早稲田大学雄弁会

執筆者:斎藤貴男 2000年8月号
タグ: 自衛隊 日本
エリア: アジア

第一次森政権は四人のOBを擁する“雄弁会内閣”だった。過去にも数多くの政治家を生み出してきた名門サークル。そこは現実政治の縮図だった。

 早稲田大学政治経済学部二年の島和英君は、佐賀県の名門進学高校の出身である。成績優秀。生徒会長としてリーダーシップを発揮した経験もあり、将来は九州大学か京都大学を卒業して高級官僚を目指すつもりでいた。
「ハッキリ言って世の中を舐めとった。エリート気取りで、他人を見下した態度を取っていたんだろうと思うんです。ところが、大学入試に滑ってしまった。偉そうにしていた分だけ、アイデンティティ・クライシス。次第に予備校にも行かなくなって、建設現場で働き始めたんですが……」
 骨まで軋む肉体労働。熱い血潮の仲間たち。面倒見のよい現場主任には大人の男を感じ、特に憧れていた。
 その主任が、ある時、上役に叱責された。バイトを甘やかすので工事の能率が落ちたという理由からだった。
 酒に誘われた。申し訳なく、うなだれた島君に、主任はこう言った。
「上の人間というのは現場を知らん。だが現実に、そんな奴らが社会を動かしとるんだ。島、お前は見所のある男だ。偉くなれ。そのためには大学に行け。一生懸命勉強しろ」
 これで目が覚めたという。彼は受験戦線に復帰し、二浪したものの早大に合格。政治家志望の集まる名門サークル・雄弁会に入会した。
「現場主任の言う“現実”と理想との乖離を少しでも埋めるためには、官僚より政治家だと思ったんです。『天下一人を以て興れ』と訴えた中野正剛に僕は惹かれる。彼の元をただせば雄弁会だ。早稲田に入ったからにはと会室(部室)を覗いてみて、そのまま居ついてしまっています。
 雄弁会では、自分の吐いた言葉に責任を取らねばならない。それだけ正面から、きちんと応えてくれるんです。相手に嫌われることを極端に恐れる今の時代に、こいつらすげえと素直に感じることができたから」

四人もいる雄弁会出身総理

 島君のような学生たちが、雄弁会に集まっては散じていく。日常的な活動自体は何ほどのこともない。弁論大会の主催や参加、テーマを分けての勉強・研究会の運営といったところでしかないのだが、数えきれないほどの政治家が、ここから巣立っていった。
 竹下登、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗――総理大臣にのぼり詰めたOBだけでも四人になる。彼らの功罪は後述するとして、現役会員の話を続けたい。
 法学部二年の内村弘樹君。
「僕は国家安全保障に関心があり、まず防衛大学校に入学しました。そこで装備や技術の充実に比べて法整備や外交的対応などのソフト面が決定的に欠けている実態を知って、自衛隊の幹部になるより、政治家になって防衛問題に取り組んでみたいと考えるようになったんです。
 早稲田を受け直したのは、雄弁会があったから。今は法律を勉強して法曹界に進み、そこから政治へというコースを描いています」
 法学部一年の関口慶太君。
「僕の育った町の市長は土建屋の社長で、市政をいいように私物化していました。住民に民主主義の当事者意識が乏しいとこうなるのかと、中学の頃から思い知らされていたんです。
 僕にとって雄弁会とは、では自分自身が当事者として生きるにはどうすればよいのかを問い詰めていく場。今はまず、問題意識を持って勉強したい。志望はその上で考えます」
 山下卓宏君は教育学部の三年生だ。
「みんなと違って、僕が初めて雄弁会の門を叩いたのは二年の十一月になってからでした。ありがちですが、それまでは“自分探し”の毎日。目的意識もなく、与えられたものをこなしているだけの自分が嫌で、海外を一人で旅し、貧しい国の現実を見て、とにかく何かをしなくちゃと悩んでいたら、いつの間にか会室の前に立っていた。
 教育や人材養成の分野に興味がある。でも、就職活動の季節が近づいて、最近は少し考えることもあるんです」
 政治家志望ばかりではない。木原幹雄君(法学部二年)の目標は、弁護士である。
「高校の頃は政治家が嫌いで、法学部を受けたのも、検察官になって悪い奴らを追及してやろうと。敵を知らねばと思って雄弁会に入ったんですが、そのうちに政治への関心が深まってしまった。三権に第四の権力としてのマスコミを加えて、それぞれ牽制し合う形が望ましいが、では表現の自由はどうなるのかとか、最近はそんなことを勉強しています」
 七月の「全関東学生弁論大会新人大会」で優秀賞に輝いたのが丹治太君(社会科学部一年)だ。彼の志望は高校教師。
「僕らは幸せに暮らしているけれど、少し広い視野で世界を見渡すと、飢えている人が八億人もいる現実に直面する。平和なはずの日本の社会だって、資本主義がここまで来ると、人と人との関係を成立させてきた倫理観が失われつつあるわけです。僕は地域や学校から変えていきたい」
 雄弁会は政界以上の男社会だが、女性メンバーも存外多い。商学部一年の小谷薫君を紹介しよう。
「小学六年で政治家に憧れたんですけど、中学、高校と、生徒が何を言っても無駄な女子校だったんで、ファッション誌ばかり見ておとなしくしてました。でも高三で雄弁会っていうのがあると知って早稲田に来たんです。
 新入生歓迎合宿での弁論大会で教育問題を取り上げたら、先輩に『そういう教育のせいでお前みたいな人間ができたんだろ』って野次られちゃった」
 辛辣な野次で泣かされる学生も珍しくない雄弁会の新歓合宿。堂々と立ち向かった彼女の度胸に、先輩一同、久々の大器登場を喜んだという。

