東大は「たかが東大、されど東大に他ならず」

尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮選書)

執筆者:御厨貴 2024年5月22日
タグ: 日本
エリア: アジア
東京大学の赤門(C)cowardlion / Shutterstock.com

 米国の政治哲学者マイケル・サンデルは、ベストセラー『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の中で、米国で強まる学歴偏重主義について警鐘を鳴らした。日本においても、昔から東京大学を頂点とする学歴社会のあり方を問題視する声が後を絶たない。時にそれは激しい「東大批判」となって、世間の価値観を揺さぶってきた。

 そのような「東大批判」の系譜をたどった『「反・東大」の思想史』(尾原宏之著、新潮選書)が刊行された。東大法学部出身で、現在は東京大学名誉教授の政治学者・御厨貴氏が読みどころを紹介する。

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 「反・東大」の思想史――何とも素気ないタイトルである。すぐに内容を予想してみる。「反・東大」と銘打った以上、世の中に常に出てくる「東大」にまつわる批判論の展開か。いやさりげなく思想史と書いてあるから、単なるエピソードや体験記の集大成ではなく――実は開き直った本の方が「東大」本は面白いのだが――、この思想史というタイトルからは、まじめっぽそうで、あれこれ難しいことがこれでもか、これでもかと並んでいる本ではないかとも推測される。いずれにしても身をただして読まねばならぬ。ここから尾原宏之さんの本との格闘が始まった。

「反・東大」とは

 「はじめに」を読んで尾原さんの書きたいことがすぐ分かった。尾原さんのテーマは、このように明快だ。

 「東大から排除された、あるいは自分から背を向けた人々による抵抗と挑戦の歴史が主題である。したがって東大が時にモンスターのように、時に矮小に描かれることもあり得よう」

 まずは東大に受け入れられなかった。又は東大を受け入れなかった近代日本を生きた人々を、東大軸を中心に活写しようという試みなのだ。ダイナミクスがその展開にはある。おそらく、「反・東大」は、時に「半・東大」でもあり、または「汎・東大」にもなり、人々のあり方を否応なくゆさぶるものとなろう。三百ページにならんとする活字でびっしりつまった本だが、尾原さんの章立てにそって、時に茶々を入れつつ、読み進めていこう。

「反・東大」の慶応、「異・東大」の早稲田

 第一章で慶応、第二章で早稲田を取り上げるのは、「反・東大」の定石といえる。分量も三分の一を占める。人でいえば慶応の福澤諭吉と早稲田の大隈重信。だが「反・東大」の思想史の先端を行くのは、福澤諭吉であった。尾原さんによれば、「明治14年の政変」を機として、これまで政府とよい関係にあった福澤が離れる形になり、それ以降、福澤の官学批判が強まる。明治国家が国家として整備されていく時期に、福澤は何にでも手を出す明治政府を「多情の老婆政府」と呼んで批判した。「『文明』への進歩」を考えるならば、私学振興でなければならず、私学教育では「カネの力」「実業家の養成」「ドイツ語より英語」の導入などを眼目に置き、ことごとく政府関連の学校とは異なる方針を示した。帝国大学の誕生と福澤の戦いの意味は、私学を対抗勢力としてこの国に作り上げたことにある。国を吞んでかかっていた福澤だからこそ、官対民という大きな教育研究のしつらえを提供することが可能であった。

 実は「明治14年の政変」は、今一つの学校たる東京専門学校、すなわち早稲田大学を生む。政権から追われた大隈重信が小野梓と共に作ったのが、学校――早稲田大学と、政党――立憲改進党であり、「在野」という言葉に強く刻印されている。慶応が「官」と「民」とを微妙に捉えながら推移していったのに対し、早稲田は生まれついての「在野」であり、それ故に当初からすみわけの発想により官立学校――東京大学と敵対的ではなかった。早稲田は「東大の分家、慶応の弟分」という立場なのである。その後法曹への就職の道がある学校となった点で、東京専門学校は帝国大学とその特権をめぐり、微妙な関係に立つ。さらに官立と私立とでは、社会における給与待遇に圧倒的な差別があった。慶応と異なり早稲田には実業界とのコネも力もない。しかし早稲田は、「新聞界」と「文芸界」とに「国家の人材」を供給し、明治末期にはメディア界を牛耳るに至る。慶応が実業界へのロール・モデルを確立せんとしたのに対し、早稲田は言論界から代議士をめざすロール・モデルを作り上げていった。

