
洪水の水位が6メートル近くに達したバイエルン州のレーゲンスブルクでは非常事態宣言も発令された[2024年6月4日](C)EPA=時事
ドイツでは、地球温暖化が原因となって、洪水による経済損害が増える傾向にある。政府と保険業界の間では、気候変動が引き起こす経済損害を誰が負担するかについて議論が行われている。激甚水害が増える日本にとっても、この議論は他人事ではない。
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今年もまた、ドイツで集中豪雨による大規模な水害が起きた。ドイツ南部のバーデン・ヴュルテンベルク州とバイエルン州では、5月30日から6月4日まで続いた集中豪雨のために、ドナウ川などで水位が上昇して洪水が発生し、これまでに6人の死亡が確認された。ドイツ気象庁(DWD)によると、アルプス山脈に近いバイエルン州の一部の地域では、12時間に1平方メートルあたり300リットルの降雨量が観測された。DWDによると、一部の地域では6月1日からの4日間に、1カ月の降雨量に相当する量の雨が降った。DWDは、「100年に一度の降雨量だった」と指摘している。
この洪水は、ドイツ南部で多額の経済損害を引き起こした。保険会社の業界団体・ドイツ保険協会(GDV)は6月7日、「南部で発生した大洪水によって、支払保険金額は少なくとも20億ユーロ(3400億円・1ユーロ=170円換算)に達する」という予測を発表した。GDVは、「まだ市民や企業からの被害の申告が続いているので、今後支払保険金額がさらに増える可能性もある」とも付け加えた。
ただし20億ユーロというのは、保険がかけられている建物・自動車への損害だけを合計した金額だ。保険がかけられていない建物の損害額は、含まれていない。ドイツでは火災や突風被害、雹[ひょう]による被害などをカバーする建物保険だけに入っていても、水害による損害はカバーされない。水害による損害をカバーするには、建物保険だけではなく、追加保険料を払って、「自然災害填補拡張担保特約(ec)」を買わなくてはならない。水害は多数の市民に被害を与える可能性が高いので、保険会社は追加的な保険料が必要だと考えているのだ。
問題は、ドイツの建物所有者のうち、ecを持っている人はほぼ半分にすぎないということだ。GDVの5月28日の発表によると、その比率は、54%である。比率が最も低いのは、ブレーメンで、33%にすぎない。 家屋所有者の3分の2は、水害への備えを全く持っていないことになる。今回水害に襲われたバイエルン州でも、建物所有者の53%は、洪水で損害を受けても保険金を受け取ることができない。ec を買わない人が多い最大の理由は、保険料を節約するためだ。
このためバイエルン州政府のマルクス・ゼーダー首相は6月4日に、「少なくとも1億ユーロ(170億円)の緊急援助金を用意する。企業には20万ユーロ(3400万円)、個人世帯には5000ユーロ(85万円)を直ちに支払う」と発表した。
一方バーデン・ヴュルテンベルク州では家屋所有者の94%がecを持っている。つまり洪水による被害を保険でカバーしてもらえる家屋所有者の比率が、バイエルン州よりも高い。この理由は、同州では1994年まで全ての家屋所有者が火災と洪水をカバーする公的強制保険に加入していたためだ。当時は州政府が法令によって、保険料を決めていた。
水害保険の強制化をめぐる激論
ドイツでは現在、水害をカバーする保険を強制化するべきかどうかについて議論が行われている。16の州政府は、水害保険の強制化を求めている。社会民主党(SPD)の連邦議会の議員団で幹事長を務めるヨハネス・フェヒナー議員は6月4日、「ドイツでは地球温暖化のために、極端な気象災害の頻度が増えている。このため、少なくとも個人が住む家については、水害保険を強制化するべきだ。公的な再保険制度を創設して、民間保険会社の支払保険金額の合計が一定の水準を超えたら、政府が財政出動するような仕組みを作るべきだ」と提案した。つまり民家のための建物保険に入れば、水害による経済損害も自動的にカバーされるようにするべきだというのだ。
これに対して保険業界は、「水害保険の強制化だけでは全く不十分だ」として反対している。GDVのイェルグ・アスムッセン専務理事は、「水害保険を強制化するだけでは、経済損害を減らすことにはつながらない。重要なのは、法律によって減災努力を義務付けることだ。たとえば、河川の流域など、水害の危険が高い地域に家屋やマンションを建てることを禁止するなど、リスクを減らす努力と組み合わせることが不可欠だ」と主張している。
GDVは、地球温暖化の進行とともに気象災害の頻度が将来高まることが予測されるので、減災努力を行わない場合、ecの保険料が将来大幅に高くなると警告している。保険業界は、減災のための法的枠組みが整備されるならば、損保業界はリスクに見合った保険料に基づいて、既存・新規の保険契約を問わず全ての建物保険に水害カバーを自動的に付け加える準備があると説明している。保険業界は、「まずリスクマネジメントと法律の整備によって、洪水による損害を減らそうとする努力が先決だ。さもないと、気候変動のために増加する損害額を、保険業界が負担させられることになる」と警戒しているのだ。
