古代の外交と言えば、遣隋使や遣唐使をすぐに思い浮かべるだろう。中国に媚び、先進の文物のおこぼれを頂戴したイメージが強い。けれども、邪馬台国の時代(2世紀後半―3世紀)の倭人は、積極的かつ能動的に外交戦を展開し、東アジアで一目置かれる存在であった。「魏志倭人伝」の倭国にまつわる記事の量が他の地域と比べて多いのは、中国側が倭国を重視していたからだ。
ちなみに、「魏志倭人伝」の「魏」は、『三国志演義』で知られる魏、呉、蜀の「魏」で、中国の混乱と邪馬台国問題は、けっして無縁ではなかった。
魏王曹操の縁者の墓(安徽省亳県)から、「有倭人以時盟不」と記された奇妙な磚(せん:レンガ)が出土している。「倭人はわれわれと盟約を結ぶだろうか」というのである。
磚は西暦170年ごろに造られたもので、これは邪馬台国出現の直前の話だ。
この磚はあまり重視されていないが、中国が倭の動静に関心をもっていたことを示している。たとえばこののち魏の宿敵・呉は、蜀だけではなく朝鮮半島を支配していた公孫(こうそん)氏と組んで、魏を挟撃しようと企んだ。その橋渡し役を倭国が担っていた可能性がある。ところが、魏は公孫氏を滅ぼし、帯方郡(朝鮮半島西岸中央部)に進出し、朝鮮半島を押さえてしまった。そこで倭国の卑弥呼は、間髪入れずに魏に朝貢している。
情勢を見極めた変わり身の速さこそ、倭国外交の真骨頂であった。そして倭国は、背後の憂いのない優位性を生かし、キャスティングボートとなって、朝鮮半島に影響力を及ぼしていく。こののち朝鮮半島諸国が倭国に多くの文物をもたらすのも、倭国の軍事力をあてにしたからである。
ちなみに、卑弥呼が獲得した「親魏」の称号は重みのあるもので、与えられたのは、倭国王と中央アジアの大月氏(だいげっし)国(現在のアフガニスタンとその周辺)の王だけである。
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