 早稲田の章は、尾原さんが早稲田大学卒業者でもあり、微に入り細をうがち、早稲田の民衆性、入試が簡単であったこと、それを好む雰囲気があったことなど、帝国日本の「生活臭」を満たした、それこそ東大とは無縁の個性に着目している。「反・東大」というより、「異・東大」と称した方が、分かりやすいかもしれない。

私立法律学校による帝大特権の剥奪運動

 論のたて方に「起・承・転・結」がある。これをこの本にあてはめるならば、一章を「起」そして二章を「承」とすると、三章から六章までは「転」の展開となる。三章では、私立法律学校による「帝大特権」の剥奪過程に焦点をあてる。明治の藩閥政府は、官吏といっても高等の行政官を高く遇し、人気のない司法官や格下の官吏には関心を払わなかった。私立法律学校はその間隙を突いて、学力その他の面で私立勢は決して帝大勢におとらずの議論を展開していく。やがて帝国議会での議論に移されるが、政府委員の議論は歯切れが悪いものの、直ちに特権剥奪とはならない。そして「大正政変」の時期に、ようやく特権廃止へ道筋がつけられる。明治の政治変動の時期に私立大学が芽を出し、大正の政治変動の時期に帝大の特権が廃止されるという状況を見るにつけ、「反・東大」の射程距離の長さが印象づけられる。その中でのうごめきとは、ある時は個性の発揮と多様性を指向し、ある時は特権の廃止と平等性を求める。結局大学には、尾原さんが指摘しているように、「学力とは何か」「試験とは何か」という、解のないパズルに陥っては、また御破算をくり返すことしかできぬのかもしれない。

一橋の商業学分野での東大凌駕

 第四章では、尾原さんは「反・東大」の流れの中で、大学と学問という立ち場から敢然と立ち上がった、東京高等商業学校――一橋大学に言及する。それは「官」と「民」の文脈にはなく、「官」の中での「半・東大」的かつ「汎・東大」的主流である。そもそも商業教育は軽んじられた。そんな風潮の中で草創期からこの学校は慶応や一高よりは上という意識が強かった。商業科を帝国大学の一部として設立する話は、政府が長年の総合大学主義を諦めたため、それこそ大正半ばに単科大学として実現する。そして東大のそれを圧倒する。

 しかし商業教育か学問探究かは、その後も商業大学や商業学科にまとわりつく解なき論争となった。慶応のように実業に特化すれば問題はない。しかし学問探求も視野に入れるならば、学生に何をもって研究をさせるのか。彷徨の結果、一橋大学は社会学部を設立し、多くの商業とは無関係の学問人材を育てた。それはあるいは、商業学外での「反・東大」の実現だったのかもしれない。

同志社新島襄、東大の堕落に警鐘

 第五章は、『赤門生活』における帝大生の生態、新島襄の同志社設立運動、そして私立七年制高校の誕生の三点セットを描くことから、尾原さんは「反・東大」の「転」のもう一つの姿に迫る。東大生の「点取主義」と「我利我利主義」、それと裏腹の「惰気」とが、東大にあるべき「真摯」や「篤学」の精神を奪っていく。実はこれより三十年以上前から東大の堕落に警鐘を乱打したのが、同志社創設者たる新島襄に他ならない。東大型の知識偏重と古臭い儒教道徳の併用ではなく、キリスト教振興を、時に「汎・東大」の、時に「反・東大」のロジックの中で展開していく。

 キリスト教教育には限界があったが、大正デモクラシー期には、それを拡大拡散した教養主義が帝大生を捉える。いやそれ以前の旧制高校生活が彼等を「文化」の雰囲気の中にとけこませていく。

 かくて「大正自由教育」の担い手たちが、より高度な教育機関をめざしたこともあって、四校の旧制私立七年制高校が誕生する、と尾原さんは説く。「反・東大」か否かは問題にならず、東大への進学過程にいわば「直・東大」として組みこまれたものの、東大側からはその「学力」や「入試」に疑いの目がむけられた。しかし硬軟両方の校風を育みつつ、旧制私立高校は「直・東大」ながらその個性を発揮し「汎・東大」の道を歩んでいった。それを説く尾原さんの目はやさしい。

