ロシア毒殺未遂事件の全容を報道が暴いた:米新政権にインテリジェンスの課題

ナワリヌイ氏が偽名で自ら工作員に電話し、49分にわたって聞き取りした(『べリングキャット』HPより)

 

 調査報道が情報機関を超えた。

 というのは、ロシアの反政府運動指導者、アレクセイ・ナワリヌイ氏毒殺未遂事件を暴いた英国の民間調査報道グループ『ベリングキャット』の調査報道のことだ。彼らは、ロシア情報機関、連邦保安局(FSB)が起こした事件の全容を暴き、世界を驚かせた。

 後述するように、欧米情報機関もなし得なかった取材方法によって、FSBの秘密工作を明らかにし、その成果を報道したのである。

 それは、スパイを使った人的情報(HUMINT)活動でもなく、盗聴などで得た通信情報(COMINT)や信号情報(SIGINT)でもなかった。公開情報を基本に据えた通常の取材から一歩前進したオープン・ソース・インテリジェンス(OSINT)の進化型と言えるかもしれない。

 米外交誌『フォーリン・ポリシー』は「ベリングキャットは、米国のインテリジェンス機関ができないことをしたと言える」と高く評価する。今後、こうした情報収集が対中国工作にも適用できるかどうか。米国にとっても日本にとっても、大きい課題が突き付けられた形だ。

18機関になった米情報コミュニティ

 ジョー・バイデン米大統領は就任直後、アブリル・ヘインズ国家情報長官(DNI)に対し、ロシアの情報工作について「インテリジェンス評価」レポートを提出するよう指示した。大統領が調査を求めたのは(1)2020年米大統領選へのロシアの介入(2)ナワリヌイ氏毒殺未遂事件(3)米兵を殺害したタリバン勢力に対するロシアの報奨金支払い(4)ロシアの大規模な対米サイバー攻撃――の4件。いずれも、ドナルド・トランプ前大統領がまったく問題にせず、米国は公式的には対応を見送っていた深刻な問題だ。

 だが(1)と(3)は従来型の工作であり、技術的にも前代未聞の大きな脅威とは言えない。他方、(2)と(4)は従来のインテリジェンス工作を劇的に変化させた事件であり、バイデン政権の適応能力が問われている。

 トランプ前政権下で士気が落ちていた米情報機関がこの2件について、新機軸を打ち出せるかどうか。新結成の宇宙軍情報部の加入で、「18情報機関の構成」に拡大した米インテリジェンス・コミュニティ(IC)の能力が問われている。まず(2)はどんな事件だったのか、報道内容を検討してみたい。

「闇のデータ市場」で乗客名簿など入手

 OSINTとは、公開された情報をインテリジェンスに活用する方法のことである。

 ナワリヌイ氏が2020年8月20日に毒物が入った飲み物を口にして倒れた事件は、欧米の情報機関による真相解明が遅れる中、『ベリングキャット』はOSINTを利用した独自の取材で、約3カ月後に全容を報道した。その事実に欧米の主要報道機関も驚いた。

『ベリングキャット』は「ファクトチェック」とOSINTを基本方針に据えた英国の民間調査報道機関。2014年に英国のジャーナリスト・ブロガー、エリオット・ヒギンズ氏が設立した。これまで、シリア内戦での化学兵器使用やマレーシア機のウクライナでの墜落事故の真相報道などで成果を挙げ、多くの賞を受賞してきた。欧米の基金、財団からの資金援助のほか、個人からの寄付も集めて運営されている。

 ナワリヌイ氏が倒れ、意識を失ったのは、西シベリアのトムスク空港発モスクワ行きの旅客機の中。急きょ別のオムスク空港に緊急着陸して入院したが、回復せず、同22日ベルリンの病院に移送された。9月2日、ドイツ政府が神経剤「ノビチョク系」の毒物が使用されたと公表。トムスクのホテルで口に入れた飲み物のペットボトルに混入していた、と伝えられている。

『ベリングキャット』は12月14日、パートナーの米テレビ『CNN』やドイツ誌『シュピーゲル』などとその取材結果を報道した。

 ナワリヌイ氏は病状が回復し、年明け1月に帰国して逮捕され、現在は公判中だ。

『ベリングキャット』によると、取材のスタートは、旅客機の「乗客名簿」を入手したことだった。2017~2020年の間、ナワリヌイ氏はロシア各地を何十回も遊説して回った。

