チャイナマネーに屈した世界女子テニス協会とうやむやにされた性暴力被害疑惑

執筆者:中澤穣 2023年5月24日
エリア: アジア
昨年10月の中国共産党大会にて、渦中の張高麗元副首相は何事もなかったかのようにひな壇の最前列に座り、習近平主席に拍手を送っていた (C)時事
世界中で話題となり、北京冬季五輪の「外交ボイコット」にまで発展した中国人女子テニス選手の「性的被害」疑惑。ロシアのウクライナ侵攻などに伴って世間の関心は急速に薄れ、気が付けば、「女性の権利」を巡る戦いは中国の巨大市場を前にあっけない敗北に終わっていた。

 

 あまりにあっけない幕切れだった。中国のプロテニス選手彭帥さん(37)が2021年11月に、張高麗・元副首相(76)に性的関係を強要されたと告白した後に一時消息不明になった件だ。彭さんの無事の確認と徹底した調査を求めて中国での大会開催を見合わせていた世界女子テニス協会(WTA)が今年4月、中国での大会開催を9月から再開させると発表したのだ。もちろん調査などは行われておらず、世界の耳目を引いた中国とWTA(とそれを支持した人々)との1年4カ月にわたる駆け引きは、中国側の完全勝利で終わった。

 WTAは4月13日の声明で「状況は変わる兆しがなく、(徹底調査など)私たちは目標を完全に達成することはできないと判断した」とあっさりと白旗を揚げた。彭さんとは直接連絡をとれていないと認める一方で、彭さんが北京で家族と安全に暮らしていることを確認したと強調した。日本での各メディアの扱いはかなり小さかったため、気づかなかった読者も少なくないだろう。

「中国政府にとって大きな勝利」

 WTAのスティーブ・サイモン最高経営責任者(CEO)は決定の背景に経済的な動機があったことを隠さない。英BBCの取材に、決定は商業的な現実によって強制されたものではないが、中国からの引き上げによって「多くの犠牲を払った」と認める。さらに「再開を支持しない選手もいたが、大部分の選手は戻るべきときだと話した」と明かす。

 賞金額の大幅な減少など影響が広がっていたためとみられる。米ニューヨーク・タイムズ紙によると、コロナ前の2019年にWTAは中国で9大会を主催し、WTAの年間収入のうち3分の1を占めた。今年9月から中国での大会が再開することにより、シーズン終盤戦はコロナ前と同様に中国に集中することになり、今年は8大会が開かれる見通しだ。WTAは2019年から10年間、シーズンの最終戦を深圳で開催する契約を結んでいた。

 大会再開の決定には当然、人権団体などから失望が広がった。国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチの中国担当者は同紙に「お金が問題となったのは驚くにはあたらない」と語り、「中国政府に対して単独で立ち上がればコストが高くなり、力は小さい」とも指摘した。同じく国際人権団体のアムネスティはBBCに「彭さんが本当に無事で自由であるという、独立して検証可能な証拠はない」と断じ、「WTAが中国に戻ることは、この国での性暴力被害者が直面している構造的な不正義を永続化させるリスクがある」とも訴えた。

 まさに「中国政府にとって大きな勝利」(ヒューマン・ライツ・ウォッチ)だが、中国国内での報道は控えめだ。中国では厳しい情報統制がしかれたため、この件はなかったことになっている。テニス専門メディアなどは中国での大会再開をそれなりに大きく伝えたものの、「なぜ大会が開催されていなかったのか」は書くことができない。奥歯にものが挟まったような記事となり、中国の読者が疑問を抱かないのか不思議になる。一方、習近平総書記が3期目をスタートさせた昨年秋の中国共産党大会では、張高麗氏はひな壇の最前列に座り、習氏の演説に盛んに拍手を送っていた。彭さんとの件は不問のようだ。

人気テニス選手と権力者

 そもそも2人に何があったのか。旧聞も含まれるが、時系列で振り返ろう。

 始まりは21年11月2日夜、彭さんが中国のSNS、微博(ウェイボ)に投稿したことだった。わずか30分ほどで削除されたが、海外のSNSなどに転載された。彭さんはダブルスで世界ランキング1位になったこともある有名人であり、張氏は最高指導部である党政治局常務委員にも名を連ねた権力者だ。中国当局が情報統制に躍起になるのも無理はない。

