プーチンの愛国心教育は新たな「メディンスキーとトルクノフの歴史教科書」にどう記されたか(上)

執筆者:西山美久 2024年5月20日
エリア: ヨーロッパ
公定歴史教科書『ロシア史:1945年から21世紀初頭』は、ウクライナ侵攻に関するプーチン大統領の各種判断を正当化する[クレムリンで行われた通算5期目の就任式に臨むプーチン大統領=2024年5月7日、ロシア・モスクワ](C)EPA=時事
ウクライナへの侵攻が開始されて以降、ロシアは学校教育の場で「特別軍事作戦」の正当性を認知させる数々の施策を導入している。昨年9月の新学期から導入された11年生(日本の高校3年生に相当)用の歴史教科書は、メディンスキー大統領補佐官とモスクワ国際関係大学のトルクノフ学長が中心となって執筆した、ロシア国民向けに「国家の立場を示し、時事問題に対する国家の立場を考慮した研究者の観点も示されている」(メディンスキー氏)初めての教科書だ。そこには、プーチン政権の愛国ナラティヴをロシアの内在論理へと転化させるプロセスが具体的に見て取れる。

 ウラジーミル・プーチン大統領は、2022年2月24日に行った国民向けの演説で北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大などロシアの主張に耳を傾けない西側への恨みを述べた上で、「特別軍事作戦の目的は、8年間、ウクライナ政府によって虐げられ、ジェノサイドにさらされてきた人々を保護すること」であり、そのために「ウクライナの非ナチ化と非軍事化を進める」とし、ウクライナへの軍事侵攻を発表した1

 これを受け、日本を含むG7各国が主導し「前例のない大規模な経済制裁」をロシアに科した2。世界から非難される中、プーチン大統領は軍事侵攻を正当化するために、特に国内では若年世代を対象にした愛国教育を推進している。

 その一環として歴史教育にも関心が集まり、元文化相で現在大統領補佐官のウラジーミル・メディンスキー氏と、外交官や諜報機関員の養成機関として知られるモスクワ国際関係大学学長のアナトリー・トルクノフ氏が新たな歴史教科書『ロシア史:1945年から21世紀初頭』を執筆、ウクライナへの軍事侵攻に至る背景などプーチン大統領が主張する「ロシア側の視点」が説明されている。

 2024年2月に3年目に突入したロシア・ウクライナ戦争への関心は日本も含め依然として高く、愛国教育はロシアの内在論理を理解する上で重要な論点の1つだと言えよう。そこで本稿では、同教科書で展開されているロジックを確認することで、プーチン政権の愛国ナラティヴについて明らかにしたい。

『ロシア史:1945年から21世紀初頭』

1.侵攻長期化で愛国心教育と歴史教科書の刷新に踏み切る

 英王立防衛安全保障研究所(RUSI)によれば、ロシアは開戦後10日でウクライナを打倒し、2022年8月頃までに併合する短期決戦を計画していたという3。ところが、ウクライナへの軍事侵攻は長期化し、その正当化のために国内では愛国教育に重点が行われるようになった。

 2022年3月末の段階で大統領補佐官のメディンスキー氏は、生徒の愛国心を鼓舞するためにもアメリカのように国歌斉唱や国旗掲揚を教育現場で行うべきだと指摘4、教育省は早くも4月中旬にその導入を決めた5。それだけではなく、教育省は2022年7月に歴史教育や軍事侵攻を主要なテーマにした「大切な話をしよう」と題する課外授業を毎週月曜日に実施するよう各学校に求めた6

 プーチン大統領が2022年9月末に予備役を対象にした部分動員を発したことで、若者を中心に国外へ脱出する者が増加し、その数は70万人とも言われた7。独立系調査機関レヴァダ・センターが2022年10月20日から10月26日にかけてロシア50の地域に住む18歳以上の1604名を対象に実施した世論調査によれば、「絶対に停戦交渉」26%、「どちらかと言えば停戦交渉」31%であったのに対し、「軍事作戦を継続」22%、「どちらかと言えば軍事作戦を継続」14%であった8。停戦を求める声が半数以上に及び、政権は「特別軍事作戦」の正当化に迫られた。

 愛国教育が整備される中、国歌斉唱や国旗掲揚、課外授業「大切な話をしよう」を補うためにも、当局は歴史教育にも触手を伸ばした。例えば、政権与党「統一ロシア」幹事長で上院第一副議長のアンドレイ・トゥルチャク氏は2022年8月末、青少年愛国団体のメンバーと面会した際、メディンスキー大統領補佐官や教育相のセルゲイ・クラフツォフ氏を交えて「特別軍事作戦」に関する説明を盛り込んだ歴史教科書の編纂の必要性について意見交換し、「我々は特別軍事作戦の説明を伴う正確な歴史教科書を刊行する」と発言した9。「正確な」とあえて言うことで、軍事侵攻を正当化する意図が窺える。

 政治の動きに合わせ、2022年8月に公布された「教育スタンダードの一部改正に関する教育省令」では、10年生から11年生(日本の高校2年・3年に相当)の生徒はロシア史における重要事の1つとして「特別軍事作戦」を学ぶことになるとされた10。この「教育スタンダード」とは、日本の文部科学省が告示する学習指導要領に相当し、教育課程の基準となる。今回の改正により、「特別軍事作戦」は歴史科目で扱われる項目に正式に追加された形となった。

 上記省令を受け、ロシアの大学入試業務を所轄する連邦教育・科学監督庁は2022年9月、歴史教科書の記述内容が改訂された暁には、日本の大学入学共通テストに相当する「統一国家試験」の歴史科目の出題範囲に「特別軍事作戦」が追加されると発表した11

 クラフツォフ教育相は2022年12月2日、記者から歴史教育の内容について問われると、トゥルチャク氏の発言を繰り返すように、「特別軍事作戦」の説明が「新しい教科書に必ず盛り込まれる」12と言明したほか、「特別軍事作戦」で貢献して「英雄」とされた軍人らも教科書に記述されることになると述べ13、内容について一定の方向性が示されつつあった。

2.31人の歴史家に示したウクライナ観と西側観

 新たな歴史教科書の編纂が喫緊の課題として浮上する中、プーチン大統領は2022年11月4日に開催された歴史家との会合に出席し、ロシア・ウクライナ戦争や歴史教育などをテーマに参加者と議論した。

 会合には、メディンスキー大統領補佐官、対外諜報庁(SVR)長官兼ロシア歴史協会会長のセルゲイ・ナルィシキン氏、ロシア科学アカデミー副総裁のニコライ・マカロフ氏、ロシア軍事・歴史協会学術幹事のミハイル・ミャフコフ氏、保守派の論客で「歴史発展基金」総裁のナタリア・ナロチニツカヤ氏、ロシア科学アカデミーロシア史研究所所長のユーリー・ペトロフ氏、モスクワ国際関係大学学長のトルクノフ氏ら計31名が専門家として出席した14。……

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
西山美久(にしやまよしひさ) 東京大学先端科学技術研究センター特任助教 九州大学大学院比較社会文化学府博士課程修了。筑紫女学園大学、北九州市立大学、長崎県立大学にて非常勤講師を務めたのち、北海道大学国際連携機構特任助教を経て現職。専門は現代ロシア政治。著書に『ロシアの愛国主義ープーチンが進める国民統合』(法政大学出版局、2018年)がある。
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