内田が伊藤の「意向」を知ったのは、譲位が実行されるわずか2日前のことだったのである。しかも、伊藤は翌18日に宋秉畯を電話で呼び出し「此の如き大事を挙ぐるに、何ぞ先づ予に語らざる。事若し成らざるときは、之れを如何にするや」22と叱責したという。伊藤は高宗の譲位に反対していたわけではないが、少なくとも内田や宋秉畯が進めた計画に関与していなかったことは、この発言からも明らかであろう。

 宋秉畯はむやみに動いて伊藤の怒りを買ったうえに、高宗が頑なに譲位を拒否しており、窮地に追い込まれた。それゆえ、18日に李完用邸で開かれた閣議において、もし高宗が説得に応じない場合は力ずくで強行することを提案し、さらに「事成らざるときは一死あるのみ」と述べ、拳銃を懐にするよう大臣たちに訴えている23。閣議が終わると一同は午後5時に参内し、高宗に譲位を奏請した。高宗がハーグ密使事件について弁明すると、宋秉畯が「願くは死したまはむことを。陛下今死したまはゞ国と宗廟とは生きむ。陛下若し死したまはずば臣等皆死せむ。然れども臣等が死は国に益なく、宗廟と倶に死するのみなり。陛下の死は、以て社稷を安むずべし。翼〔原文ママ〕くは死したまはむことを」24と極言した。言葉に窮した高宗は元老を召して意見を聞いたが、彼らも譲位はやむを得ないという考えであった。こうして追い詰められた高宗が「然らば皇太子をして代理せしめば如何」と述べ、19日午前5時に至ってついに詔勅に御璽を捺したという。

 ところが、伊藤は詔勅にある「代理」の表現に疑いを持ち、「真の譲位」ではないと見なした。そして宋秉畯のもとに使者を送って詰り、もし大臣らで譲位を実現できないならば、自分が参内して決行すると伝えた。しかし、宋秉畯は「請ふ、安慮せられむことを。閣臣が始めより統監閣下に謀〔原文ママ〕らざりしは、閣下をして第二の三浦〔梧楼〕将軍たらしめざらんがためなり」25と応じ、伊藤がこの問題に関与しないよう制している。

 21日午後3時に李完用、趙重応、李載崐が参内して「真の譲位」を行うよう高宗に奏請したが、拒絶されて退室した。伊藤に大見得を切った宋秉畯もこのとき宮中に向かっており、城門のあたりで退いてきた三大臣と遭遇している。宋秉畯が「三君再び諫争せよ」と励ますと、李完用と趙重応が再度参内して奏請した。さらに午後10時には高宗に召された宋秉畯も加わって説得に当たり、翌日午前3時に「真の譲位の解決」に至ったという。『日本外交文書』では控所にいたはずの宋秉畯が、『日韓合邦秘史』では不自然に高宗に召されて李完用らとともに「諫争」したことになっている。これは宋秉畯の証言をもとに書かれたことで、その功績が強調または捏造されたからではないかと考えられる。このように『日本外交文書』や『一堂紀事』の内容と多少の相違はあるが、韓国の大臣たちが日本側の意向をそれぞれに忖度しながら、あくまで自発的に動いたという点では合致している。また、宋秉畯の性急な行動のせいで伊藤も高宗の譲位に関与しかけたが、宋秉畯の説得により思いとどまったことが本書の記述からわかる。 (後編につづく)

※本研究はJSPS科研費JP24K04254の助成を受けたものです。

 


1 福沢諭吉「朝鮮の交際を論ず」(『福沢全集』第8巻、国民図書、1926年)415頁。本論文では史料の引用などは読みやすさを考慮し、句読点・ふりがな・濁点を適宜補い、カタカナはひらがなに、旧漢字は現行の漢字に改めた。

2 1899年制定の大韓国国制で「万世不変の専制政治」を謳い、皇帝は生まれながらに「無限の君権」を持ち、統帥権、立法権、行政命令権、法律を改正して大赦・特赦・減刑・復権を命じる権利、文武官の任免権、官制の制定と俸給を定める権利、有約国に使者を派遣して宣戦・講和および諸条約を締結する権利などを専有すると規定していた。

3 『日本史探究 詳説日本史』(山川出版社、2023年)263-264頁

4 本稿では多くの高校で採用されている山川出版社の『詳説日本史』を分析対象としているが、『日本史探究』(東京書籍、2023年)、『高等学校 日本史探究』(第一学習社、2023年)、『精選日本史探究』(実教出版、2023年)などにも類似の記述がある。

5 「密使海牙派遣ニ関シ韓帝ヘ厳重警告並対韓政策ニ関スル廟議決定方稟請ノ件」(『日本外交文書』第40巻第1冊)454頁。

6 春畝公追頌会編『伊藤博文伝』下巻(春畝公追頌会、1940年)751頁

7 前掲「密使海牙派遣ニ関シ韓帝ヘ厳重警告並対韓政策ニ関スル廟議決定方稟請ノ件」454頁

8 「韓帝ノ密使派遣ニ関連シ廟議決定ノ対韓処理方針通報ノ件」(前掲『日本外交文書』)455-456頁

9 「韓帝譲位ノ経緯及右詔勅発布ニ関スル件」(前掲『日本外交文書』)465-466頁

10 「韓帝譲位ヲ韓国政府ヨリ統監府ニ通牒並列国ニ声明方要請ニ関スル件」(前掲『日本外交文書』)467頁

11 原奎一郎編『原敬日記』第2巻(福村出版、1965年)250頁

12 「韓帝譲位ノ詔勅ニ関シ外務大臣ヨリ通報ノ件」(前掲『日本外交文書』)466頁

13 「韓国先帝ノ陰謀排除ノ為韓国閣臣ノ執リタル措置ニ関スル件」(前掲『日本外交文書』)482頁

14 金明秀編『一堂紀事』(一堂紀事出版所、1927年)62-63頁

15 同前、64-65頁。

16 前掲「韓帝ノ密使派遣ニ関連シ廟議決定ノ対韓処理方針通報ノ件」455頁

17 前掲『一堂紀事』65頁

18 葛生能久『日韓合邦秘史』上巻(黒龍会出版部、1930年)282頁

19 同前、282-283頁

20 同前、296-297頁

21 同前、298頁

22 同前、301頁

23 同前、305頁

24 同前、307頁

25 同前、321頁

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
新城道彦(しんじょうみちひこ) フェリス女学院大学国際交流学部教授 1978年、愛知県生まれ。九州大学大学院比較社会文化学府博士後期課程単位取得退学。博士(比較社会文化)。九州大学韓国研究センター助教、新潟大学大学院現代社会文化研究科助教、フェリス女学院大学国際交流学部准教授を経て現職。専攻は東アジア近代史。単著に『天皇の韓国併合ー王公族の創設と帝国の葛藤ー』、『朝鮮王公族ー帝国日本の準皇族ー』(山本七平賞推薦賞)、『朝鮮半島の歴史ー政争と外患の六百年ー』(サントリー学芸賞)、共著に『知りたくなる韓国』など。
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