7月にドイツ西部を襲った過去59年間で最悪の水害のために、連邦議会選挙では地球温暖化と気候変動が重要な争点となっている。保守政党キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)の支持率が下がり、緑の党との差が縮まりつつある。
100人を超える死者・行方不明者
正に想定外のモンスター水害だった。その異常さは、死者数に表れている。7月14日から2日間にわたってラインラント・プファルツ(RP)州とノルトライン・ヴェストファーレン(NRW)州を中心に発生した洪水では183人が死亡した。今回の水害の死者数は1962年の北海沿岸地域での洪水(約340人)に次ぐ。ドイツではエルベ川、ライン川、ドナウ川などの主要河川が時折氾濫してきたが、過去59年間には死者数が100人を超える水害は一度も起きていなかった。
インフラの損害も甚大だ。土石流は多数の煉瓦造りの家屋を倒壊させただけではなく、鉄道、道路、配電網、通信網をズタズタに寸断した。当初携帯電話もインターネットも使用不能になったために、救助作業は困難を極めた。濁流が道路の下の土砂を押し流したために、アスファルトに巨大な亀裂が生じ、水道管や配電線などが剥き出しになった。
多くの市民が一瞬の内に、住居と家財を失った。ある被災者は、「これが悪い夢で、誰かが私をつねって悪夢から目覚めさせてくれることだけを願っている」と語った。
7月18日に現場を視察したアンゲラ・メルケル首相は、記者会見で「現実の出来事とは思えない、恐るべき状況だ。ドイツ語にはこの惨状を形容できる言葉はない」と述べた。ある被災地の町長は、「私たちだけの力では、町を元通りにすることはとてもできません」と泣きながら首相に窮状を訴えた。
ドイツ保険協会(GDV)は7月27日、「建物・家財に関する支払保険金額は45億~55億ユーロ(5850億~7150億円・1ユーロ=130円換算)に達する見通しだ」と発表したが、この額は氷山の一角だ。ドイツの民家の内、洪水被害をカバーする保険がかかっているのは46%に留まっているからだ。鉄道や道路などインフラの復旧にはさらに費用がかかる。
このためドイツ連邦政府と州政府は8月10日に水害復興基金を創設し、300億ユーロ(3兆9000億円)の公費を復旧と被災者支援のために投じると発表した。被災地の復興には数年かかる見通しだ。
遅きに失した、対策本部の避難命令発出
死者数が異常に多かった背景には、人災の側面もある。英国レディング大学の治水学者ハンナ・クローク教授は、今回の集中豪雨に関するドイツ政府の対応について、「危機管理システムが、重大な機能不全を起こした」と厳しく批判している。
最も被害が深刻だったRP州のアールヴァイラー郡では、133人が死亡した。ドイツでは避難勧告を出す権限は、市や郡の首長が持っている。7月14日の午前11時47分には、RP州環境局が欧州水害警告システムからの通報により、アールヴァイラー郡の水害危険度を2番目に高い赤色に、17時17分には最も高い紫色に引き上げた。
同環境局は、14日の15時24分には、「通常水深が90センチのアール川で、水位が5メートルに達する」と警告。21時24分には6.9メートルという過去になかった水位に達すると郡の関係者に通報した。それまでアール川で過去に観測された最も高い水位は、約3メートルだった(2013年)。
アールヴァイラー郡のユルゲン・プフェーラー郡長と対策本部のメンバーは、これらの警告を受けていたにもかかわらず、23時9分まで住民に対する避難命令を出さなかった。この時点ではすでに多くの民家の1階部分が水没しており、多数の市民が逃げ遅れて濁流に吞まれた。同郡のある介護施設では、12人の居住者が溺死した。
プフェーラー郡長はメディアとのインタビューを拒否しており、避難命令の発出をためらった理由はわかっていない。コブレンツ地方検察庁は、避難命令の遅れが多数の死者につながった可能性があるとして、業務上過失致死傷の疑いで、郡長らに対する捜査を開始した。
災害警報システムの不備も
多くの被災者は、サイレンなどによる警報を聞かなかったと証言している。東西冷戦の時代には、ワルシャワ条約機構軍のドイツ侵攻に備えて、ドイツ全土にきめ細かくサイレンが設置され、時折訓練が行われていた。
