パリ協定に強制力という「牙」を与えた気候保護訴訟

執筆者:熊谷徹 2021年6月18日
タグ: ドイツ EU 訴訟
エリア: ヨーロッパ
オランダ・アムステルダムで行われたシェルに対する抗議デモ(2019年)(Dutchmen Photography / Shutterstock.com)
欧州では政府や企業が訴訟に敗れ、裁判所から二酸化炭素(CO2)削減を加速するよう強制される例が増えている。学界からは「化石燃料関連の設備は収益を生まない座礁資産と化し、石油文明は2028年までに崩壊する」という意見すら出ている。

政府・企業が次々に敗訴

 最近ドイツの経済界では、「裁判所は市民が直訴して、政府や企業にCO2削減を強制する『気候保護庁』になったのか」という意見が聞かれる。4月29日にドイツの連邦憲法裁判所が環境保護団体の訴えを認めて気候保護法を部分的に違憲と認定し、CO2削減努力の強化を命じたのに続き、5月26日にはオランダのハーグ地方裁判所が、大手石油会社ロイヤル・ダッチ・シェルに対し、CO2排出量を2030年までに2019年比で45%減らすよう命じた。

 さらに6月3日には欧州司法裁判所が環境保護団体の訴えを認めて、「ドイツ政府は2010年から2016年まで26の都市で窒素酸化物の濃度がEU(欧州連合)の基準値を上回っていたにもかかわらず、十分な対策を取ることを怠り、EU法に違反した」という判決を下した。過去の違反行為とはいえ、環境保護団体の全面勝利である。

 特にシェルの敗訴は、多くのドイツ企業に衝撃を与えた。企業関係者からは、「2015年に地球温暖化に歯止めをかけることを目指すパリ協定に調印したのは各国政府であり、個々の企業ではない。それなのに、なぜ企業が裁判所によってCO2を大幅に減らすよう強制されなくてはならないのか」という不満の声が聞こえる。「裁判所は地球温暖化問題の専門家ではない。裁判所は、将来CO2を減らす上でどのような技術革新が行われるかも、知らない。CO2の削減幅は、政府と経済界が協議して決めるのが筋ではないか」という批判もある。

 経済界が特に不満に思っているのは、これらの判決がCO2排出権取引制度(EU―ETS)に言及していないことだ。欧州の経済学者や経済界は、EU―ETSを「最も経済効率が高い制度」と見なしている。電力会社や製造企業はEU―ETS に基づき、CO2を排出する際には、排出権を購入しなくてはならない。排出権購入のコストを減らすための方法は、個々の企業の自由裁量に任されているので、政府による一方的な規制に比べるとコストは少なくなる。

 裁判所の判決は政府の規制と同じで、EU―ETSのような方法に配慮せずに削減率を設定するので、企業そして国民経済にとってはCO2削減のためのコストが相対的に高くなる。したがって欧州の経済学者たちは、裁判所がEU―ETSに配慮しないまま、次々にCO2削減をめぐって厳しい判決を出していることを、冷ややかな目で見ている。

ペルーの農民がドイツの電力会社を提訴

 しかしそうした意見は少数派である。ネット上では環境保護団体がこれらの判決を「気候保護の流れを変える、歴史的な勝利」と称賛している。シェルは直ちに控訴したため判決は確定していないが、化石燃料を扱う多くの企業が「我が社も訴訟の標的になるかもしれない」という危惧を抱いている。

 ドイツでは2015年に、環境保護団体に支援されたペルーの農民が「気候変動により洪水の危険が高まった」として大手電力会社RWE(本社・エッセン)に対して損害賠償を求めて提訴した。原告は2016年に一審で敗訴したが、控訴審は継続中だ。RWEはペルーに発電所を持っていない。この訴訟は、グローバルな気候変動について、個別企業に責任の一端があるか否かを問うケースとして注目されている。

 今年になって連邦憲法裁判所やハーグ地裁が下した判決は、司法が政府や企業の気候保護に関する責任を、これまで以上に重く見ていることを示している。私はドイツに31年前から住んで、この国の環境関連訴訟を定点観測しているが、近年は1990年代に比べて、CO2削減をめぐり、政府や企業にとって厳しい判決が増えている。これらの判決が、他の裁判所の判断にも影響を与える可能性がある。ペルーの農民が起こした訴訟も1990年代ならば一蹴されただろうが、今日のように経済の脱炭素化について司法の関心が強まってくると、話は別である。

 ちなみに2021年5月22日付のドイツの日刊紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)は、「米国のホワイト&ケース法律事務所によると、世界中で気候変動にからんで環境保護団体や市民が企業や政府を訴えたケースは、2019年の時点で約1200件に達していた」と報じている。

「化石燃料は過去の遺物になる」

 現在の欧州の動きは、米国の文明評論家ジェレミー・リフキンの予言が現実になりつつあることを感じさせる。彼は2019年に『グローバル・グリーン・ニューディール』という著作を発表し、「再生可能エネルギーによる発電コストが急激に下がっているため、化石燃料文明は2028年までに崩壊する」と予言した。リフキンは20年間にわたり、EUの歴代3人の欧州委員長(ロマーノ・プロディ、ジョゼ・マヌエル・バローゾ、ジャン・クロード・ユンケル)に対し、欧州の長期戦略についてアドバイスを行ってきた。ドイツのアンゲラ・メルケル首相も2005年の首相就任直後、リフキンを執務室に招き、助言を求めている。

