
エジプト国境に近いラファ。イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相がこの戦略的要衝を全面攻撃して、決着を付けるのは容易ではない。この戦略に反対するのは、米国のジョー・バイデン米政権だけではない。自国の軍隊さえ消極的で、国際司法裁判所(ICJ)はラファ軍事攻撃の「即時停止」を求めている。
ICJが挙げるのは人道的理由だ。だが、米国や自国内の反対派は、戦後の計画を立案しないまま「ハマス制圧」を進めれば、混乱の深刻化を招くだけだと警告。バイデン政権はサウジアラビアなどアラブ穏健派諸国とガザの戦後体制構築に向けて協議を重ねている。
では今後、どのような戦闘計画を進めるべきか。バイデン政権は「ハマス指導者の現在の居所をピンポイントで確認する機微なインテリジェンス」を提供する支援を提案している(『ワシントン・ポスト』)というのだ。
イスラエルは「戦後の西側世界で最も多くの暗殺を実行した」標的暗殺(targeted assassination)の強国だが、実は、ネタニヤフ首相はこれまでも暗殺に消極的で、対外情報機関モサドと対立してきた歴史がある。今後、ハマス指導者を標的にした暗殺カードを切ることになるだろうか。
ハマス4個大隊は民衆に紛れ込む
昨年10月7日にハマスがイスラエルを急襲、約1200人を殺害したのに対して、イスラエルは約8カ月間にわたりガザ全域を報復攻撃し続けた。その戦いぶりはまるで無差別攻撃で、さまざまな施設の70%もが破壊されたという。
ガザ側の死者は3万5000人を超え、そのうち戦闘員は推定1万3000人。犠牲者の3分の2近くが子供・女性を含む市民だ。
イスラエル軍側の死者は約260人、ガザ内で拘束されているイスラエル人の人質は約120人(『BBC放送』)と言われる。
ハマス側の戦闘員はラファの4個大隊(約2000人)に加えて、ガザ北部に4000~5000人が残存しているという。
イスラエル軍がラファへの全面攻撃を開始した場合、装備が劣る4個大隊は恐らく、正面衝突を避け、民衆の中に紛れ込んで、ゲリラ戦を展開する可能性が大きいとみられる。
このためイスラエル軍は、ラファでの戦闘でさらに多くの罪のない一般市民の死傷者を出す可能性があると懸念されているのだ。
長期化した対テロ戦争では米軍はイラクとアフガニスタンでゲリラ戦を強いられ苦戦した。ラファでも同じ失敗が懸念されている。
そもそもハマスに対する「全面的勝利など可能だとは思えない」(カート・キャンベル米国務副長官)ことをイスラエル首相は認識していないようだ。
ハマス幹部で死亡したのは副司令官だけか
イスラエルは対ガザ攻撃の開始に当たって、ハマスの壊滅と、全長500キロものトンネルの破壊、それに加えてハマスのガザ地区トップ3人の「捕獲か殺害」を目標に掲げた。
3人とは、昨年10月のイスラエル急襲の首謀者であるガザ地区最高指導者ヤヒヤ・シンワル氏、軍司令官モハメド・ダイフ氏、副司令官マルワン・イッサ氏。このうちイッサ氏だけが、今年3月にイスラエル軍がガザ中部のヌセイラト難民収容所の地下トンネルを攻撃した際、死亡した。
この米ホワイトハウスの発表が正しいとすれば、イッサ氏は標的として狙われ銃撃されたわけではない。イスラエルによる暗殺工作はまだ本格的に実行されていないようだ。
シンワル氏の動向を監視
暗殺工作に絡んで最も注目されるのは、最高指導者シンワル氏の動向だ。
イスラエルと米国の情報機関が彼の動きを綿密に探っている事実がこのほど、図らずも明るみに出た。先の停戦交渉にシンワル氏は、イスラエルの国際的名誉がズタズタにされ、同盟国である米国との関係にダメージを受けるほどに戦争を長期化させる、という戦略で臨んだという。恐らく、ハマスの交渉代表の口ぶりから、シンワル氏がそのような指示を与えていた、と判断したのだろう。
