出産と育児、母国への送金……『フィリピンパブ嬢の経済学』に見る国際結婚カップルのリアル家計簿

中島弘象『フィリピンパブ嬢の経済学』(新潮新書)

執筆者:室橋裕和 2023年9月7日
タグ: 外国人労働者
エリア: アジア
フィリピンパブ嬢との恋愛・結婚・子育てを通して、日本の社会や経済の側面が見えてくる(写真はイメージです)

 かつて「興行ビザ」を取得してフィリピンから日本へ多数の女性が出稼ぎにきた。彼女たちが働くフィリピンパブやその暮らしぶりを研究していたはずの大学院生が、研究対象のフィリピン人女性と恋に落ち、結婚。子どもも生まれて日本で生活する中で体感した「国際結婚」の実情を書いた『フィリピンパブ嬢の経済学』(中島弘象著)を、『エスニック国道354号線』の室橋裕和氏が紹介する。 

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 8月1日、政府は「興行ビザ」の取得要件を緩和した。このビザ、歌手やスポーツ選手など「興行」に関わる目的で日本に滞在する外国人に発給されるもの。取得を簡単にすることで海外のアーティストが日本で公演しやすくなるが、背景には韓流ブームの高まりがあるともいわれる。

 ではなぜ、「興行ビザ」はいままで厳しく運用されていたのだろうか。それは「興行」の名目でビザを取って日本に入国したものの、実際にはホステスとして働く女性たちが多かったからだ。ビザは滞在目的に合ったものを取得しなくてはならない。興行ビザで入国し、ホステスとして働くことは不法就労にあたる。しかし80~90年代はこれが黙認されており、多数の女性たちが来日して夜の世界で働いた。彼女たちの受け皿となっていたのは、おもにフィリピンパブだった。

 日本が好景気だったあの時代、歓楽街や工業地帯など日本全国にフィリピンパブが乱立した。南国の陽気さと親しみやすさで世のおじさんたちを癒し、またバブル崩壊後は高級クラブに会社の経費で行けなくなった人々が比較的リーズナブルなフィリピンパブに流れ込んでくる。最盛期の2004年には年間8万人を超えるフィリピン人が興行ビザで来日した。

 もちろん酒と金の絡んだ男女の世界、騙し騙されの悲喜劇は山のようにあったろうが、それでもフィリピン女性たちは日本の労働環境を下支えした存在であったと思うのだ。

 潮目が変わったのは2005年のことだ。アメリカ政府は日本の興行ビザが「人身売買の温床になっている」と指弾。慌てた日本政府は興行ビザの運用を厳格化した。

 こうしてフィリピンパブはホステスの「供給」を止められ、衰退した……かと思うが、いまもたくましく生き残っている。それはなぜか。とりわけ名古屋にたくさんのフィリピンパブがあるのはどうしてか……そんな疑問を解き明かしていったのが、中島弘象さんだ。

研究対象が恋愛対象になってしまった

 「フィリピンパブについて調査をして修士論文を書きたい」

 中島さんはなんとも風変わりな研究テーマを持つ大学院生だった。きっかけは大学3年生の時に入った国際政治学のゼミで、在日フィリピン人の暮らしを調べはじめたことだったという。フィリピンに関心があったわけではなく、友人と一緒になんとなく選んだゼミだったが、元ホステスのフィリピン人のおばちゃんたちが語ってくれた、興行ビザで来日してからの半生に引き込まれた。スタディツアーで現地のフィリピンを訪れてみると、貧困の中でも笑顔を絶やさない陽気さに打たれた。

 《心の中にフィリピンが住みついた》

 そして進学した大学院でもフィリピンを研究しはじめた中島さんだが、調査のために通っていたはずのフィリピンパブで、ホステスのミカさんとついつい恋仲になってしまうのだ。研究対象が恋愛対象になってしまったわけだが、ミカさんを通して見えてきたのはフィリピンパブのなかなかにハードな内幕だった。興行ビザが下りなくなってからは偽装結婚という手段で来日するホステスが多いことや監視付きの生活、休みは月2回で月給6万円という手ひどい搾取、暴力団との関わり……もはや学生の論文を超えた実態を、中島さんは前作『フィリピンパブ嬢の社会学』に著した。

 しかし描かれるのは陰惨な「裏世界」というより、あくまで等身大のカップルの生活の姿だ。中島さんとミカさんはヤクザの監視の目を盗みながら、というややリスキーな状況下ながら年相応にデートを楽しみ、お互いに気持ちを育んでいく。何度パブに通い詰めても「店外デート」にありつけないおじさんたちは『社会学』を読んでさぞ悔しがったことだろう。

 いつしかミカさんに食わせてもらう立場となった中島さんの「ヒモ」ライフ、交際に猛反対する中島さんの母、ミカさんの雇い主であるヤクザとの対決……そしてとうとうふたりが結婚するところで『社会学』は終わる。その後が気になっていた人も多いのではないだろうか。中島さんの新作『フィリピンパブ嬢の経済学』は、夫婦の結婚生活を描いた続編だ。

あまりにハードルの高い外国人ママの子育て

 『経済学』と銘打ってある通り、テーマは「お金」だ。国際結婚カップルの懐事情が赤裸々に語られるが、中島さんが不定期のアルバイト生活を送っているため夫妻の家計は厳しい。しかもミカさんの妊娠が明らかになると、いよいよ中島さんは慌てる。しかしミカさんは言うのだ。

