激動の戦後を生き抜いた「次郎さん」との出会い
最後に「歴史の闇に消える前に」との思いから、貴重な日越秘史を証言してくれた元ベトナム人民軍砲兵少佐、フィン・チュン・フォン氏(96)のことについても触れておこう。
フィン氏との縁は筆者が新聞記者だった2008年夏に終戦関連記事でインタビューした小野田寛郎氏(1922~2014)の一言がきっかけだった。
小野田氏は戦後29年間、終戦を信じずにフィリピン・ルバング島で「残置諜者」任務を継続した元陸軍少尉。インタビュー中に「同期の谷本君とベトナム独立」の話題が飛び出した。
「谷本君」とは、小野田氏と同じく諜報、遊撃戦術の教育機関・陸軍中野学校二俣分校の一期生で、鳥取県出身の谷本喜久男元少尉(1922〜2001)のことだった。「特攻教室」の教官を務めた猪狩和正元中尉と同様、戦後もベトナムにとどまり、クァンガイ陸軍中学で教官を務めた。
谷本氏のベトナム戦記は拙著『アジア血風録』(MdN新書、2021)の中でまとめた。遺族から託された資料の中で、谷本氏が1996(平成8)年にクァンガイ陸軍中学創立50年式典に招かれ、当時の教官仲間と40年ぶりにベトナムを訪問し、通訳だった通称「次郎さん」ことフィン氏(日本軍警備隊には先輩通訳「太郎」氏もいた)との再会を果たしたこと、かつての4人の教官のうち唯一物故していた猪狩和正氏の代理で、次男の正男氏がこの式典に出席したことを知った。その後の正男氏との接触のなかで、フィン氏がいまもニャチャンで存命であることがわかったのだ。
こうした縁で、筆者はコロナ禍が落ち着いた2022年5月に訪越し、ニャチャンでフィン氏に面会。高齢のため1日1時間の約束でインタビューを重ね、今年5月までの5回の訪越で計10時間以上取材し、今回の一連の証言を得た。
日本軍特有のカミカゼ戦術がベトミン軍に直接伝授された「特攻教室」の存在は、現地でも知る人は限られており、日本ではまだ報じられたことがない。
採用時は給仕係、後に明号作戦にも参加
フィン氏は1928年10月5日、ニャチャンの農家に生まれた。地元中学に2年まで在籍しフランス語を学んだが学資が続かず、1943年、ニャチャン市内のホテルに置かれていた日本軍警備隊の給仕係に採用された。日々の業務を通じて日本語を覚えていったが、給与はなく、寝食の保証が報酬だった。
陸軍中野学校出身の情報将校だった谷本氏とは、ここで知り合った。明号作戦の準備期間中は「谷本氏が背広姿で三菱商事社員として情報収集活動を行ったのを覚えている」という。連れ立って南中部の高原都市バンメトートに出張し、資源買い付けなどを装ってフランス軍に関する情報収集を手伝ったこともある。
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