『ニューヨーク・タイムズ』はそんな情報をイスラエルと米国のインテリジェンス担当官から得た、と伝えている。
交渉現場とシンワル氏の間の連絡は「シンワル氏に伝えるのに1日、彼の回答を受け取るのに1日かかる」ことがあった、と米国筋とハマス筋が同紙に明らかにしたという。
では、シンワル氏はどこに滞在しているのか。「人質を人間の盾に使うため、人質の近くに潜伏している」とか、「昨年11月の一時休戦の際に解放された人質がシンワル氏を見たと証言した」、あるいは「今年2月にイスラエル兵がトンネル内で発見した監視カメラに、シンワル氏が家族とトンネルに逃げ込む動画が残されていた」といった情報が取りざたされている。
シンワル氏は、ハマスで「秘密警察」に相当する治安・防諜機関「総合治安情報部」を指揮下に置いてきた。
1980年代に、ハマスを裏切りイスラエルの協力者になった複数のパレスチナ人を殺害して終身刑の判決を複数回受け、計22年間投獄された。その間ヘブライ語を学び、イスラエル社会・文化の知識も得た。2011年に出所して、6年後にガザの最高指導者として、イスラエルの裏をかく工作を展開してきた。
イスラエル・米国の情報機関の動きにも通じており、ダイフ司令官と同様、捕獲・暗殺は容易ではない。しかし、暗殺された場合、ハマス側の痛手は極めて大きい。
首相と対立したモサド長官
他方ネタニヤフ首相は暗殺工作には消極的な態度をとり続けた。このためイランの核開発問題をめぐって、暗殺工作を展開した第10代モサド長官(2002~2011)のメア・ダガン氏(1945~2016)は首相と激しく対立した。
ダガン元長官は2011年1月8日、テルアビブ北部のモサド・アカデミーで離任会見し、首相に対する怒りをぶちまけた。「ネタニヤフ首相は自分自身のエゴで無責任に振る舞い、国家に災難をもたらす。選挙では選ばれるが賢明な人ではない」と非難した。
2002年に表面化したイランの核開発に対して、モサドはイランの主要な核・ミサイル技術者を特定、住所を突き止めた。彼らが職場に向かう自家用車に、バイクで並走した工作員が爆弾を仕掛けた。15人を狙い、そのうち6人を暗殺した。またミサイル開発の責任者とされるイラン革命防衛隊の将官を17人の部下とともに爆死させたこともある。
ダガン元長官らはこうした効果的な暗殺で核兵器の開発を止めることができると確信してきた。しかしネタニヤフ首相や当時のエフド・バラク国防相は、こうした秘密工作でイランの核プロジェクトを効果的に遅延させるのは不可能だと判断し、戦争を主張した。
冷戦期から続くモサドとCIAの緊密な関係
ダガン元長官らには彼らなりの哲学があった。「暗殺は全面戦争より道徳的」だというのだ。何人かの主要人物を押さえれば、戦争の選択は不要になり、数えきれないほどの双方の兵士および市民の命を救うことになる。イランへの大規模攻撃は中東全域の紛争につながる可能性がある。それでもイランの核施設を十分に破壊できないかもしれない。
実際、ダガン氏は首相の許可も得ないで、当時のレオン・パネッタCIA長官にそんな戦略的思考を説明した。それを受けて、バラク・オバマ米大統領は直ちにネタニヤフ首相に「攻撃するな」と戦争反対を表明したという。
モサドとCIAの関係は近い。
モサドに詳しい『ニューヨーク・タイムズ』のローネン・バーグマン記者の著書(Ronen Bergman, Rise And Kill First, Random House, 2018)によると、モサドとCIA は1956年以来の関係のようだ。この年2月14日からのソ連共産党第20回大会を前にした中央委員会幹部会でヨシフ・スターリンを批判したニキータ・フルシチョフ第一書記の秘密演説のテキストをいち早く入手したモサドがそのフルテキストをCIAに提供、アレン・ダレスCIA長官からドワイト・アイゼンハワー大統領に渡され、大統領の指示で同紙にリークして米国民に詳しく伝えられ、モサドの評価が高まったという。
