セブン「買収撤回」後の株価が如実に示す「ガバナンス改革」の核心ポイント

執筆者:小平龍四郎 2025年8月27日
エリア: アジア
買収提案を拒否する理由は「株主の利益」か「経営陣の保身」か。株主に対する取締役の信任義務が不明確な日本の会社法は、そこを曖昧にしかねない[記者会見するセブン&アイ・ホールディングスのスティーブン・ヘイズ・デイカス社長=2025年8月6日](C)時事
アリマンタシォン・クシュタールが“のらりくらり”に痺れを切らした買収提案の撤回以降、セブン&アイ・ホールディングスの株価はさえない展開が続いている。8月6日の中期経営計画発表も起爆剤には程遠い。資本市場から信任を得られぬことの根幹には、やはりガバナンス問題が横たわっているだろう。だが、その核心とは改めて問えば、何なのか。韓国で進む商法改正の狙いに照らして考える。

 2025年7月17日、ニューヨーク・マンハッタン。夏の太陽が高層ビル群に反射し、ガラスがはね返す光が街路を白く照らしていた。観光客でにぎわう五番街から少し外れた会議場には、スーツ姿の男女が絶え間なく出入りしていた。首からさげたネームタグには、世界各国の金融機関、年金基金、資産運用会社の名前が並ぶ。

 この日、世界中の機関投資家やコーポレートガバナンスの専門家が集まったのは、「ICGN(国際コーポレート・ガバナンス・ネットワーク)」のカンファレンス。取締役会の役割からESG(環境・社会・企業統治)開示、株主との対話、気候変動リスクまで──企業統治に関わるあらゆるテーマが議論される、いわば“ガバナンスの五輪”とも言える場だ。

 受付を通り抜け、会場に入る。参加者の国籍は様々だが、みな一様に英語でコミュニケーションをする様子が印象的だ。パネルディスカッションの合間にはコーヒー片手に立ち話をする参加者が集まり、小さな人だかりがいくつもできていた。私は一人の若い小柄な韓国人と話していた。彼の控えめな一言が心にささった。

「コリアディスカウント」解消で「KOSPI5000」達成を狙う

「日本に、少しだけ追いつけた気がします」

 落ち着いた笑みを浮かべながら差し出された名刺には、「National Pension Service – New York Office / Senior Portfolio Manager」と記されていた。韓国国民年金公団(NPS)ニューヨーク事務所のシニア・ポートフォリオ・マネジャー、ホン・スンヒョク氏である。

 その物腰はあくまで謙虚だが、声の奥には自負もにじむ。長年、日本の企業統治を一つのベンチマークとしてきた韓国の投資家にとって、日本の改革もまた、常にベンチマークだ。

 ホン氏の言葉の背景には、韓国企業統治をめぐる長年の課題と、それを打破するための歴史的な改革がある。

「コリアディスカウント」──これは韓国株式市場の象徴的な言葉だ。政治リスクや地政学リスクに加え、財閥による支配構造の不透明さ、少数株主の・権利保護の脆弱さが相まって、韓国企業の株価は同業のグローバル企業に比べて一貫して低く評価されてきた。PER(株価収益率)は先進国市場の半分以下、PBR(株価純資産倍率)は1倍を大きく下回る水準が常態化していた。

 外国人投資家は、この「構造的割安」を承知で韓国市場に投資してきたが、長期的には資本コストの高さや株価低迷による資金調達制約が企業の成長を阻害してきた。韓国はMSCI(モルガン・スタンレー・キャピタル・インターナショナル)の新興国指数に長年組み込まれているが、同じインデックスに含まれる台湾やインドと比べても株価パフォーマンスは劣後している。

 MSCIの格上げ、つまり「先進国指数」への採用は、韓国市場の悲願とされてきた。だが、その条件として求められるのは市場の透明性、ガバナンス水準、外国人投資家の参入障壁の撤廃だ。特に企業統治面での改善は不可欠であり、信任義務の明文化はこの条件を満たすための核心的ステップだった。

 7月初旬に成立した商法改正は、こうした背景のもとで実現した。第一に、取締役の責任範囲に「株主への誠実な職務遂行」を明文化し、これを法的義務として課した。これにより取締役は、単に会社全体の利益を守るだけでなく、明確に株主の利益を考慮しなければならなくなった。違反すれば株主代表訴訟の対象となる可能性が高まる。

 第二に、電子株主総会の義務化や、監査委員選任時の議決権制限(最大株主および関係者の議決権は合計3%まで)など、少数株主保護を強化する制度も導入された。これらは、財閥オーナー一族による実質支配を抑制し、経営の透明性を高める狙いがある。

 李在明(イ・ジェミョン)大統領は施行式典で、「我々は文化や情緒ではなく制度で勝負する。KOSPI(韓国株価総合指数)5000の時代を切り拓き、韓国を真の投資先にする」と語った。これは単なるスローガンではない。韓国取引所や金融監督院は既にMSCIや海外格付機関と接触を重ね、制度改正の内容を国際的にアピールし始めている。

「株主への信任義務」に踏み込めない日本

 外国人投資家の間では、「韓国市場の透明性がMSCI先進国指数入りの条件に近づいた」という評価も出ている。実際、改正商法成立の翌週には、韓国株ETF(上場投資信託)への資金流入が一時的に加速した。もちろん、これでコリアディスカウントが一挙に解消されるわけではないが、構造的な評価改善に向けた第一歩となることは間違いない。

 韓国が今回の商法改正に至るまでの道のりを振り返ると、その背後には日本の企業統治改革の影響が色濃く存在する。

カテゴリ: 経済・ビジネス
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執筆者プロフィール
小平龍四郎(こだいらりゅうしろう) 日本経済新聞社編集委員 1988年、早稲田大学第1文学部卒。同年、日本経済新聞社入社。証券部記者として「山一証券、自主廃業」や「村上ファンド、初の敵対的TOB」「カネボウ上場廃止」などを取材。欧州総局、論説委員、アジア総局編集委員、経済解説部編集委員などを経て現職。日経本紙コラム「一目均衡」を10年以上執筆している。著書に『グローバルコーポレートガバナンス』『アジア資本主義』『ESGはやわかり』(いずれも日本経済新聞出版社)がある。
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