国道354号線で「移民メシ」を食ったら見えた「日本のすがた」

室橋裕和『北関東の異界 エスニック国道 354 号線 絶品メシとリアル日本』

執筆者:橋本倫史 2023年4月1日
タグ: 外国人労働者
伊勢崎に住むイスラム教徒たちにとって、モスクは欠かせない存在だ(写真すべて著者提供)

  北関東を東西に横切る国道354号線沿線は、さまざまな国から移住してきた人たちによる「異国メシ」の本場だ。ここでの飾らない食体験から外国人労働者たちの日常を浮き彫りにする異色のルポ『北関東の異界 エスニック国道354号線 絶品メシとリアル日本』(室橋裕和著)を、ドライブインという昭和の残影にまつわる個人史を全国に訪ねた『ドライブイン探訪』の著者、橋本倫史氏が追体験した。

***

 春の陽気に誘われて、久しぶりに旅に出ようと思い立った。

 北千住駅から東武鉄道の特急「りょうもう」に乗り、向かった先は北関東だ。太田駅で各駅停車に乗り換えると、日本語以外の会話が聴こえてきた。その会話を聴きながら、手元にある本を読み返す。

 
 JR両毛線・東武伊勢崎線の伊勢崎駅の改札を出てきたのは、フィリピン人らしきおばちゃんたちだった。タガログ語でぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら、駅頭に停まっているバスに乗り込んでいく。近くの食品加工の工場へ向かう送迎バスだった。コンビニなどに並ぶ総菜をおもに生産しているのだが、その現場で外国人が働いているのだ。

 これは室橋裕和『北関東の異界 エスニック国道 354 号線 絶品メシとリアル日本』に登場する一節だ。北関東を東西に走る国道354号線に注目し、その沿線に点在する「異界」を旅するようにめぐったルポルタージュである。著者の旅は伊勢崎に始まり、太田、大泉、館林、栃木県の小山と移動し、県境をまたいで茨城に入り、古河、境、坂東、常総、土浦、笠間、そして太平洋に面した鉾田に辿り着く。

地元スーパーに並ぶエスニック食材

 旅のはじまりはツイッターだったと、著者は冒頭に綴る。外国人が多く暮らす東京・新大久保に暮らし、『日本の異国 在日外国人の知られざる日常』や『ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く』などの著作を持つ著者は、新大久保の様子を普段からツイートしているのだという。すると、自然と「多国籍グルメを愛し、日本に急増してきた外国人の文化を面白がる仲間たちと、フォローし合うように」なった。そのひとり、比呂啓さんから「栃木県の小山を中心に、北関東を回るので一緒にどうですか?」と誘われたことで、著者は北関東をめぐり始める。第一章のタイトルは「伊勢崎 バブルが異国の風を運んできた」だ。

 駅に隣接した大型のスーパーマーケットは、群馬・前橋に本社を置くベイシアだ。地場のスーパーも日本の異国巡りを楽しむ我々愛好家たちにとってはチェックしておくべき場所のひとつだが、案の定、調味料コーナーの一角に中南米ゾーンを発見。フェイジョアーダ(豆と肉の煮込み)やパルミット(ヤシの新芽)の缶詰、サルサソースといった、一般的な日本の家庭ではあまりなじみのない食材が並ぶ。地域にラテンの人々がたくさん住んでいる証だろう。

 伊勢崎駅に降り立ってみると、そこにはぽつんと大型のスーパーマーケットがあるだけだ。この本を読んでいなければ、郊外でよく見かける風景だと思って見過ごしていただろう。著者は街と街を線で結んでいくことで、ひとつの街を訪れただけでは浮かび上がることのない「異界」の姿を描き出す。

 本書によれば、伊勢崎は50~60か国の人たちが暮らす多国籍タウンで、人口の6.3%を外国籍の人たちが占めているのだという。最初に移り住んだのは、パキスタンやイラン、バングラデシュといった国から来日した人たちで、まだ日本にモスクがほとんどなかった時代にモスクが建設されたことで、「イスラミックシティ」として知られるようになってゆく。ただ、伊勢崎に暮らす移民はイスラム教国からやってきた人たちだけではなく、時代が昭和から平成に変わる頃からは中南米から移り住んだ人たちが増えてゆく。