 国内情報機関FSBの工作員たちはナワリヌイ氏を追尾するのに、通常は同じ便での同乗を避け、違う時刻に同じ空路を利用するだろう。少し前に現地に到着して現地で彼の到着を待ち、モスクワへの帰路は少し後に乗機する、との仮説に基づき、乗客名簿を入手した。その結果工作員たちは30回以上、ナワリヌイ氏を追尾していたことが分かった。その他、携帯電話のメタデータから位置情報なども得た。

 どのようにして入手したのか。ロシアには、ネット上に「闇のデータ市場」がある。「探偵局」を名乗る無名の「データブローカー」などに依頼して、乗客名簿やFSBおよびロシア軍参謀本部情報総局(GRU)将校らの電話記録なども入手できる。かくして、FSBの現場工作員8人の名前と所属、写真も得た、というのだ。その中には生物化学兵器の専門家もいた。

FSB、GRUの海外工作まで追跡

 金で情報を買うため、報道倫理違反と言われるかもしれない。しかし、現実には数百ユーロ(約数万円)しかかからなかった。この程度だとデータベースの「Lexis Nexis」の使用料とそれほど変わらず、問題はない、というのが彼らの見解だ。

『ベリングキャット』はこの取材で、ノビチョク系毒物の研究開発を続けているサンクトペテルブルクの「GNII VM」、モスクワの「SC Signal」という研究所の存在も突き止め、「ロシアによる化学兵器プロジェクト」を取材できたとしている。

 これは明らかに化学兵器禁止条約違反であり、ロシアに対して制裁を科す証拠となる。民間のOSINTによる調査報道で、重大な戦略情報を得たことになるのだ。

 独裁的かつ閉鎖的なロシアで、なぜこうした情報が得られたのか。

『ベリングキャット』は指摘する。第1にロシア政府のデータ管理がずさんなこと、さらに、「プチ腐敗」が蔓延していて、身の回りでたやすく得られる情報を簡単に売る者がいるというのだ。かくして、「FSBやGRUのロシア国内から海外への工作、さらに要員の特定もできる」と『ベリングキャット』は言う。

大統領から現場工作員に至る指揮系統図

 細部にこだわったしつこい取材がFSB秘密工作の詳細から対ロシア戦略情報まで明るみに出した。『ベリングキャット』はウラジーミル・プーチン大統領から現場の工作員に至る指揮系統図まで作成している。

 ロシアの「腐敗状況と政府のゆるんだ管理体制」を逆手に取って情報を入手すれば、独裁政権に対抗できる、という現実を示したのだ。

 こうした手法は、法的な疑問が残るにせよ、一般のロシア市民も行っている情報収集の方法であることから、一種のOSINTと言えるだろう。

 こうした活動は、これまでスパイ工作をHUMINTに頼ってきた欧米の情報機関に刺激を与える可能性がある。次は中国に対する情報工作に応用できるのかどうか、注目される。

偽名で工作員に電話したナワリヌイ氏

 また、ナワリヌイ氏自身が療養中のドイツから偽名でFSB工作員に電話をかけていたことも明らかにした。

 彼は、「ニコライ・パトルシェフ安全保障会議書記の補佐官マクシム・ウスチノフ」という実在を確認もしていない人物になりすまし、工作員に電話して「毒殺に失敗した理由」を口頭で報告してほしい、と偽って会話したという。

 毒殺工作の主要メンバーに電話をかけたが、ほとんどは相手にされず、直ちに電話を切られた。話すことができたのは2人。うち1人には「新型コロナウイルス感染のため話ができない」と断られた。

 49分間にわたって、工作の内容を詳しく話してくれたのはコンスタンチン・クドリャフツェフという生物化学兵器専門の工作員だけだった。彼はノビチョク系神経剤の証拠を残さないよう、現場を清掃するため、オムスクに派遣されていた。

『ベリングキャット』の報道によると、残存していたノビチョク系の神経剤を検出したことに関する会話部分の骨子は次の通りだ(N:ナワリヌイ、K:クドリャツェフ)

N:衣服のどの部分に注目したか?

K:下着のパンツ。

N:どの部分が最も濃度が高い?

