関税合意後の経済安全保障、核心は何か

執筆者:鈴木一人 2025年8月1日
エリア: グローバル
日米関税合意は世界的なインパクトを持つものになった[米国の関税措置に関する総合対策本部に臨んだ石破首相(右から2人目)、赤沢再生相(右)ら=2025年7月25日、東京・首相官邸](C)時事
日米間の関税の増分は為替変動で吸収される程度に収まった。5500億ドルの対米投資は即座の影響があるとは言えないだろう。一方で、トランプ関税は経済が「武器化」される時代をついに本格的にスタートさせた。日本は米中の経済対立や、それに伴う関税・輸出管理の影響を可能な限り低める措置が必要となる。すなわち、「戦略的自律性」の確保と「戦略的不可欠性」の構築だ。

 参議院選挙で大敗した石破茂政権ではあるが、選挙の翌日、赤沢亮正経済再生大臣が訪米し、8回目の関税交渉に臨んだ。8月1日に相互関税が発動され、米国への輸出には25%の関税が課される予定となっており、実質的に関税発動前の最後のチャンスであった。交渉の見通しは必ずしも明るいとは言えない状況で、急転直下、関税合意が成立することとなり、日本だけでなく、世界が驚く結果となった。そして日米関税合意は、その後のEU、韓国との関税交渉のベンチマークとなるなど、世界的なインパクトを持つものとなった。

 果たして、この合意は日本経済にとって、また世界の経済秩序にとってどのような意味を持つものなのであろうか。

トランプ関税の意図はどこにあるのか

 まず、なぜドナルド・トランプ大統領がここまで関税に固執するのかを整理しておこう。第一次トランプ政権でも、関税は米国の戦略的目標を達成する手段として活用されていた。しかし、それは主として中国からの製品の流入に対して適用されており、いわゆる「米中関税戦争」という形で4度にわたる、関税品目の拡大によって中国に圧力をかけ、最終的に第4弾の関税の発動を前に合意が成立した。この時は、関税率をめぐる交渉というよりは、関税をかける対象品目をめぐる交渉であり、対象国が中国に限定されているという特徴があった。なお、当時の関税は現在も有効である。

 第一次政権における対中関税交渉は、結果として米中対立を解決したわけでもなく、中国製品の米国市場への流入を止めたわけでもなかった。中国製品はベトナムやメキシコを経由して米国に向けて輸出され、中国からの対米輸出は減りつつも、東南アジアなどへの輸出は増加した。その意味で、米中貿易戦争は、全体の構造を大きく変えることはなく、米国の対中貿易依存は継続された。

 こうした状況の中で、第二次トランプ政権は、当初、カナダ、メキシコ、中国に対して、違法薬物であるフェンタニルの輸出を主たる理由として関税をかけた。さらに4月2日の「解放の日(Liberation Day)」関税では、世界中のほぼすべての国(どういうわけか、ロシアや北朝鮮、キューバなど制裁対象国は除外されていたが)に対して関税をかけることとなった。その後、債券市場において米国債の価格が急落したことを受け、急遽、90日間の関税適用停止となったが、第二次政権において、関税は対中政策の一環ではなく、異なる目的をもって課されていることは明らかである。

 では、その意図はどこにあるのだろうか。トランプ大統領は繰り返し、貿易赤字の解消をその理由に挙げる。米国の製造業は衰退の一途であり、鉄鋼や造船といった重厚長大産業は壊滅的な状況にある。米国の象徴であった自動車産業も厳しい状況だ。米国の製造業を復活させるためには、他国の市場を解放し、米国製品の輸出を強化することが急務との認識がある(ゆえに関税発表の日を「解放の日」と名付けた)。

 とりわけ、一部の産業は戦略的に重要な産業として保護することも、関税政策(特に通商拡大法232条に基づく物品別関税)の目的であろう。鉄鋼・アルミは50%、自動車・自動車部品は25%がすでに執行され、8月1日から銅製品(市場の圧力を受け世界で主に取引される精錬銅は除かれることになった)に50%の関税をかけることとなっている。これら戦略的物資に関しては、米国内での生産を維持すべく、競争力がない企業を保護することを目的として関税がかけられる。

 また、関税をかけることで、他国に移転した製造拠点を米国内に呼び戻すべく、米国向けの投資を誘致することが期待されている。関税によって輸出が困難になれば、生産コストが高くても、米国内での生産をする合理性が高まるという算段である。これは経済安全保障の議論で出てくる「戦略的自律性」を向上させる試みでもある。新型コロナのパンデミック期間に、輸入に依存していた物資の供給が停滞したことで、米国は深刻なサプライチェーンの脆弱性を抱えることが認識されるようになった。その脆弱性を解消するために、米国内での生産を奨励し、可能な限り全ての物資において自律的な生産を可能にし、他国への依存を減らすことが経済安全保障、すなわち国家安全保障にとって重要な課題であるとの認識が高まった。

 このように、他国の市場開放による貿易赤字の解消、戦略的産業の保護、米国向け投資の誘致と戦略的自律性の確保が、トランプ関税の主たる目的だと考えて差し支えないだろう。

日米関税交渉はなぜまとまったのか

 トランプ関税の目的が上記のようなものであれば、自国の利益を守りながら、相手の目的に沿う提案をするのが、交渉の常道である。日本にとって、交渉の「本丸」ともいえる自動車産業の利益を守ることが最重要課題であり、その利益を守ることを優先しながらの交渉となった。

カテゴリ: 経済・ビジネス 政治
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執筆者プロフィール
鈴木一人(すずきかずと) 東京大学公共政策大学院教授 国際文化会館「地経学研究所(IOG)」所長 1970年生まれ。1995年立命館大学修士課程修了、2000年英国サセックス大学院博士課程修了。筑波大学助教授、北海道大学公共政策大学院教授を経て、2020年より現職。2013年12月から2015年7月まで国連安保理イラン制裁専門家パネルメンバーとして勤務。著書にPolicy Logics and Institutions of European Space Collaboration (Ashgate)、『宇宙開発と国際政治』(岩波書店、2012年サントリー学芸賞)、編・共著に『米中の経済安全保障戦略』『バイデンのアメリカ』『ウクライナ戦争と世界のゆくえ』『ウクライナ戦争と米中対立』など多数。
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