 伊勢崎駅南口を出てしばらくまっすぐ進み、最初の信号を右折し、車一台ぶんの幅しかない橋を渡ると、褐色の外壁が印象的な一軒家が見えてくる。玄関にペルーの国旗が掲げられたその建物は、「El Kero」というペルー料理店だ。本書に登場する「El Kero」の記述を読んでいると、その料理を味わってみたくなって、伊勢崎まで小旅行にやってきたのだ。

 

 さっそくペルービールを注文し、料理が運ばれてくるのを待ちながら、本を読み返す。ここ伊勢崎が多国籍タウンになった経緯には、時代の影が色濃く刻まれている。

 日本がバブル景気に突入していく80年代、北関東に点在する工場で働いていたのはパキスタンやイラン、バングラデシュから移り住んだ外国人労働者だった。日本が豊かになり、つらい労働環境は「3K」と呼ばれて敬遠されるようになった時代に、労働者として日本を支えたのは外国人労働者だったのだ。彼らの多くはビザなしの不法就労だが、町工場に必要な労働力として黙認されていた。ただ、やがてトラブルが増加するにつれ、日本政府はひとつの決断をした。1989年に「入管法」を改正し、日系2世と3世およびその配偶者が「定住者」という在留資格を取得できるようにしたのだ。「定住者」であれば、日本で就労することが可能となる。日本という社会は、法律を改正してでも外国人労働者を必要としていた。そして、その法改正の背景には、「パキスタンやイラン、バングラデシュといった国の人たちより、日系人のほうがわたしたちの社会に馴染んでくれるだろう」という意図が透けて見える。

「好奇心」も「無関心」も人を傷つける

 この本を読んでいると、ふいに小学生のころの記憶がよみがえってきた。

 あれはたしか、小学校高学年のときだった。ぼくは1982年生まれだから、1990年代初めのことだ。同じ学年に、ひとりの転校生がやってきた。ぼくが生まれ育ったのは農村のような田舎町だったから、転校生自体が物珍しかったが、やってきたのはブラジルからの転校生だった。当時のぼくは「日系」という言葉すら知らなかったけれど、彼の家族もまた、北関東に日系人が移り住んだようにして、日本にやってきたのだろう。ぼくが暮らしている町にも、ある家電メーカーの工場があった。そして、ぼくの出身地である広島県は、日本でもっとも多く移民を送り出した県だった。

 戦前の日本は、国策として移民を奨励していた。ヨーロッパの植民地となっていた南米諸国には、大規模なプランテーションが点在し、奴隷制が廃止されると多くの労働者が必要となった。当時の日本は今よりずっと貧しく、新天地に希望を見出す人たちが海を越え、南米に移り住んだ。

 南米に限らず、海を越えて新天地に希望を見出した人は数え切れないほどいる。時に迫害されながらも、どうにか土地に根を張り、暮らしてきた人たちがいる。その人たちが味わったであろう苦しみを想像するたびに、わたしたちは日本に移り住んだ人たちに対して冷酷すぎるように感じる。ただ、小学生のころのぼくは、ブラジルから転校してきた同級生にどう接すればよいのかわからなかった。中学校に上がると、同じようにブラジルから転校生がもうひとりやってきた。彼らはふたりとも、ぼくと同じソフトテニス部に入ったけど、ほとんど会話をすることもなく中学を卒業してしまった。転校生に対する「好奇心」をどんなふうに扱えばよいのか、わからなかったのだと思う。

 「好奇心」は時に人を傷つける。

 本書の第二章「太田・大泉 よそものたちがつくった街」には、そんな事例が書き綴られている。

「リトル・ブラジル」と呼ばれる群馬県大泉町に暮らす日系3世の平野勇パウロさんは、サンパウロに生まれた。「日本語は話せなかったものの、生活を取り囲む文化は日本」で、ずいぶん遅れて届く『週刊少年ジャンプ』を楽しみに暮らしていた。

「街にはまだまだブラジルの人は少なくて、それっぽい人を見かけるとよく声をかけていました」
 お前も来たのか、いろいろたいへんだな……そんな話を父とほかのブラジル人が話していたのをパウロさんはよく覚えている。
 そう、そこからが日系人も、大泉の街もたいへんだったのだ。
 ブラジルにいるころは自分のことを日本人だと思っていたパウロさんは、日本に来て学校に通いはじめると「ブラジル人、ガイジン」と疎外された。これは多くの日系人が体験したことで、日系2世の幕田マリオさん(49)も同様だ。出稼ぎというよりも、父祖の地を見たい、いったんブラジルに移民してきたものの日本に帰っていった祖父に会いたいという気持ちで日本にやってきた。(…)同僚の日本人からはことあるごとに名前ではなく「ガイジン、ガイジン」と呼ばれた。社員旅行や忘年会は「ガイジンさんは行かないよね」と、はじめから拒絶された。(…)

