ドーハ空爆が示すネタニヤフ政権「軍事的勝利」の破綻したリアリズム――交渉と安定の可能性を自ら閉ざす理由は何か

執筆者:松本太 2025年9月18日
エリア: 中東 北米
ドーハ空爆に対してトランプ米大統領は不満を露わにした[イスラエルを訪れたマルコ・ルビオ米国務長官(奥)とともにユダヤ教の聖地「嘆きの壁」に立つネタニヤフ首相(手前)=2025年9月14日、イスラエル・エルサレム](C)EPA=時事
ネタニヤフ政権の戦略は、従来の「戦争を交渉有利化の手段」とするリアリズムから逸脱し、イランやハマースなど交渉相手の完全排除と一方的支配を目指す方向に転換している。9月9日のドーハ空爆はその象徴であり、人質交渉を頓挫させ、仲介役のカタールや同盟国である米国との関係を悪化させ、国際法違反として国際的孤立を招いた。この戦略の背景には、「大イスラエル」実現を追求する宗教右派の強い影響がある。短期的な軍事勝利は得られても、長期的には紛争の恒常化、地域の不安定化、ひいてはイスラエル自身の国益を損なう可能性が高い。

 最近のイスラエルによるイラン、イエメン、ガザなどにおける一連の軍事行動は、イスラエルの敵との交渉の可能性を狭めるばかりではなく、交渉相手そのものを完全に排除しようとしていることを示している。特に今回9月9日に、人質解放を目指した交渉を頓挫させうるにもかかわらず、イスラエルが仲介者であるカタールにおいて、米国、ドナルド・トランプ大統領本人への十分な事前相談もなくハマース幹部を狙ったことは、こうしたベンヤミン・ネタニヤフ首相の意図をよく教えてくれている。

 そもそも、パレスチナにおけるハマースの台頭の最大の要因は、PLO(パレスチナ解放機構)主流派ファタハを弱体化させ、パレスチナ国家樹立の可能性を排除・遅延させるため、イスラエルがカタールの協力を通じて行ってきた事実上の支援にある(注:例えばニューヨーク・タイムズ記事の指摘を参照“‘Buying Quiet’: Inside the Israeli Plan That Propped Up Hamas”)。イスラエルのドーハ空爆は、2023年10月7日以降、こうした不都合な真実がイスラエルにとって有害なものとなり――無論、十分に計算に入れてはいたであろうが――完全に裏目に出たことに起因している。

 当然ながらイスラエルは、カタールの怒りのみならず、トランプ大統領の不興までかうことになった。この事案が示すのは、一言でいえば、ネタニヤフ首相によるイスラエルの軍事的勝利の追求が、同盟国である米国との外交関係を含め、あらゆる外交的コストを平然と無視し始めたという事実である。さらに踏み込んで言うならば、ネタニヤフ政権は、イスラエルが本来選択すべき「リアリズム」の合理性を超えて、むしろ、その破綻を招きかねない方向にまで舵を切っているという実像である。

 本稿では、事件の経緯と国際社会の反応を整理するとともに、リアリズムに基づく歴代のイスラエル政権の軍事戦略からネタニヤフ政権が逸脱しつつある姿を描くことで、イスラエルの新しい戦略の本質とその深刻な意味合いを明らかにしてみたい。

カタールの怒りとアメリカの不興

 2025年9月9日、イスラエル軍のF-15戦闘機8機とF-35戦闘機4機は紅海を目指して飛んだ。その後、一部の戦闘機がカタールの首都ドーハにある、ハマースの政治指導部が滞在する建物に向けて、サウジアラビア上空を越える形で空中発射弾道ミサイルを撃ち込んだ。ハマース幹部はこの建物の中で、米国主導の停戦、人質交換交渉を準備中だったとされる。しかし結果は、ハマースのトップであるハリール・アル・ハイヤを含め幹部たちは生き残り、カタール治安当局の22歳のオフィサーと、ハマース幹部の部下5人が殺されることとなった。一言で言えば、軍事作戦としては明らかに失敗に終わった。

 カタール首相、シェイク・ムハンマド・ビン・アブドルラフマン・アル・サーニは、 CNNのインタビューにおいてイスラエルの今回の行動に呆然とした表情を露わにし、イスラエルの空爆を、「国家テロ」(state terror)であると呼び、「ドーハでの攻撃は人質解放のいかなる希望も潰した」と強く非難した。

 ムハンマド首相はまた、ネタニヤフ首相がカタールにいるハマース幹部を「排除するか、さもなければ国際法に則って裁かれるべきだ」と発言したことに対して、ネタニヤフ首相こそが裁かれるべきであると応答している。さらに、「ドーハという仲介地での動きは中東の平和プロセスを危険に曝す」と述べ、近隣アラブ諸国にも“地域的な対応”を検討するよう呼びかけている。 

 これに対して、ネタニヤフ首相は、この攻撃について、「テロリスト指導者の暗殺未遂であり、国家の安全保障上避けられない行動」であると弁護し、ドーハに逃れていたハマース幹部らに対して「もし生きていたら次は逃がさない」と明言している。 

 この空爆は、アメリカとイスラエルの関係にもひびを入れた。トランプ大統領は、「あらゆる面で非常に不快だ」(”I was very unhappy about it, unhappy about every aspect”)と述べ、イスラエルへの不満を表した。ホワイトハウスのキャロライン・レヴィット報道官は、「主権国家であり、和平をもたらすために我々と共にリスクをとっている、我々の近しい同盟国であるカタールにおける一方的な攻撃は、アメリカとイスラエル双方の目標を前進させるものではない」と述べ、苦渋の滲む表現ながらイスラエルを明確に批判した。

 米当局者によると、イスラエルがハマース攻撃について米軍に通知したのは、作戦実行の数分前で、イスラエル側は当初、標的に関する詳細を提供しなかったという。しかし米軍は、赤外線の熱信号を検知する米国の赤外線衛星システムがミサイル発射とその軌道を捉え、目的地がドーハであることを確認したとされる。トランプ大統領は、結局、イスラエルではなく、米軍によって事態の詳細を知らされることになったわけだ。

 トランプ大統領は、ネタニヤフ首相との電話会談で、「再びカタールにおいてこうしたことが起きないように」という保証を求め、イスラエルに対して非難以上の「重い警告」を突きつけた形となっている。 

 これに対して、ネタニヤフ首相は、今回のドーハでのハマース幹部攻撃を、アメリカがオサーマ・ビン・ラディンをパキスタンで取り除いたことと同様であるとの比喩を用いて正当化し、イスラエルに対する米国の不興すら歯牙にかけない態度を見せている。

 ドーハ空爆でイスラエルはどのような外交的失態を重ねたか

 整理するならば、イスラエルは、今回のハマース幹部を狙ったドーハ空爆の結果、以下のような点で外交上の重大な失態を重ねたと言ってよいだろう。

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カテゴリ: 政治 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
松本太(まつもとふとし) 一橋大学国際・公共政策大学院教授 1965年生まれ。東京大学教養学部アジア科卒業後、1988年外務省入省。在エジプト大使館参事官、内閣情報調査室国際部主幹、外務省情報統括官組織国際情報官、駐シリア臨時代理大使兼シリア特別調整官、在ニューヨーク総領事館首席領事、駐イラク特命全権大使を歴任後、現職。著書に『ミサイル不拡散』(文春新書)、『世界史の逆襲 ウェストファリア・華夷秩序・ダーイシュ』(講談社)等がある。【X】https://x.com/futoshi_japan【HP】https://salmon664262.studio.site
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