東大の「詰め込み主義」に対する、京大の「自由討究」

 第六章では、生まれながらにして東大追いこせの使命をもった、それこそ文字通りの「新・東大」精神に燃えた京都大学が描かれる。だが、章の初めの「仮面浪人」の話に象徴されるように、京大に入学しても翌年には東大に入学する学生のあり方に、世の評価は示されていた。確かに京大は創立後しばらくは、東大の「詰め込み主義」に対し、「自由討究」を奨励した。しかし、明治40年を機に、京大法科は東大型に接近していく。何故か。文官高等試験の合格実績が振わなかったからだ。ここにまた「試験主義」「学力主義」の永遠の課題の前に京大は屈することになる。格差の問題は下位にある方が常に問題にする。尾原さんは、東大と京大との対抗戦が「反・東大」の対抗意識に燃える京大側の態度により問題を生じた例を挙げる。両大学合同演説会において東大側の弱味につけこんで「変態的快感」を示す京大側の態度を描く尾原さんの筆はさえる。「反・東大」の思想は、時に「変態的快感」を生み出すのだと。

「反・東大」の下に敗北を喫する日

 さて第七章の労働運動における「反・東大」、次いで第八章の東大法学部の講義を糾弾した右翼による「反・東大」、さらに終章の大学紛争時代とその後の「反・東大」に至って、つまり「結」の三章になって、「反・東大」の世間的意味が明らかにされる。

 労働運動における「学士様」への反感、戦前東大法学部における「西洋中心型」講義への攻撃、戦後大学解体をめざした全共闘のあり方は、いずれもストレートに「反・東大」の思想に貫かれ、本来あるべき「東大像」を求めもした。労働運動における「反・東大」は、しかし時として東大幻想を浮上させた。戦後長きにわたって勢力不振を続けた社会党は、委員長成田知巳をおろすのに時間がかかった。委員長を無能よばわりする若手に対し、古参党員は「だって彼は東大を出てるんだぞ」の一言でおさえこんだというエピソードを私は思い出した。大学解体期をへた現在、これ自体ブラック・ユーモアにすぎないが。

 「起・承・転・結」風の読みで、尾原さんの本の内容をたどって来た。「東大はたかが東大、されど東大に他ならず」これが私の感想である。そもそも東大なしに近代日本は語れない。しかも東大に対する「反流」の兆しは、常にどこそこに発見できる。しかし「東大」的なるものは、常に「反・東大」的なるものと併走し、闘争し、最終的には「反・東大」的なるものをうまく吸収し「東大」的なるものにまきこむ形で生き長らえて来たのではないか。尾原さんはそれを幕政改革による倒幕的反幕的運動への勝利とうそぶいた。しかし二百六十年続いた幕府ですらあっけなく倒れる時が来た。明治維新がそれだ。ならば「東大」もまた、いつの日にか「反・東大」の下に敗北を喫するのであろう。尾原さんの本を読み通した私には、その「いつの日」が「より近いいつの日に相違ない」と思えてならぬのである。

尾原宏之著『「反・東大」の思想史』(新潮選書)

◎御厨貴(みくりや・たかし)

1951年、東京都生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学教授、政策研究大学院大学教授、東京大学教授を経て、東京大学名誉教授、東京大学先端科学技術研究センターフェロー。サントリー文化財団理事、サントリーホールディングス株式会社取締役。紫綬褒章、瑞宝中綬章を受章。著書に『明治国家形成と地方経営』(東京市政調査会藤田賞)、『政策の総合と権力』(サントリー学芸賞)、『馬場恒吾の面目』(吉野作造賞)、『権力の館を歩く』などがある。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
御厨貴(みくりやたかし) 1951年、東京都生まれ。東京大学法学部卒業。東京都立大学教授、政策研究大学院大学教授、東京大学教授を経て、東京大学名誉教授、東京大学先端科学技術研究センターフェロー。サントリー文化財団理事、サントリーホールディングス株式会社取締役。紫綬褒章、瑞宝中綬章を受章。著書に『明治国家形成と地方経営』(東京市政調査会藤田賞)、『政策の総合と権力』(サントリー学芸賞)、『馬場恒吾の面目』(吉野作造賞)、『権力の館を歩く』などがある。
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