またGDVのアスムッセン専務理事は、「バーデン・ヴュルテンベルク州が1994年まで持っていた洪水に関する強制保険も、将来の制度の見本にはならない。その理由は、当時の公的保険の保険料水準が、水害リスクを十分に反映していなかったからだ」と述べている。
スイスの方式を推奨
GDVは、スイスの洪水保険モデルを推奨している。GDVのノルベルト・ロリンガー会長は、今年3月28日、「洪水保険の強制化と減災対策を組み合わせているスイスの制度が理想的だ」という見解を明らかにした。
ロリンガー会長は、「洪水による損害額を抑制するには、保険・減災対策・気候変動への適応の3つを組み合わせることが不可欠だ。ecを強制化するだけでは、不十分だ」と指摘した。
その上でロリンガー会長は、「強制保険と減災対策を組み合わせたスイスの制度が、理想的だ。スイスの強制保険制度には、治水対策などの専門家も加わっている。ある地域で洪水の危険が高いと判断されると、その地域の家屋の所有者は他の地域へ移ることを求められる」と指摘した。
また、フランスの洪水強制保険についてロリンガー会長は、「誰が洪水による損害について補償を受けられるかや、補償の時期などが政府によって決定されるので、市民にとっては透明性に欠ける制度だ。市民は、洪水保険についても契約としての観点から透明性を望むと思われる」と述べ、ドイツでの強制保険には適していないという見方を示した。
ロリンガー会長は、「ドイツの大半の建物は、洪水が100年~200年に一度の頻度で起きる地域にあるので、ほとんどの場合保険業界は保険カバーを提供できる。ただし洪水リスクが高い地域での建物の建設を禁止するなどの減災対策を組み合わせないと、一部の地域で保険料が高騰する可能性がある」と述べ、政府に対策を取るように求めている。ロリンガー氏は、ヴィ―スバーデンに本社を持つR+V保険の最高経営責任者(CEO)でもある。
ドイツは今年に入ってからすでに2回水害が起きており、保険業界は約2億ユーロ(340億円)の保険金を支払っていた。
同国で最大の保険損害をもたらした自然災害は、2021年7月にラインラント・プファルツ州などを襲った水害で、支払保険金額は90億ユーロ(1兆5300億円)に達した。アール川流域では、多くの建物や橋梁が土石流によって破壊され、町々がまるで戦場のように荒廃した。現場を訪れたアンゲラ・メルケル首相(当時)は、「あまりの惨状に、私は言葉もない」と語った。この水害は、ドイツ人の心に気候変動がもたらす災害の恐ろしさを刻み込んだ。
ちなみにこの地域では、ecを持っていた建物所有者の比率は、40%にすぎなかった。プログノス研究所は「道路などの公共インフラや保険がかかっていなかった家屋の被害なども含めると、アール川流域の経済損害の総額は405億ユーロ(6兆8850億円)にのぼる」と推計した。この推計が正しいとすると、保険でカバーされたのは、被害額の22%にすぎなかったことになる。
アール川流域の被災地域では、洪水で家屋が破壊された地域に再び家屋が建設されている。市民たちが、生まれ育った地域を復興させるために同じ場所に建物を再建したいと思う気持ちは理解できる。だがリスクマネジメントの観点から言うと、問題が残る。GDVは、「アール川流域のように洪水の危険が高い地域には、本来建物を建てるべきではない」と指摘している。
GDVの統計(※1)によると、1973年から1999年までの29年間に 、支払保険金額が50億ユーロ(8500億円)を超えた自然災害は3回発生した。 しかし2000年から2022年までの22年間に支払保険金額が50億ユーロを超えた自然災害は5回起きている。
保険会社に再保険カバーを販売する再保険会社の大手、スイス・リー(本社・チューリヒ)が今年3月26日に行った発表によると、2023年に全世界で発生した自然災害による経済損害額は2800億ドル(42兆円・1ドル=150円換算)で、その内38.6%が保険業界によって支払われた。残りの61.4%には保険がかけられていなかった。スイス・リーは、「今後は地球温暖化によって極端な気象災害の頻度が増える。このため、自然災害による経済損害額が、10年後に現在の2倍に増える可能性がある」と警告している。
日本経済新聞は6月9日付の紙面で「日本では、水害による面積当たりの資産への損害額が過去30年間で3.5倍に増えた」と報じ、激甚水害の危険性について警鐘を鳴らした。今後は日本でも、激甚水害のコストを国や地方自治体が負担するのか、それとも保険業界が負担するのか、負担をどのように配分するのかという議論が行われるだろう。我々日本人にとっても、ドイツで行われている水害コストの負担をめぐる議論は決して対岸の火事ではない。
※1 https://www.gdv.de/resource/blob/154862/62e2241570d48cab361eaafc7379f62f/naturgefahrenreport-datenservice-2023-download-data.pdf