汗だくの短パン姿で鄧小平の前に立ったスクープ記者――追悼・藤田洋毅

執筆者:堤伸輔 2024年4月27日
タグ: 中国
エリア: アジア
故・藤田洋毅氏が担当した記事 (C)新潮社写真部

 Foresight誌上で「鄧小平の入院」をスクープした藤田洋毅氏が亡くなった。

 その記事は、まだ紙のB5判で刊行していたForesightの1993年2月号に掲載された(「ポスト鄧小平の時代が始まろうとしている」)。中国の最高実力者である鄧小平は、少し前に第一線は退いていたが、江沢民体制に隠然たる影響力を有していることは間違いなく、その人物が「入院」したとなれば、紛れもない世界的スクープだ。

 情報は、藤田氏の長年の情報源からもたらされた。北京市の西部にある「人民解放軍三〇一医院」にわざわざ増設された高級幹部用の「南楼」の最上階に、鄧小平が入っている、というのである。

 まだSNSなど影も形もない時代、この大スクープが世界に知れ渡るには、半年以上を要したという記憶がある。すぐに大騒ぎとはならなかったのだ(『週刊新潮』は特集記事を出してくれたが)。何しろ、海外メディアを含めて他が追随しようにも、事実を独自に確認できない。その難しさは、現在の習近平体制の中国と同様であり、こと鄧小平の動静に限れば、いま以上に知りようがなかったのだ。

 もちろん、誌面に掲載するにあたっては、副編集長として藤田氏の原稿を担当していた私は、誤報にならないよう、彼に情報源の開示を求めた。聞かされた人物の名前と経歴・肩書きは、なるほどその人物なら「入院」を知っていてもおかしくないと思わせるものだった。藤田氏との親密な関係も、別の機会に見聞していた。

 ノドからここまで出かかっていて、名前が言えないのはもどかしいが、中国の場合、後日談としてでも情報源を明かせないのは、お分かりいただけると思う。その人物も藤田氏も鬼籍に入ったが、明かせば家族や子孫にまで迷惑がかかるのが中国だからだ。いずれにせよ、その老人は南楼4階の病室に鄧小平を見舞い、藤田氏に「鄧さんが入院していたぞ」と伝えてきたのだった。

 藤田氏を私に紹介してくれたのは、ある大手メディアの幹部だった。「堤さん、うちの会社に中国情報にかけてはピカイチの男がいるんですけど、鼻っ柱が強すぎて上司とケンカばかりしていて、誰も使いこなせない。情報があまりにもったいないので、こいつを引き受けてくれませんか?」と。聞くと、北京に送っても「野放図に暴れ回った」ため、中国当局に会社ごと睨まれるのを恐れて、日本に呼び戻したのだという。編集現場で衝突を繰り返して、「いまは原稿の書けない部署に飛ばされている」と幹部は教えてくれた。

 さっそく会って、最初に書いてもらったのが、1991年6月号の記事「ここまできた中台の『共同歩調』」だ。中国が南沙諸島に軍事拠点を築き始めた、という、これまたとびきりのスクープなのだが、この時点では現在のような滑走路の整った軍事基地同然の施設ではなく、まだ「岩礁の上の掘っ建て小屋」のようなものだった。それほど早期から、彼はのちの国際情勢と南シナ海の安全保障環境に大きな影響を及ぼす動きを掴んでいたのである。

 藤田氏のスクープは、まだいくつもある。江沢民が、2002年秋の第16回共産党大会を機に総書記の座を退くことにしたものの、強大な権力の付随する「党中央軍事委員会主席」のポストだけは手放さず、大勢に推される形を作ったうえで「なら、もうしばらくやりましょうか」と語ったのは、党大会に先立つその夏の「北戴河会議」においてだった。この記事は、党大会前の2002年8月号(「異変、中国次期トップ胡錦濤を襲う『波乱』」)に掲載されたが、この時も他メディアの後追いの勢いは弱かった。「軍事委主席任期の2年延長」という極めて変則的な情報(通例は5年単位)であったし、胡錦濤がそれほど易々と江沢民の言うがままになるとは思えなかったからだろう。党大会を経て胡錦濤は党総書記と軍事委主席というトップの地位を証明する2大ポストを引き継ぎ、翌年春の全国人民代表大会で国家主席になるものと大方が考えていた。

