Bookworm (35)

垣根涼介『信長の原理』

評者:杉江松恋(書評家)

2018年9月23日
タグ: 中国 ドイツ 日本
エリア: アジア

“パレートの法則”から
信長の「謎」を読み解く!

かきね・りょうすけ 1966年長崎県生まれ。2000年『午前三時のルースター』でサントリーミステリー大賞と読者賞をダブル受賞。『光秀の定理』など著書多数。

 連立方程式を解けたときの快感。
 それが垣根涼介『信長の原理』の魅力である。変数xは、織田信長はなぜ田楽狭間(でんがくはざま)の戦いで今川義元を破ることができたのか、という問いだ。yは、その信長が明智光秀に討たれたという事件、本能寺の変の真相である。この2つの謎を解くための意外な鍵が開巻早々に呈示される。蟻、である。地を這うあの蟻。
 吉法師(きっぽうし)と呼ばれた少年時代から、信長には1つの疑問があった、と垣根は書く。どんな合戦でも必死の働きを見せるのは全体の2割に過ぎないということだ。やがて信長は、蟻にもその法則が当てはまることに気づく。最初から懸命に働く蟻は2割、それについていこうとするのが6割、残りの2割は怠(なま)けているだけだ。ことによるとこれは、宇内(うだい)のすべてに共通する原理なのではないか。この発見が信長を変えていく。蟻の原理が自身の部下を用いる際の前提になっていくのである。
 幼少期には重臣からもうつけ殿として蔑(さげす)まれていたという信長が、人心を掌握して組織の長としての抜群の才能を揮(ふる)うようになるまでが小説の前半部だ。常に相手を圧倒する兵力をもって敵に対した戦略の合理性、時に残酷ともいうべき処断を下すこともあった性格の激烈さ、そうした複数の互いに矛盾し合う事柄に、作者は明快な解を示していく。こんなに信長が判っていいのだろうか、と畏れの感情さえ湧いてくるほどだ。
 蟻の例から勘のいい方はお判りのように、本書の根底にはパレートの法則がある。経済学や社会学の理論を援用して歴史上の人物の行動を読み解こうとする試みは本書以前にも数多く存在するが、『信長の原理』の秀でている点は、働き蟻の法則が単なる解釈のための物差しに使われるだけではなく、登場人物たちを縛る鎖としても機能している点だ。
 物語の後半では、信長の家臣という地位と引き換えに重い責務を背負った者たちの苦悩が描かれる。信長自身もまた理想と現実の狭間で困惑するのだ。人である以上、生きていけば合理的に割り切れないものにも直面せざるをえない。その拘(こだわ)りが人々の運命を決するのである。1つの原理を書いた小説であると同時に、それに沿って生きられない者たちを描いた群像劇にもなっている。
 連立方程式と書いたが、xとyの他に変数はもう1つある。姉妹篇『光秀の定理』と本書がどう結びつくのか、という関心だ。ページを閉じた後で読者は、間違いなく前作を買いに書店へと走ることになる。

カテゴリ: 社会 カルチャー
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