結成は一九〇二年

 第一次森政権は“雄弁会内閣”であった。首相(六〇年商学部卒)以下、深谷隆司・通産相(六〇年法学部卒)、玉澤徳一郎・農水相(六五年大学院卒)、青木幹雄・官房長官(法学部中退=五九年卒と同期)、額賀福志郎・官房副長官(六八年政経学部卒)と続いた。
 総選挙後の第二次森政権で、首相以外は閣外に去ったものの、学生時代の“政治ごっこ”をそのまま現実政治に持ち込んだような内閣の印象は変わっていない。やはり雄弁会OBだった故・小渕前首相(六二年第一文学部卒)が脳梗塞の病床にあった際、他に誰もいない密室で後を託されたという青木前官房長官の指名で成立した政権の延長線上である限り、それは永久に払拭されないだろう。
 森首相自身のキャラクターにも問題があり過ぎる。「神の国」「国体」と失言を重ね、選挙戦の不利を伝えられていた頃、保守党の扇千景党首(現、建設相)は、こう言って彼を弁護した。
「森首相は、戦前の日本に戻すなんて、これっぽっちも思っていない。ただ、森さんは早稲田大学雄弁会(出身)だから、わかりやすく端的に表現しようと思って、そういうことを言ってしまったのでしょう」(『朝日新聞』六月九日付)
 これでは雄弁会は“サメの脳味噌”養成所という話になりかねないが、もちろん、そんなことはない。六十歳を超えた人間の不始末の原因を四十年前のサークル活動に求めるのは、いささか乱暴なのではなかろうか。

 我が早稲田大学雄弁会は
 経国在民の志を有する
 情熱と実践力とに溢るる
 学生の集まりであって
 大隈侯建学の精神たる
 学の自由と独立とを死守し(後略)

