「LGBTの粛清」が蔓延るロシアの「内なる外国」チェチェン

執筆者:真野森作 2022年1月26日
エリア: ヨーロッパ
ラムザン・カディロフ氏(左)と父のアフマド・カディロフ氏(右)の写真を掲げて歩く人々(C)AFP=時事
ロシア南西部のチェチェン共和国ではLGBTQ(性的少数者)の人々に対する激しい弾圧が起きている。独立紛争の末にプーチン大統領に忠誠を誓うカディロフ親子が権力を握り、異色の文化が形成されたチェチェンの病理を、現地を取材した筆者が報告する。

 

 ロシアのウラジーミル・プーチン政権がウクライナ国境付近に大規模な軍勢を展開し、国際社会を緊張させている。

 

 実は、政権の強硬な動きは安全保障や外交面だけでなく、内政においても現れている。背景にあるとみられるのが、今年70歳を迎えるプーチン氏のレガシー(政治的遺産)づくりや、2024年大統領選で再選を果たすための下準備という狙いだ。 

 ロシア国内では伝統的価値観や愛国主義を旗印とした市民社会への抑圧が勢いを増し、民主・人権活動家やジャーナリスト、さらにはLGBTQ(性的少数者)の人々が標的にされている。

 中でも性的少数者への激しい弾圧が起きているのが、ロシア南西部のチェチェン共和国だ。『ポスト・プーチン論序説 「チェチェン化」するロシア』(東洋書店新社)を昨年9月に刊行した筆者が、ロシアとチェチェンを巡る現在進行形の病理を報告する。

ロシアの人権侵害と戦い続けるノーバヤ・ガゼータ紙

「世界は、もはや民主主義に対する愛情が冷めてしまい、独裁政治の方を向き始めた。我々は、人権と自由を通じてではなく、テクノロジーと暴力によって発展を成しえるという幻想を抱いてしまっている。自由を伴わない進歩? それは、牛を飼わずしてミルクを得ようというくらい不可能です」――。

 2021年のノーベル平和賞を受賞したロシアの独立系紙「ノーバヤ・ガゼータ」のドミトリー・ムラトフ編集長(60)は、昨年12月の授与式でのスピーチでこう強調した。

「新しい新聞」という意味の社名を持つノーバヤ紙は、ソ連崩壊後の1993年に創刊した。ロシアでは稀有な独立系リベラル紙で、国内の人権侵害や対外軍事行動の闇を果敢に報じてきた。ノルウェーのノーベル賞委員会は、強権体制の下で「民主主義と恒久的平和の前提条件である表現の自由を守るための努力」を続けてきたことを授賞理由に挙げている。

 同時受賞したフィリピンのジャーナリスト、マリア・レッサ氏と共に、「逆境の中で理想のため立ち上がる全てのジャーナリストの代表」という位置づけだ。

 ムラトフ氏のスピーチでの言葉は、報道を通じて「人権と自由」を守る取り組みを今後もやめないという意思表示だ。現代のロシアにおいてその仕事は容易ではない。「人権と自由」を恣意的に制限するプーチン政権にとって、明らかに邪魔な存在だからだ。

 ノーバヤ紙では、チェチェン報道で名をはせたアンナ・ポリトコフスカヤ記者をはじめ、6人の記者が殺害されてきた。

カディロフ親子が掌握するチェチェン

 非・民主化の動きが急速に進む現代のロシアにおいて、極北を行くのがチェチェンである。2015年に現地取材した私は、このチェチェンこそがロシア全体をより過激で抑圧的な方向へ先導しているのではないかと直感した。

 そもそもチェチェンとはいかなる土地か。ロシア南西部の北カフカス地方に位置し、岩手県程の面積に人口百数十万人が暮らす。住民の大半はイスラム教スンニ派を信仰するチェチェン人だ。

 1994~2009年に独立を巡る2度の紛争があり、何十万人とされる死傷者、行方不明者が出た。紛争を通じて独立派やイスラム過激派は駆逐され、親露派のアフマド・カディロフ氏がプーチン大統領からチェチェン統治を任されるようになる。同氏が2004年に爆弾テロで殺害された後、2007年からは息子のラムザン・カディロフ氏(45)が共和国首長を務める。

「プーチン氏にとって大事なのは忠誠と安定であり、チェチェン内部がどうであろうと関係ない」とロシアのある識者は断言した。カディロフ親子はプーチン氏に個人的忠誠を誓い、見返りに首長の地位と地域統治のフリーハンド、巨額の連邦予算の投入を得てきた。

