饗宴外交の舞台裏 (159)

「招宴」で日・タイ関係を支えた大使と公邸料理人

執筆者:西川恵 2011年8月16日
タグ: フランス 日本
エリア: アジア

 日本の外交は「公邸料理人制度」に支えられているところが小さくない、と私は考えている。大使が料理人を任地に帯同し、その国の要人を日本料理でもてなす。人間関係を作り、感触を探り、情報をとる場として、この招宴外交は日本外交を基層で支えている。
 今年3月末、迎賓館長を最後に外務省を退官した小林秀明氏は2005年11月から08年9月まで駐タイ日本大使を務めた。私が知る限り、氏ほど活発な招宴外交をした大使も珍しい。その一端を紹介したい。

タイの皇太子夫妻をもてなした懐石料理

王族として初めて大使公邸を訪れたワチラロンコーン皇太子とシーラット妃(c)EPA=時事
王族として初めて大使公邸を訪れたワチラロンコーン皇太子とシーラット妃(c)EPA=時事

 大使の第1の仕事は、人と広く知り合いになり、人脈を作ることである。小林氏がまず考えたことは、早期にタイ王族を招くことだった。それまでの日本大使は「畏れ多い」という気持ちがあったせいか王族を招いていない。氏は直前まで出向で東宮侍従長を務め、心理的バリアーは低かった。ただ狙いは別にあった。「王族を公邸にお招きすることで“日本大使公邸はトップレベルの人が招かれる”との印象を与えられます。そうなると首相や経済界のトップも進んで招待を受けてくれます」。  その機会は早く来た。プミポン国王に信任状を奉呈して本格的な外交活動を始めた直後の06年4月、氏は淑子夫人と共に国王の後継者とされるワチラロンコーン皇太子とシーラット妃を表敬訪問した。  氏が皇太子と言葉を交わしている間、シーラット妃と淑子夫人は日本料理の話になった。妃は日本料理が大好きで、バンコク市内の高級ホテルの日本料理レストランにしばしば行くと明かした。淑子夫人が「公邸には日本料理のコックがいるので、ぜひおいでください」と誘うと、妃は「喜んで」と答えた。  4月の一夜、皇太子夫妻とそのお付きの車列は15台のパトカーに守られて公邸に入った。警護員45人が厨房で目を光らせた。メニューは懐石料理。事前に大使夫妻と公邸料理人の寺澤健祐氏で決めたが、問題は皇太子夫妻の好きなものが違ったことだった。皇太子は魚介類にアレルギーがあり、肉類と野菜が好物。一方の妃は魚介類が好きであまり肉類は食べない。「準備が大変でした」と寺澤氏は振り返る。  天ぷらが大好きという皇太子には野菜の精進揚げ、妃にはエビなどの魚介類の天ぷら。最後のご飯では、皇太子は牛肉のそぼろを使ったニンニクライス、妃には大好物のカリフォルニア巻と握り。寺澤氏が腕によりをかけた料理に、皇太子夫妻は「街のレストランとは全然違います」と喜んだ。食後、空手演武と着物の着付けショーのアトラクションも行なわれ、饗宴は成功のうちに終わった。

カテゴリ: 軍事・防衛
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
執筆者プロフィール
西川恵(にしかわめぐみ) 毎日新聞客員編集委員。日本交通文化協会常任理事。1947年長崎県生れ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、専門編集委員を経て、2014年から客員編集委員。2009年、フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。著書に『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』(新潮新書)、『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、『ワインと外交』(新潮新書)、『饗宴外交 ワインと料理で世界はまわる』(世界文化社)、『知られざる皇室外交』(角川書店)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)、訳書に『超大国アメリカの文化力』(岩波書店、共訳)などがある。
  • 24時間
  • 1週間
  • f
back to top