Bookworm (78)

奥田英朗『罪の轍』

評者:香山二三郎(コラムニスト)

2019年10月20日
タグ: 日本
エリア: アジア

執念の捜査と容疑者の孤独が交錯する犯罪小説の最高峰

おくだ・ひでお 1959年、岐阜生まれ。コピーライター等を経験し、97年に『ウランバーナの森』でデビュー。『邪魔』『空中ブランコ』『家日和』等著書多数。

 貧富の格差がまだ歴然としていた1960年代前半の日本。そんな社会の矛盾に気付き、テロにのめり込むエリート大学院生の姿をとらえたのが、奥田英朗の吉川英治文学賞受賞作『オリンピックの身代金』であった。あれから10年余、今また五輪前夜の東京を舞台に描いた本書は、その前日譚に当たる。
 日本最北の島、礼文島。宇野寛治は幼時に負った記憶障害が原因で、皆から「莫迦(ばか)」扱いされている20歳の青年。漁師の手伝いをする傍ら空き巣をして何とか生計を立てていたが、盗品を質屋で売ろうとして足がつき、逃亡を余儀なくされる。彼の空き巣を知り脅迫していた漁師の赤井にそそのかされ、島からの脱出を図るが、それは罠だった。九死に一生を得た宇野は盗んだ林野庁の作業着に身を包み、東京へ向かう。
 1カ月後の1963年8月、警視庁捜査一課の落合昌夫は南千住署管内で起きた元時計商の老人殺しの捜査につく。その頃、宇野寛治も浅草に流れ着いていた。暴力団東山会のチンピラ町井明男が面倒を見ていたが、山谷で旅館をやっている彼の姉ミキ子は千住で起きた事件を知って宇野の関与を疑り、明男に警告する。
 明男は気にも留めないが、現場周辺では林野庁の腕章を付けた作業服の男が目撃されていた……。
 最果ての島で最底辺の生活を強いられた青年の悲劇というと、『オリンピックの身代金』の貧富の格差テーマともだぶってくるが、宇野寛治は障碍のせいもあってか至って脳天気。その飄々とした性格が気に入られて案外楽天的な生活を送っている。とはいうものの、空き巣はやめられず、千住の殺しの容疑者としても目をつけられる羽目に。
 だが実は本書のキモはこの事件の顛末ではない。宇野の足取りを追って落合たちが礼文島まで捜査に赴き、いよいよ容疑が固まったところで新たな事件が起きる。浅草署管内で小学1年の幼児が誘拐され、犯人から50万円を要求する脅迫電話が入ったのだ。落合たちは誘拐捜査に追われることになるが、果たして千住の殺しとどう関わるのか。幼児の安否を気遣う捜査陣の熱気も高まる。
 64年の東京五輪は様々な意味で時代の節目となったが、63年3月に起きた吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件もこの時代を象徴する事件の1つ。本書はそれをベースに、昭和風俗をふんだんに織り込んだ多層的な警察小説としても、松本清張『砂の器』や水上勉『飢餓海峡』を髣髴させる社会派推理としても読み応えあり!

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