 この連邦予算を用いた大量の復興事業やインフラ整備という「アメ」と、異論は許さない「ムチ」によって少なくとも表面上は人心を掌握し、チェチェンはロシアの中で「内なる外国」とも評される特殊な地域となった。紛争で破壊された首都グロズヌイは完全に再建され、摩天楼群や壮麗な大モスク(イスラム教礼拝所)が威容を誇る。

首都グロズヌイの摩天楼(C)Arestov Andrew/stock.adobe.com

 チェチェン内部ではプーチン氏への忠誠やロシアに対する愛国心が強調される反面、イスラム教とカディロフ親子への個人崇拝が合わさった異色の文化が形成されつつある。

 首長の傘下には数万人規模のチェチェン人実力部隊「カディロフツィ」が控え、強権統治を支える。イスラム過激派への対策として、テロ容疑者に関しては親族の家まで焼き、故郷から全員追放するといった具合だ。

 チェチェンの軍人はロシアが戦争当事国であるウクライナ紛争やシリア内戦に深く関与してきた。さらに、先のポリトコフスカヤ記者らロシアの反体制派著名人の暗殺事件でも実行犯としてチェチェン人が暗躍している。

違法薬物捜査が同性愛者の大弾圧に発展

 このチェチェンで近年起きているのが、性的少数者に対する大規模な組織的弾圧だ。イスラム圏のチェチェンでは同性愛者(特に男性)への差別が元々根強いという社会的背景がある。それでも、弾圧が始まる以前は、目立たないよう努めれば、性的少数者であっても比較的平穏に暮らせたとされる。

 事態が暗転したのは2017年春のことだ。違法薬物に絡む治安当局の捜査が大弾圧へと転じた。薬物使用が疑われる男性容疑者の携帯電話の保存データから、彼が同性愛者と示す写真が見つかったのが事の起こりだった。当局は連絡先に登録されていた男性たちを次々と拘束し、拘束後には殴打や電気ショックの拷問を加えて無理やり情報を提供させ、同性愛者と疑う計100人以上を芋づる式に狩り出した。

 拷問によって多数の死傷者や行方不明者が出たとされ、同様の弾圧はその後も繰り返された。昨年6月には、家族から性的指向を理由に暴行され、隣接するダゲスタン共和国の保護施設へ逃れていた22歳の女性が、チェチェンの警官隊によって強制的に連れ戻される事件もあった。

 ノーバヤ紙や欧米メディアはこうした実態を拘束被害者の証言も交えて報じたが、ラムザン・カディロフ首長らチェチェン当局は全面否定している。一方で、カディロフ氏は2017年7月に受けた米テレビ局のインタビューで「チェチェンにはゲイなど存在しない。もしいるなら血を清めるために遠く離れたカナダへ連れて行ってほしい」と言い切った。存在の否定ほど弾圧を推進する思念はないだろう。

同性愛者には何をしてもよいという青信号

「チェチェンの治安当局は、望ましくないと彼らが考えたグループの人々に対して常に同じやり方で追い込みをかける。拘束し、拷問にかけて他の人の情報を出させる。こうした不法な弾圧を連邦政府が長年免責していなければ、今回のことも起きなかったでしょう」

 国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウオッチ」(HRW)ロシア支部のターニャ・ロクシナ氏は、私のオンライン取材にこう指摘した。

インタビューに応じるターニャ・ロクシナ氏(筆者撮影)

 チェチェンで拷問を受けた被害男性の一人は2017年10月にモスクワで記者会見を開き、刑事告発もした。だが、連邦政府当局は捜査に着手せず、訴えを握りつぶした。カディロフ氏のみならず、ロシア正教を背景とした「伝統的価値観」を重視するプーチン政権も、性的少数者への差別的扱いを拡大しているからだ。

 ロシアでは2013年にLGBTQへの差別や抑圧につながる「同性愛宣伝禁止法」(通称)が成立している。未成年者に対して同性愛など「伝統的家族観に反する情報」を宣伝・普及することを禁じるもので、最高で100万ルーブルの罰金や法人活動の90日間停止を科す。この法律によって性的少数者を巡る社会活動は抑え込まれてきた。さらに、2020年の憲法改正によって同性愛者同士の結婚は明確に禁じられた。

 HRWのロクシナ氏は「ロシアでは性的少数者には何をしてもよいという青信号が出されている」と強い危機感を語った。

チェチェンの「ゲイの粛清」を記録したドキュメンタリー映画

ドキュメンタリー映画「チェチェンへようこそ――ゲイの粛清」の日本版PR画像=MadeGood Films提供

 このチェチェンでの性的少数者弾圧と被害者の救出活動を現地で取材したドキュメンタリー映画がある。米国の映画監督、デイビッド・フランス氏(62)が制作した『チェチェンへようこそ――ゲイの粛清』だ。日本でも2月下旬から全国で公開予定となっている。