それを機に、米国とイスラエル情報機関の緊密な関係が今日まで続いている。筆者が2008年に東京でランチを共にした第9代モサド長官エフライム・ハレビー氏もそんな事実を肯定した。
3000人の標的を暗殺
モサドが標的暗殺を重視してきた事実は、イスラエル建国の歴史でもたどることができる。ユダヤ人たちがシオニズム運動の高まりでパレスチナの地に戻り始め、1920年にユダヤ人自治組織、1931年に強硬派の民族軍事機構、1941年には英国の委任統治機関が「テロ組織」とみなした過激な地下組織が形成された。これら組織が、イスラエル建国に向けて英国治安機関員らを標的に暗殺する事件も起きた。
建国後、イスラエル首相の座に就いたメナへム・ベギンやイツハク・シャミルらは実際に標的暗殺にかかわった歴史がある。過激派組織イルグンを率いたベギン元首相に関する情報提供を求める懸賞金付き手配書がバーグマン記者の著書のグラビアに掲載されている。
イスラエル建国につながる激烈な歴史にはそんな事実が秘められている。標的暗殺はシオニズム運動の革命的ルーツにその根源があるようだ。
では、イスラエルはこれまで、どれほどの標的暗殺を行ってきたのか。バーグマン記者はドイツ週刊誌『シュピーゲル』に全部で3000人との推計を明らかにしている。
その内訳は2000年9月の第2次インディファーダ(反イスラエル闘争)の前までで約1000人。「自爆テロ」に対してイスラエルが初めて武装ドローンで標的殺害を行ったインティファーダで168人。それ以後2007年までで約800人としている。
米国の対テロ戦争で、ジョージ・ブッシュ政権(子)が標的殺害件数48件、CIAのドローン操縦により標的を狙ったオバマ政権が353件。オバマ政権時、米国籍を持つテロリストを殺害して、訴えられたケースがあったが、「戦時」を理由に勝訴した。
シリアではCIAとモサドの共同作戦も
2008年には、CIAとモサドが共同作戦で、イスラム教シーア派組織の国際工作部門トップ、イマド・ムグニヤ氏を殺害したことがある。シリアの首都ダマスカスに陣取ったCIAの追跡班がテルアビブのモサド工作員に連絡、ムグニヤ氏が自分のSUVに近づいた瞬間、スペアタイヤに仕掛けた爆弾を炸裂させた。
冒頭で紹介したように、ガザで米国が標的となるハマス幹部の情報を提供して、現実にCIAとモサドの共同作戦が実行されるのかどうか。そもそも、ハマス幹部の動向に関してCIAがどれほどの機微情報を掌握しているのか、など詳細は明らかではない。
戦後統治でハマスを排除できるか
ラファ攻撃でさらに多くの一般市民に犠牲者を出してゲリラ戦の泥沼に陥るのを避け、標的暗殺でハマス幹部を狙うべきだとするバイデン政権の提案が成功するとは限らない。
その次の関門は、ガザの戦後統治に向けてハマスを排除できるかどうか。さらに、「パレスチナ国家」とイスラエルが共存する展望が開けるかどうか、と難問が続く。
同時に、バイデン政権はジェイク・サリバン大統領補佐官(国家安全保障問題担当)やアントニー・ブリンケン国務長官らを中東諸国に派遣し、多角的外交を展開している。
課題は4つある。第1に中東全域の安定化、第2にガザの戦後統治問題、第3にイスラエルとサウジアラビアの国交正常化、第4に米国とサウジとの相互安全保障条約締結だ。
いずれの問題も相互に関連するが、合意しやすい問題は第4点とみられる。恐らく米国からサウジに対する原子力発電への協力などの条件が整えば、両国は日米安保条約レベルの条約を締結するとみられる。ガザの戦後統治問題で進展がなければ、サウジ・イスラエルの国交正常化も含めて、中東情勢の安定化は先延ばしにされるだろう。
5月31日には、バイデン大統領が先に発表して、ネタニヤフ首相もその内容を認めた、3段階から成る「ガザ停戦・復興案」も、ネタニヤフ政権内で強い反対が表面化して、実現は当面難しそうだ。