K:内部の股の部分だ。

 この会話からして、工作員はナワリヌイ氏が入院した病院で彼のパンツを調べ、股の部分の内側で、高い濃度のノビチョク系神経剤を検出したのであろう。

 この電話作戦は、ナワリヌイ氏自身が提案したが、偽名で相手を騙した電話の是非について、『ベリングキャット』内では報道倫理に関する議論があった。しかし、ナワリヌイ氏はいわゆる取材活動をするわけではなく、公益が優先されるとして認め、記者も同席して電話したという。

異次元の大規模なサイバー攻撃

 他方、(4)の件は米国にとって非常に厄介な事件だ。ロシア情報機関が、世界最高のサイバー技術を持つとみられていた米国家安全保障局(NSA)・サイバー司令部の防御網に探知されないまま突破していたのに、約9カ月間誰も事件に気付かなかった問題だ。

 米大統領選挙1カ月後の2020年12月8日、サイバーセキュリティ大手の「ファイア・アイ」が、自らも攻撃を受けた、と発表して発覚した。

 国務省、財務省、商務省、エネルギー省などの米政府および民間企業を合わせて250カ所ものネットワークが攻撃を受けた。現在も、FBI(米連邦捜査局)と国土安全保障省が調査中だ。

 ロシア対外情報局(SVR)の「APT29」とか「コージーベアー」と呼ばれるハッカー組織か、あるいはGRU傘下の組織による犯行とみられ、約1000人もの高度なハッキング技術者が動員された最大規模の工作と推定されている。

 その手法は、ネットワーク管理ソフト大手のソーラーウィンズ社が2019年に更新したプログラムに埋め込んだウイルスを通じてシステムに侵入するという巧みな作戦だった。

 攻撃は2020年3月から12月まで続いたが、サイバー防衛を担当するNSAやサイバー司令部は気付いていなかった。NSA・サイバー司令部がサイバー攻撃を探知するため外国の情報ネットワークに設置した「早期警戒」のセンサーも機能しなかった。NSA局長の日系ポール・ナカソネ大将は未だに何のコメントもしていない。それほどショックが大きかったとみられる。

 何が窃取されたか不明で、単なるサイバースパイ工作が目的か、政府組織・大手企業、電力線、あるいは次世代核兵器の開発・輸送機器に「バックドア」を設置するのが目的だったのか、目的も解析できていない。

 上院情報特別委員会のマーク・ウォーナー新委員長も「私が最初に恐れたことよりずっとずっと悪い状況」と驚いている。まさに、これほど異次元のサイバー攻撃は前例がなく、ICは早急な被害実態の解明と対策を求められている。

異色の新国家情報長官

 では、バイデン政権は以上のような問題にどう対応するのか。

 女性で初めて国家情報長官に就任したヘインズ氏は異色の人材で、大統領の期待を背負う。

 ヘインズ氏は高校卒業後、進学せずに来日、講道館で1年間柔道を習った経験がある。帰国後、シカゴ大学で理論物理を学び、ジョンズホプキンズ大学博士課程に進んだが中退、ボルティモアでカフェ付き書店を開き、その後ジョージタウン大学法科大学院を出て、オバマ政権で国務省法律顧問室、CIA(中央情報局)副長官、大統領副補佐官を歴任した。調整役として機転が利くと定評があるが、ICのトップとしての力量は未知数だ。

 また、大統領は新CIA長官に、元国務副長官で駐露大使も務めたベテラン外交官、ウィリアム・バーンズ氏を充て、国家安全保障会議(NSC)の正式メンバーに規定して、情報活動重視の姿勢を示した。

 推定総数約20万人と言われるICの構成要員は、トランプ前大統領に痛めつけられたことから、士気の高揚がまず求められている。

対中情報活動はマイナスからの出発

 対中国戦略の立案作業はまだ、大統領が関係省庁に検討を指示したばかりで、まとまるまでになお相当の時間を要する。

 しかし、バイデン政権にとって、対中情報活動はマイナスからのスタートになる。CIAの中国における「スパイネットワーク」は一時「壊滅」(拙稿『CIAの「中国情報網」が壊滅か:中国系元工作員に疑惑』2018年2月2日)した。

 また中国による対米サイバー攻撃で「米国民の約半分の個人情報が盗まれた」(拙稿『米次期政権「対中インテリジェンス態勢」強化へ:中国は米国民44%の個人情報を握る』2020年11月25日)と言われる。

 米国の対中戦略の成否は情報活動の立て直しにかかっている。『べリングキャット』がロシアに対して行ったような新しい手法が必要かもしれない。

 

カテゴリ: IT・メディア 政治 社会
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執筆者プロフィール
春名幹男(はるなみきお) 1946年京都市生れ。国際アナリスト、NPO法人インテリジェンス研究所理事。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授、早稲田大学客員教授を歴任。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『米中冷戦と日本』(PHP)、『仮面の日米同盟』(文春新書)などがある。
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