 徹底した情報統制を受けて中国メディアなどは一切報じず、大部分の中国人は今もこの件を知らない。彭さんと張氏の関係に関する情報は、後にも先にも彭さんの書き込みだけだ。

 書き込みは不明確な部分も多いが、おおむね以下のような経緯は理解できる。2人は、張氏が天津市トップの党委書記だった時期(2007年~12年)に不倫関係にあったものの、張氏が最高指導部入りした後は関係が一時途絶えた。

 18年に事実上引退した張氏はある日、再び彭さんに連絡をとった。彭さんは「午前にテニスを終え、あなた(張氏)と奥さんは私を自宅に連れていった。それから私を部屋に入れ、十数年前の天津のときと同じように性的関係を要求した」とつづる。部屋の外では誰かが見張っており、同じ屋根の下には張氏の妻がいた。彭さんは、張氏が7年間も音信不通だったにもかかわらず、突然、性的関係を強要しようとしたことを憤り、このときは「ずっと泣いて同意しなかった」という。ところが、妻も交えて一緒に夕食をとった後、「私は怖くて混乱し、7年前のあなたへの感情もあり同意した。そう、私たちは性的関係を持ったのです」。

 書き込みによれば、2人の関係は張氏から連絡がきて彭さんが密かに自宅を訪れるかたちで続き、張氏は彭さんが録音機などを持ち込むことを極度に恐れていた。さらに二人の間に金銭や利益供与がなかったこと、彭さんが張氏の妻から何度も侮辱されたことへの恨みなどが記され、最後になって彭さんがこの告白をした動機が示唆される。「(おそらく10月の)30日夜に言い争いが激しくなり、あなたは(11月)2日午後にまたゆっくり話そうといった。ところが今日(2日)電話してきて、用事ができたからまた連絡するといった。7年前と同じようにあなたは突然、“消えた”。遊び終わり、いらなくなったから、(私を)捨てたのだろう」

 問題は、欧米メディアが「レイプ」と表現したような事件があったか否かに加え、彭さんがこの後に一時、消息を絶ったことだ。彭さんが当局の監視下に置かれているのではないかと懸念が広がり、ツイッターには「Where is PengShuai?」というハッシュタグがつくられ、女子テニスの大坂なおみ選手らが次々と彭さんの無事を願うツイートをした。男子世界ランキング1位のノヴァク・ジョコビッチ選手も「問題が解決しないまま、中国で試合がおこなわれるのはおかしい」との声明を出した。

女性の権利を守る「勇気ある姿勢」を示したが…

 説明要求は広がった。ジェン・サキ米大統領報道官(当時)は記者会見で彭さんの状況を「深く懸念している」と表明し、「中国は批判を一切許さず、声を上げた人を黙らせてきた」と非難した。英外務省や国連人権高等弁務官事務所も報道官が相次いで懸念を表明し、徹底した調査などを求めた。

 中国側も手をこまねいていたわけではない。11月18日には中国の海外向け放送・中国国際テレビ(CGTN)が、彭さんがWTAに宛てたとするメールを公開した。メールは性的暴行の被害と自身の安全が脅かされているという指摘を否定するもので、中国側が幕引きを図ったとみられる。同21日には中国紙、環球時報の胡錫進編集長(当時)が、彭さんが知人らと四川料理店で食事する映像を公開した。彭さんが無事であると主張する目的とみられ、映像には「今日は何日だっけ?」というわざとらしいやりとりもある。さりげなく店名も写り、まるで外国メディアの記者に「確認してきなさい」と言っているかのようだ。実際に行ってみると、女性従業員が「わたしは見ていないが、同僚が彭さんを接客した」とあっさりと認めた。蛇足だが、この店は超人気店だ。取材のついでに食事すると、たしかにおいしくて値段も庶民的といえる。彭さんは四川省と同じく辛い料理で有名な湖南省出身でもある。

 一連の中国側の発信はいずれも、中国国内からは基本的に閲覧できないツイッターを通じて行われた。中国国内ではこの件は報じられないため、反論も国外向けのみとなる。彭さんは12月下旬にはシンガポール紙「聯合早報」の取材に「わたしはずっと自由です」と話したが、やはり中国メディアではない。