 「チェチェンで起きているのは、(ユダヤ人を根絶しようとした)ナチス・ドイツのヒトラー以来となる少数者の粛清です。それに対して国際社会が対処していない現実に私はショックを受けました」

インタビューに応じるデイビッド・フランス監督(筆者撮影)

 フランス氏は雑誌ルポなどを通じて事態を知ったときの衝撃を、オンライン取材でこう振り返った。社会派の監督や作家として、米国でのエイズ禍や性的少数者への差別を扱った作品を手がけて高い評価を受けてきた。その彼の目からも、チェチェンの状況は一刻の猶予もない惨事と感じられた。

「この問題に注目を集める手助けをしたい」

 そう考えたフランス氏は2017年にロシアへ飛び、直ちに取材を開始する。チェチェンの被害当事者を支援する地元の人権団体「ロシアLGBTネットワーク」の活動に密着する手法を選んだ。ネットワークの活動家たちは標的にされた人々の命を救うため、チェチェンからの脱出と海外亡命を全面的に支えていた。

 フランス氏率いる少数精鋭の制作チームは、ロシア国内に設けられた一時避難用の隠れ家で傷ついた性的少数者たちの苦悩や希望を記録し、チェチェンからの脱出作戦の同行取材にも挑んだ。

 現地を訪れたフランス氏は、「チェチェンは非常に閉鎖的な監視社会と感じました。地元政府は(性的少数者に対しては)親族であっても攻撃するよう人々をあおっている」と指摘する。

反LGBTQを権力強化に利用するプーチン

 支援活動を率いるロシア人男性は映画の中で、「財政は苦しく、(亡命先となる第三国の)ビザ取得も難しい。でも放ってはおけない。とにかく殺されない限り私たちの勝利だ」と心情を語る。彼らはチェチェンで弾圧が起きるまで普通の生活を送っていたが、救出に携わることで「お尋ね者」になってしまった。国外退避を余儀なくされたメンバーもいる。

「世の中には火事が起きたとき、助けに飛び込む英雄的な人たちがいる。私はこの映画を通して他者に対する愛をも描いた」とフランス氏は強調した。

性的指向を理由に親族から監視され、活動家の助けでチェチェンから脱出を図る女性(中央)。身元を隠すために顔は人工映像に差し替えられている=映画「チェチェンへようこそ」から、MadeGood Films提供

 ロシアの活動家グループは2017年から2年間で約150人をカナダなどへ海外移住させた。だが、チェチェンでは今も数万人の性的少数者が命の危険にさらされている。悲惨な状況に対して果敢に立ち向かう活動家たちの存在は、ロシア社会にとっては本来救いのはずだ。

 だが、「プーチン氏はロシアを反LGBTQに転じさせ、自己の権力強化に利用している。圧倒的多数のロシア人は性的少数者の排除に熱心だ」(フランス氏)という現実がある。

 フランス氏は「チェチェンで起きたことは世界のどこでも現実になりえる。私はその思いを『チェチェンへようこそ』(原題”Welcome to Chechnya”)という映画タイトルに込めました。性的少数者をスケープゴート(生けにえ)にする手法を各地の権威主義的な指導者が学んでいる」と訴える。確かに反LGBTQの政治的な動きは欧州のハンガリーなどに広がっている。

日本の私たちもこの現実を理解する必要がある

「国民は国家のために存するのでしょうか、それとも国家が国民のために存するのでしょうか? 今日、この問いが主たる争点となっています。かのスターリンは、この対立を圧倒的な弾圧で解決しました」

 ノーバヤ紙のムラトフ編集長はノーベル平和賞受賞スピーチでこうも語った。

 プーチン氏はいま、「国家=自らの政権」を護持・強化するためなら、ロシア国内の少数派はもちろん、ウクライナや東欧など旧社会主義圏の他国民を犠牲にしても構わないといった態度に出ている。ロシアの隣国であり、北方領土問題を抱える日本の私たちもこの現実をよく理解する必要があるだろう。

 

カテゴリ: 政治 社会
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執筆者プロフィール
真野森作 1979年生まれ、東京都出身。一橋大学法学部卒。2001年、毎日新聞社入社。北海道支社報道部、東京社会部、外信部、ロシア留学を経て、13~17年にモスクワ特派員として旧ソ連諸国をカバーした。大阪経済部などを経て、20年4月からカイロ特派員として中東・北アフリカ諸国を担当。単著に『ルポ プーチンの戦争―「皇帝」はなぜウクライナを狙ったのか』(筑摩選書、18年12月刊)、『ポスト・プーチン論序説 「チェチェン化」するロシア』(東洋書店新社、21年9月刊)がある。
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