Bookworm (76)

藤原緋沙子『龍の袖』

評者:縄田一男(文芸評論家)

2019年10月5日
タグ: 中国 ドイツ 日本
エリア: アジア

龍馬を生涯想い続けた武家娘「佐那」を“凛として”描く

ふじわら・ひさこ 高知県生まれ。『隅田川御用帳』シリーズで歴史時代作家クラブ賞シリーズ賞受賞。他、代表作に『渡り用人片桐弦一郎控』、『人情江戸彩時記』等。

 本当の武家の娘を描くのはむずかしい。描き過ぎてもいけないし、ことば足らずでもいけない。ちょうどいい按配の中に、凜とした佇まいを読者の胸中に刻印する。
 私がこんなことを書いたのも、この1巻の主人公が、坂本龍馬を生涯想い続けた北辰一刀流千葉道場の主・千葉定吉の二女・佐那だからである。
 龍馬への愛は、当然のことながら佐那の視点から描かれるが、その立居振舞から言動まで、いまここまで武家の娘を完璧に描けるのは藤原緋沙子しかいないだろう。
 題名にある“龍の袖”とは、佐那が仕立てるはずだった龍馬の袷の袖――そこには、龍馬の家紋である桔梗紋が縫い込まれており、真ん中を幅一寸ほどの美濃紙で巻き止めた、佐那の艶のある黒髪をそれで包んであった。すなわち、2人の愛の証しである。
 そして佐那は、この袖を30年間想い続けるのだ。
 この1巻における2人の純愛については、むしろ、これだけ書けば足りる、という気がしないでもない。完璧なものをいくら完璧だと繰り返しても、それは、読者を鼻白ませるばかりだからだ。
 さらに魅力的に描かれているのは、脇の登場人物である。たとえば土佐勤王党の武市半平太は颯爽と登場するが、その部下、“人斬り以蔵”こと岡田以蔵のことを佐那は、「――この人の身体からは死の臭いが漂っている」と思ったものの、次の場面では「佐那は門に向かった。開いたままになっている門を閉めようとしたのだ。/だが、門に手を掛けてふっと表を見て、息を詰めた。/以蔵が二間ほど先の塀の際で泣いていたのだ。二の腕を目に当てて、以蔵はむせび泣いていた。/佐那は門の陰に身を隠した。そして思った。/――あのような人は他にもいるはずだ。殺し合いは身分の低い者がやらされる。/いつの世も、身分の低い末端の者が犠牲者になるのだと――」と考えざるを得ない。
 たまらないではないか。
 私は本書に登場する脇の人物の中では、この岡田以蔵がいちばん好きだ。
 そして、佐那の慈愛は、坂本龍馬の正妻に収まってしまったお龍にも注がれていく。「――お龍という人も維新の犠牲者かもしれない……」と。
 そして、約3分の1を費やして書かれる、龍馬の死後の佐那の凜とした生き方も変わらない。

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