 日本人とは違う存在として好奇の目を向けられ、「ガイジン」と呼ばれた人たちは、どれだけ傷ついてきたのだろう。

 ただ、好奇の目を向けなくとも、無関心でいることは人を傷つける。無関心でいることは、そこにいる誰かを「見えない人」のように扱い、同じ日本に存在するコミュニティを「異界」にしてしまう。

 国道354号線沿いには、いろんな国からやってきた移民の人たちが暮らしている。今や日本各地に移民が暮らしていることを考えると、本書に書かれているのはどの地域とも無関係ではない話だ。つまり、国道354号線は日本の縮図だ。

 

「労働力」ではなく、ひとりの「人間」

 ぼくはこの10年、沖縄に通っている。

 那覇市にある第一牧志公設市場界隈は、那覇の「マチグヮー」と呼ばれている。戦後の闇市を起源に持ち、自然発生的に商店街が誕生したエリアだ。「県民の台所」として広く親しまれ、現在では観光客で賑わう場所になっている。この界隈には現在も古い街並みが残り、アーケードが張り巡らされている。その中心に位置する第一牧志公設市場で半世紀ぶりに建て替え工事が始まるとになり、曲がり角を迎えつつあるマチグヮーを記録しようと、取材を続けてきた。

 そうしてマチグヮーに通っているうちに、ヒジャブをまとった女性たちをよく見かけるようになった。あるとき、彼女たちがアーケードを外れ、古い建物に入っていくところに出くわした。そこにあるのは、インドネシアから輸入した食材を扱うお店だった。

 その食材店を切り盛りしているのは、日系4世の青年だった。中学時代に静岡に移り住んで、同級生に最初に言われた言葉は「黒いね」だったと、その青年は笑っていた。彼はやがて沖縄県出身の女性と出会い、沖縄に移り住んだ。そこでモスクに通ううち、沖縄で働く技能実習生の子たちと出会い、インドネシアの食材が手に入らなくて困っていると知り、輸入食材店を始めたのだと、彼は教えてくれた。お店を利用する技能実習生たちには、シビアな環境の中で暮らしている人も多く、食材を届けに行ってみるとコンテナでの生活を強いられていた子たちもいたそうだ。

 那覇の市魚はまぐろで、最近は「なはまぐろ」の名前でPRも行われている。

 観光で那覇を訪れ、まぐろに舌鼓を打つ旅行客も少なくないだろう。ただ、漁業にも多くの技能実習生が従事していることを知る人は、どれほどいるだろう。その技能実習生がどんなふうに暮らしているかを知る人は、ほとんどいない(ぼくも偶然そのお店に出会わなければ、その実態を知ることはなかった)。こうした状況は、数十年前から続いてきて、今も改善されないままだ。

 「彼らを労働力として呼んだのかもしれないが、来るのは人間だ。それを意識して、はじめから対応していれば、こんな問題は起きなかった」

 これは、本書の第二章に登場する社会保険労務士・小野修一さんの言葉だ。小野さんは群馬県の東毛地域に移り住んだ日系人が社会保険に加入できるようにと取り組んできたが、雇う側は「数年で帰る出稼ぎだろう」という意識があり、働く側も「手取りが減るよりは」と無保険のままになっていた。ただ、リーマンショックやコロナ禍が生活を直撃し、一方で移民の高齢化が進むにつれ、問題が噴出しているのだという。

 わたしたちが暮らす社会は、労働力を「人間」と見做してきたのだろうか。

 戦前は移民を奨励してきた日本は、戦後の復興とともに工業化が進むと、多くの労働力を必要とするようになった。各地に工場が建設され始めた戦後の時代には、「金の卵」として郷里を離れ、集団就職した若者が大勢いた。「日本」は島国ということもあり、日本人は「代々ひとつの土地に暮らしてきた」という自画像を描きがちだけど、日本人は戦前・戦後を通じて多くの人たちが移動を重ね、新天地で「移民」として暮らしてきた国だ。時代が下ると、今度は国外から労働力を呼び寄せ、どうにか切り盛りしてきたのが日本の実情なのだと、本書を読んで改めて感じた。