 興味深いことに、2019年12月にEUのウルズラ・フォンデアライエン委員長が公表した脱炭素プロジェクトにも「欧州グリーン・ディール」という名称が付けられている。  

 リフキンは著書の中で、風力や太陽光発電の価格競争力が年々強まっているので、化石燃料は過去の遺物になると断言している。彼によると、シティグループは2015年に、パリ協定を通じて、工業化が始まる前に比べて気温上昇幅を2度未満に抑えることを、各国に義務付けた場合、世界中で火力発電所、石油精製施設やパイプラインなど化石燃料に関する資産100兆ドル相当が、座礁資産になると予測した。座礁資産とは、企業が保有していても収益を生まない資産のことである。保有することで維持管理費がかかるので、企業の業績を悪化させる要因となる。

 シティグループの予測発表後まもなく、イングランド銀行のマーク・カーニー総裁(当時)も、「パリ協定によって大量の石油やガスなどの埋蔵資源が燃やせなくなり、化石燃料文明の全体にわたって座礁資産が生まれ、投資家に膨大な損失を与える可能性がある」と指摘している。

投資家の間で進む脱炭素

 欧州では年金基金や銀行、保険会社などの機関投資家が褐炭・石炭関連産業への投資を次々に減少させている他、電力会社も化石燃料の発電ポートフォリオを急激に減らしつつある。ドイツでは褐炭火力と原子力を主軸にしてきた最大手の電力会社RWEが、2019年再生可能エネルギーを基幹事業とし、2040年までにCO2排出量を正味ゼロにする方針を発表した。業界ナンバー2のエーオンも発電事業から撤退し、送電事業と小売に専念することを決定した。他の大手電力EnBWも、再生可能エネルギーの比率を大幅に増やしている他、ユニパーも脱石炭に踏み切る方針だ。電力ビジネスは、発電所などの建設のために多額の設備投資を必要とするので、投資家が化石燃料に背を向けることは、電力会社にとって資金の枯渇を意味する。

 少なくとも欧州では、経済の脱炭素化に抗えないほどのモメンタム(勢い)が加わっている。リフキンは私とのインタビューの中で、こう語っている。

 「2020年10月初めに、米国の大手石油会社エクソン・モービルの株式時価総額は、米国の再生可能エネルギー発電会社ネクステラ・エナジーによって追い抜かれた。これも化石燃料文明の凋落を象徴している。つまり市場の論理は、すでに脱炭素化に向かっている。私は約10年前にドイツの大手電力会社の幹部らに対して、『化石燃料による発電事業から再生可能エネルギー中心のビジネスモデルに早めに切り替えないと、多額の座礁資産を抱えることになる』と忠告した。当時彼らは、私のアドバイスを無視した。だがその後ドイツでは再生可能エネルギーによる電力の拡大によって、卸売市場での電力価格が下落し、火力発電所の収益性が激減した。現在エーオンやRWEなどは、化石燃料を中心とした発電事業をやめたり縮小したりしている。つまり私が10年前に言ったとおりの現象が、今ドイツで起きている」

訴訟がパリ協定に強制力を与えた

 パリ協定が合意された直後、環境学者からは「加盟国に対する強制措置や違反国への制裁手段が欠けている」という批判が出された。つまり、「パリ協定には牙がない」という不満の声だ。しかし今年ドイツで下された連邦憲法裁判所の判決、オランダでのシェルに対する判決はともにパリ協定を法的根拠として、政府と企業にCO2削減措置の強化を義務付けた。つまりパリ協定は合意から6年経って、各国の裁判所による判決という「強制手段」を初めて手にしたのだ。これは大きな変化と言わざるを得ない。

 過去においては、環境政策を実施するのは、選挙で選ばれた政府だった。しかし今や、環境保護団体が政府を迂回して、裁判所を「CO2削減のための駆け込み寺」と見なしている。裁判所が事実上の「気候保護庁」に変容しつつある事実は、リフキンが予言した化石燃料文明の崩壊に拍車をかけるかもしれない。

 日本の裁判所は、地球温暖化問題における政府や企業の責任を、欧州の裁判所ほど厳しく認定しないかもしれない。それでも世界中の投資家の、化石燃料関連事業に対する視線が厳しくなっていることは事実だ。日本政府・企業にとって、欧州の出来事を「対岸の火事」として片付けることは許されない。(文中敬称略)

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執筆者プロフィール
熊谷徹 1959(昭和34)年東京都生まれ。ドイツ在住ジャーナリスト。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン特派員を経て1990年、フリーに。以来ドイツから欧州の政治、経済、安全保障問題を中心に取材を行う。『イスラエルがすごい マネーを呼ぶイノベーション大国』(新潮新書)、『ドイツ人はなぜ年290万円でも生活が「豊か」なのか』(青春出版社)など著書多数。近著に『欧州分裂クライシス ポピュリズム革命はどこへ向かうか 』(NHK出版新書)、『パンデミックが露わにした「国のかたち」 欧州コロナ150日間の攻防』 (NHK出版新書)、『ドイツ人はなぜ、毎日出社しなくても世界一成果を出せるのか 』(SB新書)がある。
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