だが冷戦終結後は、サイレンの数は大幅に減らされた。たとえば政府は去年9月に緊急事態に備えたサイレンのテストを全国で一斉に実施したが、警報を耳にした市民の数は、一握りに過ぎなかった(私も聞かなかった)。
ドイツには連邦市民保護・災害救助庁(BBK)の災害通報アプリ(NINA)や公共保険会社の緊急事態通報アプリ(Katwarn)がある。緊急事態には、スマートフォンにSMSで警報が送られる。だが、これらのアプリをスマートフォンにダウンロードしている市民の数は、12.9%にすぎない。政府は今回の水害の経験から、危険が迫っている地域の全てのスマートフォンにSMSによる警報を送る「セルブロードキャスト」というシステムの導入の検討を始めた。
メルケル首相は「気候変動が原因」と断定
ドイツでは、過去59年間に見られなかった「狂暴」な水害に、これまでの自然災害とは異質なものを感じている人が多い。「べアント」と命名された低気圧の特徴は、東西から高気圧に挟まれたため、移動速度が遅かったことだ。このため地中海で大量の水分を吸収した雨雲が、南フランス経由でドイツなど欧州中部に到達し、RP州とNRW州の上空で停滞して2日間にわたり豪雨を降らせた。ドイツ気象庁は、1時間に1平方メートルあたり40リットルを超える雨が降った場合を「極端な豪雨」と定義づけているが、7月14日にはアール川流域で、1平方メートルあたり147リットルの雨量が観測された。
政治家たちは、この災害が地球温暖化による気候変動の表れだという見方を早々に打ち出した。メルケル首相は被災地での記者会見で、「ドイツでの極端な豪雨、気象災害の頻度の高まりは、気候変動との関連を示唆している。したがって我々は、社会を気候変動に適応させる努力を強めなくてはならない。さらに中長期的には、これまで以上に自然と気候に配慮した政治を行わなくてはならない」と述べ、今回の大災害は気候変動の結果であるという見方を明確に打ち出した。
NRW州のアルミン・ラシェット首相(CDU)も被災地を訪れた際に「集中豪雨と干ばつが増えているのは、気候変動の結果だ。今回の水害のような事態は、将来も起こると考えるべきだ。我々は、全世界で気候変動に対処するための政策を速やかに実行しなくてはならない」と発言している。
この夏、欧州のメディア界では、連日のように気候変動に関するニュースが報じられている。7月以降熱波に襲われたギリシャ、トルコ、イタリア、ロシアなどでは森林火災が多発した。一部のリゾート地では炎が夜空を赤く染める中、観光客たちが海水浴場に接岸したフェリーで避難を余儀なくされた。8月11日にはイタリア南部のシチリア島で、48.8度という欧州最高の気温が観測された。
8月9日には国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が第6次報告書の中で「人間の活動が地球温暖化と気候変動を引き起こしていることは疑いがない」と述べ、これまでの報告書よりも断定的に、温室効果ガス(GHG)が世界中で起きている干ばつや水害の原因になっていると指摘。
IPCCは「2011~2020年の地表の気温は1850~1900年に比べて1.09度高くなった。1970年以来、地表の気温は過去2000年間に見られなかった速度で上昇している。1750年に比べて2019年の二酸化炭素の濃度は47%、メタンの濃度は156%増えた」と報告。その上で、「今後数十年間にGHG排出量が大幅に減らされない限り、地球の気温の産業革命前に比べた上昇幅は、21世紀中に2度を超えるだろう」と予測。IPCCの最も悲観的なシナリオ(2080年までGHG排出量が増加を続ける)によると、2100年の気温の上昇幅は3.3~5.7度に達する恐れがある。
IPCCが今回ほど直接的にGHGと気候変動を関連づけたことは、これまで一度もなかった。ドイツ連邦環境省のスべニア・シュルツェ大臣は、IPCCの報告書の公表を受けて「地球の生命は危機に瀕している。気候変動は未来のシナリオではなく、現実だ。ドイツで起きている水害、集中豪雨、干ばつはその徴(しるし)だ」と述べ、危機感を露わにした。