「異界」の壁を破るのも好奇心

 その構図は、今この時代にも続いている。バブルの時代、日本人が敬遠する「3K」の仕事に従事していたのはビザなしの外国人たちだったように、コロナ禍で技能実習生が入国できない時期が続くと、「難民」が労働力となっていたのだと、本書に差し挟まれるコラムで著者は指摘する。バブルの時代に外国人労働者が“使い捨て”られたように、技能実習生の受け入れが再開された今、「難民」たちは“使い捨て”られようとしている。それはわたしたちの社会で起きていることなのに、無関心が壁となって立ちはだかり、「異界」の出来事として黙殺されようとしている。

 移民を異質な存在に仕立て上げてしまうのも「好奇心」だが、無関心の壁を突き破ることができるのもまた「好奇心」だ。

 著者は「なんだか面白そうだ」と、移民が暮らす土地を訪ねていく。決して土足で踏み荒らすようなことはせず、靴を脱いで部屋に上がるようにして、コミュニティをめぐってゆく。著者の目を通じて、わたしたちはその土地に移民が暮らすようになった歴史を知り、そこに生きる人間の姿に触れる。

 生きている限り腹は減る。人間が暮らす場所には、必ず料理がある。「絶品メシ」を求めて旅するということは、人間の姿に触れるということだ。

 伊勢崎にあるペルー料理店「El Kero」でペルービールを飲んでいると、次から次へとお客さんがやってきた。ぼく以外のお客さんは、お店の方と「Hola」と挨拶を交わしている。本書によれば、このペルー料理店は25年前にオープンしたお店で、現在は日系3世にあたるアキノリさんが切り盛りしている。日本に移り住んでからは苦労も多く、「どうして日本に来たのか」と両親に反発し、思春期にはほとんど会話をしなかったそうだが、それでもアキノリさんはお店を継ぐことにしたそうだ。

 「やっぱり、ここまで自分を育ててくれたのは父と母ですから。それに父が身体を壊したことがあったんですが、そのときに、店を潰したくないって思ったんです」
 専門学校で料理を学び、都内の店で修業をし、それに両親とまた向き合うためにスペイン語も学び直した。そして晴れて「El Kero」に戻ってきたわけだが、
 「料理はいっさいやらせてもらえませんでした」
 と思い出して苦笑する。父は厳しかった。最初はずっとホール。接客に徹した。やっと厨房に入らせてくれたと思ったら、まずは皿洗いから。ようやく調理場に立たせてもらうまで2、3年かかったけれど、
 「そういう父で良かった。下積みをやらせてもらったのは、いまから思うとありがたいです。すぐに調理をやっていたら図に乗っていたかもしれない」

 ぼくが注文したのは、セビーチェと、アキノリさんの得意料理だという「ロモ・サルタド」だ。もともとペルーにあった牛肉料理を、中国系の移民が中国醤油味にアレンジして、日系の移民たちがさらに自分流にアレンジした料理だそうだ。そんな移民料理がペルーのソウルフードとなり、日系3世のアキノリさんが現在、伊勢崎で調理している。

 牛肉とポテト、玉ねぎやトマトを炒めたロモ・サルタドは、異国の香りがする。ロモ・サルタドに入っているポテトも、セビーチェに添えられたポテトもとても甘く、そこに南米を感じる。ロモ・サルタドに入っているのはフライドポテトだ。遠い昔、幼い日に訪れたサービスエリアで食べたフライドポテトもこんな味だったような気がしてくる。異国の味であるはずなのに、どこか懐かしさをおぼえる。

 
 

 こんな絶品メシが、354号線沿いには――日本各地には数えきれないほどあるのだろう。本書を読むにつけ、いろんな場所を旅してみたくなってくる。つまり、そこに生きている誰かの暮らしに触れたくなる。

カテゴリ: カルチャー
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
執筆者プロフィール
橋本倫史(はしもとともふみ) はしもと・ともふみ 物書き。1982年東広島市生まれ。著書に『ドライブイン探訪』、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場の人々』、『東京の古本屋』、『そして市場は続く』など。
  • 24時間
  • 1週間
  • f
back to top