やっぱり残るは食欲
やっぱり残るは食欲

再現味

執筆者:阿川佐和子 2025年11月8日
タグ: 日本
エリア: アジア
チキンカツの中にバターソースなどが入っている「キーウ風カツレツ」(写真はイメージです)

 以前、この連載でキーウ風カツレツについて書いた。ウクライナ戦争が始まってまもなく、悲惨なニュースが流れるたびに心を痛めつつ、ふと思い出したのである。昔々、食べた記憶のあるチキンカツのことを。その名もキエフ(当時)風カツレツ。そのカツをいつ、どこで食べたのか。まったく思い出せなかったのだが、チキンカツの中からバターソースがとろりと溢れる瞬間の驚いた感覚と、キエフという名前だけは脳裏に焼きついていたらしい。

 その後あれこれ調査した結果、それは、今から七十年近く前に父がパリのロシア料理店で出合い、「長い生涯に私が最も旨いと思ったカツ」と言わしめたものであったことが判明した。父の著書『食味風々録』に記録されていた。父は帰国後、母にそのカツレツをつくらせてみたが、母がつくったキエフ風カツレツは期待に叶わなかったのか、その後、我が家の食卓に登場することはなかったように思われる。それでも当時の私(たぶん五、六歳)にとっては衝撃的な味だった。「キエフ」という街が地球上のどこに存在するのか知らないうちから、チキンカツの名前として記憶に留めていたのである。

 そのカツの出自も味も承知していた両親は亡くなり、かつて父が訪れたパリのロシア料理店へ味を確かめに行くわけにもいくまい。

 こうなったら自分でつくろう。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
阿川佐和子(あがわさわこ) 1953年東京生まれ。報道番組のキャスターを務めた後に渡米。帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。『ああ言えばこう食う』(集英社、檀ふみとの共著)で講談社エッセイ賞、『ウメ子』(小学館)で坪田譲治文学賞、『婚約のあとで』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。他に『うからはらから』、『レシピの役には立ちません』(ともに新潮社)、『正義のセ』(KADOKAWA)、『聞く力』(文藝春秋)など。
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