 こうした中、WTAは12月1日、中国での大会開催を見合わせると発表した。サイモンCEOは「彼女の自由と安全、そして検閲や強制、脅迫を受けていないかについて重大な懸念を抱いている」と非難した。さらに「経済的な影響があっても」と強調した上で「彭帥さんやすべての女性に正義がもたらされるように世界中のリーダーが声を上げ続けることを願う」と訴えた。

 この時、WTAとサイモン氏は、中国の人権侵害に抗して女性の権利を守るヒーローとなった。元著名選手のマルチナ・ナブラチロワ氏が「お金より原理を大切にした勇気ある姿勢だ」と賞賛し、多くのテニス選手が支持を表明した。ニューヨーク・タイムズ紙は「世界のスポーツ界の指導者が中国とその経済的影響力に叩頭(kowtow)する中、WTAの動きは強いメッセージとなった」と評価した。

利害が一致した中国政府と国際オリンピック委員会

 事態は開催を翌22年2月に控えていた北京冬季五輪にも飛び火し、同紙は社説で「中国が開催することが適正か、根本的な疑念を抱かせる」と主張した。12月に入ると米国を皮切りに、閣僚や政府高官らを派遣しない「外交ボイコット」を表明する国が相次いだ。少数民族ウイグル族への弾圧が主な理由だが、彭さんの件も影響したのは間違いない。習近平政権にとっては、五輪に泥を塗りかねない頭痛の種となった。

 サイモン氏と対照的だったのは、国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長だ。テレビ電話で彭さんと通話したと発表し、「北京の自宅にいて安全で健康だ」という彭さんの言葉を伝えた。中国当局には、彭さんを巡る疑惑を打ち消す狙いがあったとみられ、バッハ氏はそれに手をさしのべたかたちとなった。IOC側も、五輪開催の妨げとなりかねない事案の沈静化を図る思惑があり、中国側と一致したとみられる。バッハ氏は2月の五輪開催中には北京市内で彭さんと会食したと発表した。北京冬季五輪は、選手や関係者らを外部から厳格に遮断するバブル方式で行われ、バブル内に入るには2~3週間の隔離が求められた。おそらく彭さんはバッハ氏との会食のみのために隔離生活を送り、中国当局とIOCの宣伝に利用されたのだろう。

金儲けの前には価値観も膝を屈する?

 ともかくも北京冬季五輪は終わり、国際社会の関心は五輪直後に始まったロシアのウクライナ侵攻に移った。彭さんへの関心も急速に薄れたが、その間もWTAは中国での大会開催を見合わせていた。もっともコロナ禍の影響があり、いずれにしても中国では大会を開催できない状況だった。WTAの対中強硬姿勢はポーズにすぎなかったともいえる。

 中国でも昨年末、厳しい行動制限を伴うゼロコロナ政策がようやく終わり、中国も含めた世界全体がアフターコロナの時代に入った。WTAが中国での大会再開を発表したのはそんな矢先だった。コロナ後の経済回復の波に乗り遅れたくないという思いがにじむ。

 中国が巨大市場の力を背景に、外国政府や企業、個人に圧力をかけて中国の政治的要求などをのませる例が相次ぐ。近年でもオーストラリア産ワインの事実上の禁輸から、ナイキやH&Mなどが新疆ウイグル自治区での強制労働に対する懸念を表明したことで不買運動の標的になった件や、バスケットボールの元NBA選手が台湾を「国」と呼んで釈明に追い込まれた事案まで枚挙にいとまがない。果敢に中国に立ち向かったWTAも最後は膝を屈した。

 言うまでもなくスポーツ大会も経済活動であり、金と無縁ではない。「金儲けより、大切なものがある」。サイモン氏やWTAはこんな価値観を思い出させてくれたが、この立場を貫くのが決して容易でないという教訓も教えてくれた。

カテゴリ: 社会 政治
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
執筆者プロフィール
中澤穣(なかざわみのる) 1977年生まれ。東京新聞外報部デスク。早稲田大学政治経済学部卒、一橋大学言語社会研究科修了。東京新聞社会部(司法担当)や中国総局長などを経て現職。
  • 24時間
  • 1週間
  • f
back to top