 しかし、このスクープの正しさは、すぐに結果によって証明された。江沢民は軍事委主席から「降りなかった」のである。ようやく胡錦濤に全軍を掌握するそのポストを譲ったのは、まさしく藤田情報のとおり、党大会から「2年後」だった。この情報も、藤田氏が長く付き合った幹部によってもたらされたものである。その人物は、自らも側近を引き連れてくだんの北戴河会議に出席していた。

 大きな空振りもあるにはあった。中国の有力筋から「北朝鮮の金正日の後継者が決まった」と掴んだ時のことだ。その当時、のちに暗殺される長男の金正男がまだ存命していたが、「長男ではなく、金正日は弟のほうに継がせる気だ」というのだ。そこで、2005年12月号に「次男の金正哲が後継者に決定」という内容の記事(「十月二十九日『金正哲』と対面した胡錦濤」)が載ったのだが、お分かりのように、これは「三男の金正恩に決定」とすべきものだった。情報源から酒席で「腹違いの弟のほうだ」と聞かされた時、北朝鮮の専門家とは言えない彼は、当然のように歳上の次男だと早とちりしたのだ。金正哲の「線の細さ」という話を他方面から聞いていたのに、担当編集者として念のための確認を怠った私の大きなミスでもあり、せっかくの「後継者は金正男にあらず」という世界最速の特ダネの価値が薄れた。

 それにしても、なぜ彼はこれほど何人ものハイレベルの情報源を得ることができたのか、あの中国で、と、皆さんも疑問を持たれるだろう。理由はいくつもある。まず、中国語は中国人たちの心の中に入り込んで掴めるほど達意だった。党・軍・政府の幹部や若手らと酒席で談論・激論を交わすのもしばしばで、そこから中国人の考え方そのものを掴み取っていったと言っていい。その会話力に性格・振舞いを含め、「藤田さんは、われわれ中国人以上に中国人です」と、来日した中国の幹部から聞いたことがある。

 北京時代のある日、「鄧小平がこれから人民大会堂で外国メディアの記者たちに会う」というお触れが回った。“皇帝引見”の突然の知らせだ。滅多にない機会に各国記者は緊張した面持ちで鄧小平の登場を待った。その列に、ひとりだけ短パンの藤田氏。テニスの最中に知らせを受けた藤田氏は、そのままの格好で駆けつけたのだ。「天下の鄧小平の前に汗だくの短パン姿で立ったのは藤田さんだけ」と、このエピソードを私に教えてくれた英国人記者は大笑いしていた。誰にも遠慮しない人柄をよく表している。

 そんな彼だが、面倒見は非常に良かった。現在と違い、ある時までは日本に留学してくる中国人学生のけっこうな部分が、党や政府、軍の幹部の子弟だった。彼は、都合何十人もの事実上の身元引受人になり、東京でのアパート探しも手伝っていた。彼らを食事や飲みにもよく連れ出しており、Foresightの原稿料もその費用にかなり注ぎ込んでいたはずだ。

 息子や孫の面倒を親身に見てもらった中国幹部たちの感謝の念が薄いはずがない。また、日本留学を終えて帰った当人たちも、やがては国務院その他の中枢で職を得て、幹部への階段を登っていくのである。そうやって、世代を重ねて藤田氏の情報源は充実していった。

