今年12月8日、日米開戦すなわち真珠湾攻撃から80年を迎えます。日本はなぜ「必敗」の対米開戦に踏み切ってしまったのでしょうか――。
思想史研究者の片山杜秀氏が著した『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』は、ある華族出身の陸軍将軍が「劣勢の日本軍が優勢なアメリカ軍を“必勝の信念”で包囲殲滅できる」という狂気じみた論理を生み出してしまう過程を描いています。
小畑敏四郎の「タンネンベルク信仰」
華族出身の陸軍軍人で、「作戦の鬼」の異名を取った小畑敏四郎は、第一次世界大戦時に観戦武官としてロシア軍に付いた経験がありました。その際、強い影響を受けたのが、大戦最初期にドイツ軍の寡兵がロシアの大軍を包囲殲滅した「タンネンベルクの戦い」です。いわば「短期決戦+包囲殲滅戦」の戦法ですが、じつはこれが成功したのはタンネンベルクの戦いぐらいで、あとは一度も実現されませんでした。
ところが、「タンネンベルク信者」であった小畑は、参謀本部作戦課長として陸軍の戦争指導マニュアル『統帥綱領』『戦闘綱要』の改訂を主導した際に、この「短期決戦+包囲殲滅戦」を一般的戦闘法として綱領化します。
すなわち、速戦即決の殲滅戦で一気に決める。突然に天佑神助のように訪れるかもしれない勝機を絶対逃さず敵を叩き潰す。そういう戦争をしたいときは、外交や政治は無視して、将帥の独断専行を認めないと敵の意表もつけない。兵隊や兵器や弾薬が足りなくても、気力と創意工夫と作戦で補えば、いかに劣勢でも勝てると大胆に主張したのです。
この改訂からは、後の日米戦争における補給なき戦闘やバンザイ突撃や玉砕の情景が透けて見えてくるようです。
殲滅戦思想の顕教と密教
ところで、「作戦の鬼」と呼ばれ、陸軍大学校の校長まで務めた小畑は、こんな戦争指導で本当に勝ち目があると信じていたのでしょうか。
片山氏は前掲書で、じつは小畑もそんなことは不可能だと確信していたと分析しています。タンネンベルクの戦いを熟知していた小畑は、ドイツ軍がロシアの大軍を包囲殲滅できたのは、ロシア軍が素質劣等だったからであって、素質優等な相手には通用しないと考えていたというのです。
新『統帥綱領』は建前、いわば“顕教”でした。陸軍には一流国の大軍と戦う能力はないので、アメリカやソ連と一戦を交えるなんてヴィジョンは端からない。速戦即決の殲滅戦で勝てる弱い相手としか戦うつもりがない。でも、最初からそのように公言してしまうと軍の自己否定になってしまうので、表向きは「強敵相手でも包囲殲滅戦で勝てる」と強弁する。要するに「強い相手とは戦争しない」という本音は“密教”として、参謀本部の幹部の胸の内にとどめておくつもりだったのです。
皇道派の失脚が生んだ「玉砕精神」
ところが、小畑にとって想定外の事態が発生します。1936年の「二・二六事件」です。この事件の余波で、小畑らが連なる「皇道派」の軍人が要職からことごとく外されてしまいます。その一方で、『統帥綱領』『戦闘綱要』の文言はそのまま生き残りました。
その結果、密教として文章化されていない教義は忘れ去られ、顕教として書かれてある文言だけがそのまま信じられて、暴走していきます。かくして、装備劣悪で寡勢の日本軍が、装備優秀で多勢のアメリカ軍等を「必勝の信念」で包囲殲滅しようとする、いかにも無理筋の戦いが始まってしまったのです。
さらには、「必勝の信念」がエスカレートして、「敵を殲滅できずとも味方が殲滅されるまで戦い続ける」というとんでもない哲学が生み出されていきます。いわゆる玉砕精神です。
相手の強さ弱さの次第によって殲滅精神は容易に玉砕精神へと転倒してしまう――片山氏は前掲書でそのように指摘しています。小畑の失脚により、想定外の用いられ方をされた『統帥綱領』『戦闘綱要』は「狂気の沙汰」の教典と化してしまったのです。
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