 このような会旨を掲げる雄弁会の源流は、一八九〇年代の足尾鉱毒事件に遡る。田中正造翁に続けとばかり、全国の大学生が壊滅的な被害を受けた農民の救済運動を展開したが、中でも高木来喜、佐藤千纏、永井柳太郎ら、早大からの参加者たちは、そのまま政治・社会運動の理論研究および実践を目指す集団を学内に結成した。
 時に一九〇二(明治三十五)年十二月三日。趣旨に賛同した大隈重信侯を総裁に戴き、学監の高田早苗博士が顧問、安部磯雄教授が会長となった。
 命名の由来は、「わが国に能弁家や達弁家は多いが、真の雄弁家は見当たらない。輿論を喚起し、一世を動かすような雄弁家たらん」だった旨、『早稲田大学雄弁会八十年史』にある。確かに“志”の集団であったのだ。
 OB政治家たちを、もう少し列挙しておく。
 西岡竹次郎・元長崎県知事、堤康次郎・元衆議院議長、浅沼稲次郎・元社会党委員長、橋本登美三郎・元自民党幹事長、佐藤観次郎・元衆議院議員、石田博英・元労相、三塚博・元蔵相、武藤山治・元社会党副委員長……。
 反軍演説の斎藤隆夫・元国務相や石橋湛山・元首相、緒方竹虎・元自由党総裁らの名が挙がる場合があるが、彼らは早大卒ではあっても、雄弁会員ではなかった。斎藤はOB名簿に載っているが、卒業年次は会結成よりも古く、名誉会員的な扱われ方のようだ。いずれにせよ多士済々、雄弁会が多彩な個性による歴史を積み重ねてきたことがわかる。
 もっとも、森首相が在籍していた五〇年代後半は、イメージ通り、右派バンカラ勢力が最も盛り上がっていた時代であったらしい。雄弁会幹事長を務め、後に竹下政権を支える“七奉行”の一人となった渡部恒三・衆議院副議長(五七年大学院卒)が回想する。
「六〇年安保の直前、今と違って左翼全盛で、マルクスを抱えていないと学生じゃないって時代だったからね。われわれはそれに反発して、これも古くなってしまったけど、ケインズ経済学を懸命に学んだものです。
 まあそんなことより、一番の思い出は、伊豆半島でやった地方遊説だよ。振り返れば滑稽だが、あの頃の雄弁会は、年に一度、そんなことをやっていたんだ。私は会津の山育ちだから海が珍しくて、刺身が旨かったなあ。
 当時のこととはいえ、学生だけでは人が集まらないので、『人生劇場』の尾崎士郎先輩にも演説をお願いしたりした。尾崎先輩と酒をご一緒できたことは、私の誇りですよ」
 渡部幹事長体制は、同期生二人の副幹事長が支えた。“弁論の名手”こと海部俊樹・元首相(五四年法学部卒)と、リクルート事件で失脚し、後に議席を取り戻した藤波孝生・元官房長官(五五年商学部卒)。
 渡部氏によれば、学生時代に最も才能のキラメキを感じたのは、この藤波氏であったとか。森首相は彼らと入れ替わりで入会してきたのだったが、戦後間もない頃から激化の一途を辿っていた会内派閥による権力闘争が、この前後から自己目的化していく。
 権力闘争とは、すなわち総会における幹事長選挙での勝負。飯や酒で買収したり、幽霊会員に一票を投じさせたり。それはまぎれもなく、金と欲が支配する現実政治の縮図でもあった。