 《大丈夫。何とかなるよ》

 フィリピンパブと、さらに工場の仕事を掛け持ちしながら異国で暮らし、日本人の夫を励ます。その言葉に中島さんは奮起し、けんめいに働きだすのだ。

 日本は少子化が進むばかりだ。日本人はついつい先のことをあれこれと考え、思い悩み、子供をつくるという決断ができずに、ここまで人口を減らしてしまった。ところがフィリピンはもっと不安定で先が見えづらい社会ながら、子供を産むことに誰しも迷いがない。フィリピン人の持つ思い切りやポジティブさは、恐らく僕たち日本人に最も足りないものなのかもしれない。そこに背中を押され、中島さん夫婦は新しい家族を迎えることになる。

 ところが直面するのは外国人が日本で出産し、子育てすることの難しさだった。それなりに日本語のわかるミカさんだが、専門用語がどんどん出てくる妊婦健診など病院でのやり取りはお手上げだ。中島さんが通訳として同席したくとも、仕事があるからそうもいかない。そこで、当初はふたりの交際に反対していたはずの中島さんの母が奮闘する。健診や予防接種、保健師との相談……。母は言う。

 《いろんなことが外国人にとって親切じゃないもん。ミカちゃん1人で子育てなんて無理だよ》

 日本に住む外国人は300万人を超えた。当然、出産する人だってたくさんいる。しかしそのさまざまな場面で日本語の壁に当たる。

 「日本に暮らす以上、日本語の環境に適応を」というのは確かにもっともな意見だろうと思う。ただ日本語は、ひらがな、カタカナ、漢字が入り混じる世界的に見ても特殊な言語だ。外国人が読み書きまでこなすのは相当に難易度が高い。話すぶんにはネイティブ並みの外国人でも、漢字となるとサッパリという人もたくさんいる。日本人にとってもややこしい役所や病院の書類となればなおさらだ。だから外国人を友人に持つ日本人は、役所や学校などからの通知がいったい何であるのか、どう処理をすればいいのか読み解いて説明するのが日常的だ。こうした日本人の草の根の手助けによって生活が成り立っている外国人は多い。

 それに役所のほうでも子育て支援などさまざまな制度が充実しているが、その情報が外国人に行き届いていないと中島さんは言う。また各自治体では無料の日本語教室を開催したり、ボランティアの通訳がいたり、あるいは多言語での生活情報パンフレットなどを作成したりと多国籍化に対応しようとしてはいるのだが、こうした取り組みを広く発信していない。せっかくいい制度をつくっても、当の外国人は知らないのだ。

 ミカさんと母は二人三脚の子育てを通じて仲睦まじくなっていくのだが、外国人の親への子育て支援を充実してほしいと中島さんは訴える。

 《外国人の親が育てている子供の多くが、この先、日本で大人になり、将来の日本を担う存在になっていくということを忘れてはいけない》

国民の1割が海外出稼ぎをするフィリピンの現状

 中島さん一家の「経済」において最も頭の痛い問題が、フィリピンへの送金だろう。そもそもミカさんは貧しい実家を助けるために、はるばる日本まで出稼ぎに来たのだ。それにフィリピン人は日本人がちょっとドライに思えてくるほど、家族を大切にする。人生のすべては家族のためにあると言ってもいい。

 ミカさんも同様だ。来日したばかりの頃は月6万円の給料の中から3万円を送金した。雇い主との契約を終えてフリーのホステスになってからは、毎月20万円以上ものお金をフィリピンに送り、家族親戚たちの「大黒柱」として生活を支えた。だが出産を機にミカさんはフィリピンパブを辞めたから、その負担は中島さんにのしかかってくることになる。フィリピンにいる家族の生活費だけでなく医療費や学費も、車のローンさえ払わされることに疑問や苛立ちを覚える中島さんに、ミカさんは言うのだ。

 《あなたは日本で生まれて、本当にお金がなくて困ったことがないから貧乏の気持ちがわからない》

 ミカさんはトイレすらない家で育った。一日一食で、学費が払えないから学校も行ったり行かなかったり。そこから這い上がるためにまずミカさんの姉が日本に渡り、それから家族の生活は見違えた。姉の背中を見て育ったミカさんも後に続いた。

 彼女たちのように、海外で出稼ぎをするフィリピン人は人口の1割、およそ1000万人にのぼる。日本だけでなく欧米や湾岸諸国などに渡り、高い英語力を駆使して建設や製造業、飲食、看護師、家政婦などさまざまな分野で働いている。

 彼ら彼女らはOFW(Overseas Filipino Workers)と呼ばれ、母国への送金額は325億ドル(約4兆7200億円、2022年)に及ぶ。フィリピンのGDP(国内総生産)の約12%を稼ぎ出しているのだ。

 日本では興行ビザのホステスこそ激減したが、ミカさんのように日本人と結婚して工場や介護などで働く人もたくさんいるし、技能実習、特定技能といった在留資格で働くフィリピン人も増えている。貧しさから抜け出したい、家族を食べさせたいという強い思いが海を越えて、日本の社会や経済に貢献している。

 海外に出稼ぎしてでも、なんとしてでも上昇したいというガツガツさはもう日本人には持ち得ないものかもしれない。中島さんはそんなエネルギーあふれるフィリピン人の家族の一員としてこれからも送金に悩むことだろうが、《大丈夫。何とかなるよ》の言葉を励みにきっと乗り越えていくのだろう。

中島弘象『フィリピンパブ嬢の経済学』(新潮新書)
カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
室橋裕和(むろはしひろかず) 1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発の日本語情報誌に在籍し、10年にわたりタイ及び周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のライター、編集者として活動。「アジアに生きる日本人」「日本に生きるアジア人」をテーマとしている。2023年3月現在は日本最大の多国籍タウン、新大久保に在住。著書に『ルポ新大久保』(辰巳出版)、『日本の異国』(晶文社)、『北関東の異界 エスニック国道354号線―絶品メシとリアル日本―』(新潮社)など。
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