市民の間で気候変動に対する懸念が増幅
今回の水害や気候変動についての報道は、ドイツ市民の間で地球温暖化に対する危機感を増幅している。世論調査機関アレンスバッハ人口動態研究所の調査によると、水害が起きる直前(7月上旬)に「政府の気候保護対策は不十分だ」と答えた回答者の比率は41%だったが、水害後には54%に増えた。また今年1月に「気候変動に懸念を抱いている」と答えた人の比率は46%だったが、水害後には52%に増加。2013年にドナウ川などの氾濫によって洪水が起きた時には、「この洪水は長期的な気候変動の結果だ」と答えた人の比率は45%だった。だが今回の水害については、そう考える回答者の比率が62%と17ポイントも増えている。
こうした数字から、アレンスバッハ研究所は「気候変動が連邦議会選挙の重要な争点になる」と分析している。
実際、緑の党の低落傾向にブレーキがかかりつつある。5月中旬以降、緑の党の支持率は減少していた。その理由は、アンナレーナ・べーアボック首相候補が新著で他人の文章を無断で引用していた問題や、特別収入の申告漏れについて報道されたことや、同党がマニフェストの中で炭素税の急激な引き上げを提案したからだ。だが同党の支持率は、7月14日の水害以降、回復する兆しを見せている。アレンスバッハ人口動態研究所が7月28日に発表した支持率調査によると、緑の党の支持率は、18%から19.5%に増えた。逆にCDU・CSUの支持率は、水害が起こる前の週には31.5%だったが、水害後の調査では30%に減少した。
最大与党の首相候補が犯した「不謹慎」なミス
5月中旬まで上昇気流に乗っていた緑の党は、州首相などの経験が皆無のべーアボック首相候補の適性をめぐる議論のために、ブレーキをかけられた。だが気候変動に歯止めをかける対策に、緑の党が最も力を入れていることは間違いない。
緑の党は8月3日に「気候保護のための緊急プログラム」を公表した。べーアボック首相候補は「我々が政権に参加した場合、気候保護省を新設する。この省には、他の省がパリ協定の目標に矛盾する法案を議会に提出しようとした場合、拒否する権限を与える。我々は、気候変動に歯止めをかけるための政策に150億ユーロ(1兆9500億円)を投じる。全ての新築の建物の屋根に太陽光発電パネルの設置を義務付ける他、再生可能エネルギーの設備容量目標の引き上げや、高圧送電線の新設も加速する」と約束した。
一方CDU・CSUのアルミン・ラシェット首相候補については、党内からも「優柔不断」とか「性格が弱い」という不満の声が出ている。さらに、彼は洪水の被災地で、あるミスを犯した。フランク=ヴァルター・シュタインマイヤー大統領が記者団の前で犠牲者に哀悼の言葉を述べていた時に、ラシェット氏はその背後で談笑していたのだ。彼が笑う映像はドイツの全メディアが報じ、国民の間では「不謹慎」という批判が高まった。この人物の「軽さ」を改めて印象付ける出来事で、CDU・CSUの支持率が今後さらに下がる可能性もある。
仮にCDU・CSUが来月の投票日に首位となっても、単独で議席の過半数を占めることはできない。同党が最も好むパートナーである自由民主党(FDP)の支持率は20%に程遠い。これまでの連立相手である社会民主党(SPD)についても大きな伸びを期待できない。つまり、緑の党が連立政権に加わる可能性は残っている。
問題は政策の擦り合わせだ。CDU・CSUと緑の党は、気候保護にこれまで以上に力を入れる必要があるという総論では、一致している。ただし各論となると別だ。両党の政策の中には、ディーゼルエンジンやガソリンエンジンを使う新車の販売禁止時期や脱石炭の加速、高速道路の時速制限など、大きな隔たりがある部分も多い。緑の党は、「これまでCDU・CSUは再生可能エネルギーの拡大にブレーキをかけて来た」と批判的である。
つまりラシェット氏が主導権を握って、緑の党と初の連立政権を樹立するにしても、連立交渉は難航を極め、政権の誕生までにはかなりの時間がかかるに違いない。その際に緑の党は、「エコロジー重視社会」の要素を連立条約の中にできる限り盛り込むことを、最大の目標とするはずだ。
いずれにしても、来月26日の投票日は、欧州一の経済大国の進路を左右する重要な里程標となるだろう。