“実弾”が飛び交った幹事長選

 時計の針を二十年ほど進める。七九年に幹事長を務め、航空自衛隊などを経て評論家に転じた潮匡人氏(八三年大学院卒)の体験談。
「私の頃の雄弁会を一言で表わすと、派閥活動に尽きますね。幹事長をやりたい人間が多いんで、すでに昭和四十年代から、半年に一度の選挙という形になっていました。“実弾”が飛び交うと言っても少額ですが、実家があまり貧しいと、派を維持できないということはあります。
 当時はまだイデオロギー対立が基本でした。吉本隆明を信奉する左翼的な派と、いわゆる市民派、自民党そのものみたいな派。均衡していてどこも過半数が取れないので、合従連衡の駆け引きが展開されました。
 私はその谷間で幹事長になったようなものでしたが、次の幹事長を荒井広幸(八二年社会科学部卒、現、衆議院議員)に継がせるのが大変だった。投票日の前日になって連合相手を変更したもんで、“裏切り者!”と罵倒されたのを覚えています(笑)」
 幹事長の座を射止めたからといって、別に得があるわけでもない、所詮は、ぼんぼん学生たちの権力ゲーム。ではあるが、そんなことばかり一生続けたがるOBも後を絶たない。
 最近では、倒産したゴルフ場経営会社・日東興業の再建に当たっていたK副社長が、突然解任された。海部政権が誕生した際、日本航空から首相補佐官に抜擢された人物だが、政治的に過ぎる行動が日東社内の反発を買ったと言われる。
 こうした体質を、OBで衆議院議員の安住淳氏(八五年社会科学部卒)は痛烈に批判する。
「十八歳やそこらで、女の子と遊びたい盛りの男どもが、権力ごっこに血眼になっているなんて歪んでいますよ。ロクなもんじゃない。ただ、お前だって卒業までいたじゃないかと言われれば、その通りだけどさ」
 ともあれ、集まり散じて人も替わる。昨年から自分の法律事務所を雄弁会OB会事務局に提供している沼田安弘弁護士(六二年大学院卒、早稲田大学評議員)の集計によると、四六年から九七年までの五十年間で雄弁会出身と認められるOBは約千人を数える。このうち六十七人が政治家になり(国会議員二十九人、地方議員三十八人)、百十一人がマスコミ関係、四十一人が学者や弁護士の道を選んだという。
「物事を大きく捉え、天下国家に貢献するのが雄弁会魂。私が直接関わるからには、このところ弱体化していた人脈ネットワークを再構築し、政治を志すOBを組織的に応援することもやっていくつもりです。あくまでも精神的なゲマインシャフト(共同社会)として、ですが――」(沼田氏)

世襲政治家の卵は見当らず

 再び現役学生たちのキャンパス。雄弁会の活動は、ここ数年で随分と様変わりしたようだ。
 雄弁会内閣のお陰で注目度が高まり、今春の入会希望者はおよそ二百五十人にも達した。ただし大学サークルの常で全員が定着するわけではなく、七月末現在、全学年を合わせて四十五人程度に落ち着いたという。また、企業の求人が早期化してきたのに伴い、活動の中心が二年生になった。
 一方、森首相らを育てたような権力闘争のシミュレーションはすっかり影を潜めた。現幹事長の金澤篤憲君(商学部二年)も、三月の総会で唯一の候補者として立ち、信任投票の結果で選ばれた。
「僕の場合は、前幹事長からの相談があって、みんなで決めました。対立候補があっても、事前に会合を開いて全体の意思を統一した上で総会に臨むのが、近年の慣例になっています。
 東西冷戦の構造が崩壊したために、明確な対立軸が顕れづらくなったのでしょう。イデオロギーで対立できた頃はみんなが熱かったのだろうし、論争もわかりやすかったのだろうけど、時代は変わりました。僕たちの議論はいつも、新自由主義的な改革の必要性を前提に、では市場の失敗をどうフォローすればよいのかという話に収斂していきます」
 すべての若者は時代の子である。OBで顧問の山本武彦・政治経済学部教授(六八年大学院卒、国際政治学)が、気になることを言っていた。
「将来の出馬を視野に入れてだろうけど、近頃はまず官僚を目指す学生が増えてきましたね。彼らをはじめ、現役の諸君に共通していると思えるのは、よく勉強しているし、壇上で聴衆に語りかける弁論は実にうまいんだが、同じ目線の高さで自由に討論させてみると、決して一般学生に比べてうまいわけではないということ」
 泥臭い派閥政治から、“政策新人類”たちの政治へ。東大卒のエリート臭さや慶応卒のスマートな雰囲気がよく似合う現実政治の潮流は、良くも悪くも、早大雄弁会にも反映されている。
 ただ、故・小渕前首相の選挙区を二十六歳の次女・優子嬢が世襲したことに象徴される、今や日本の政治の日常的な光景となってしまった二世たちの跋扈は、現在の雄弁会室には存在しない。だからこそ私は、彼らに希望の光を見る。

カテゴリ: 社会
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