 そのおかげで身を助けられたこともある。Foresightの依頼を受けて、彼はある夏、北戴河会議の現場にできるだけ近づこうと試みてくれた。河北省の避暑地・北戴河は、高級幹部らの別荘地の前に渤海の海浜が広がり、背後は聯峰山と呼ばれる小高い丘になっている。彼はその裏山に登り別荘地を一望しただけでは満足できず、静かに浜辺へと降りて行った。道に迷ったふりをしながら。しかし、すぐに警備の部隊(通称「八三四一団」)に見つかり、銃口を向けて取り囲まれる。あとで「さすがにこれはヤバいと思いました」と語ったように、大ピンチに陥ったのだ。そこへ、ある老婦人が散歩で通りかかった。「あら、あなた」と、警備兵に囲まれて押し問答している藤田氏を見つけてくれたのは、運のいいことに、彼が子弟をお世話した「ある革命元老の未亡人」だったのだ。ここでも名前を出せないのは歯がゆいが致し方ない。「解放してあげなさい」のたったひと言で、藤田氏はその後の厳しい取り調べや、ひょっとしたら何年にもなったかもしれない拘束から免れたのだ。

 こうして、時には危険をかいくぐりながら、行けないはずの場所に行くのも、彼の得意技だった。党や国務院の重要施設、そして幹部らの住まいが建ち並ぶ北京の「中南海」には、ある老幹部のSUVに乗り、幹部の足元の床に這いつくばって、ゲートの検問の目をかわして入った。「もう大丈夫」と言われて顔を上げると、テニスコートで「万里おじいちゃんが球を追っていた」という。そう、元全人代常務委員長その人だ。また、革命以来の最高幹部らの遺骨・遺灰が収納された「骨灰堂」にも、ある遺族の一行に紛れて潜入した(2006年5月号「独裁の象徴『骨灰堂』に中国の行く末を見る」)。

 足を向けたのは北京の中だけではない。近年の「新疆ウイグル自治区」や、中朝国境にかかる丹東の中朝友誼橋の「中間地点の一歩向こう側」へ、そして、鴨緑江を密かに渡って国境警備兵のいる北朝鮮側へも(2007年1月号「写真レポート 北朝鮮国境地帯をゆく」。この原稿は中国渡航直後の発表による“身分ばれ”を防ぐため青井悠司の名で掲載した)……。

 いずれも、「そんなところに外国人が入るのは無理でしょう」と、中国に詳しい人ほど言いそうな場所ばかりだが、彼は入り、多くの場合、上記のレポートのように証拠に写真を撮り、日本に持ち帰ってきた。

 こうした場合、Foresightのその月の取材費のほぼ全額を藤田氏ひとりに提供したことも何度もある。すぐ前にも書いたように、いまや外国メディアには極めて入りづらい新疆ウイグル自治区にも、コロナが流行する少し前まで、彼は何度か“潜入”し、中心都市ウルムチだけでなく、カザフスタンとの国境の検問所までも出かけた。さらには上海で、軍の極秘の情報拠点まで割り出しもした。いずれも、ツテがあってこそ可能となった行動だ。

 時期によっては、なかなか中国に行けないこともあったが、そういう場合、藤田氏は中国の幹部が海外に出る機会をよく利用した。たとえば、成田経由でワシントンに行くと北京の友人から連絡を受けると、成田空港でのトランジットの数時間に、濃密に話を聞いて情報を得ていた。年来の友人などは、彼のためにわざわざ直行便ではなく成田経由便にしてくれたこともあったようだ。また、友人らが日本を含め外国勤務になると、中国国内にいるときよりコンタクトしやすく、彼らの口も開きやすくなって助かるとも言っていた。

 彼のおかげで、1990年代から2010年前後まで、Foresightの中国報道は支えられ、他のメディアにない独自の情報の数々を掲載することができた。それによってForesightの面目を高められたことを、ここで特筆しておきたい。

 中国人の心を掴み、彼らと深く交わり、中国を愛しつつも問題点・難点は鋭く指摘し、深みのある記事を書き続けてきたジャーナリスト・藤田洋毅。これほどの存在は、今後なかなか現れないと思える。 (2024年4月19日記)

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
堤伸輔(つつみしんすけ) Foresight元編集長。1989年の「フォーサイト準備室」から同誌に参画。副編集長、編集長を務め、中国関係の記事を多く担当した。
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