朝鮮が「中国の属国」だった歴史はなぜ知られていないのか

新城道彦『朝鮮半島の歴史――政争と外患の六百年』(新潮選書)

執筆者:岡本隆司 2023年6月21日
タグ: 韓国 北朝鮮
エリア: アジア
朝鮮王朝を樹てた太祖・李成桂(1335~1408、右)と、王朝最後の大韓帝国皇帝・純宗(1874~1926、左)

 ソウルの独立門は、日本ではなく清からの独立を意味して建てられた――そんな基本的な史実すら、日本ではもちろん、韓国でも知られていないという。たしかに朝鮮半島の歴史といえば、日韓併合と朝鮮戦争ばかりが注目され、それ以前の歴史は等閑視されがちだ。その空白を埋めるべく、新城道彦氏が『朝鮮半島の歴史――政争と外患の六百年』(新潮選書)を上梓した。東洋史家の岡本隆司氏が読みどころを紹介する。

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ありそうでなかった通史

 世の中にはありそうで、ないものがたくさんある。ごく狭いわが歴史学界の著述も、おそらくその例にもれない。単著一冊本の通史など、その最右翼であろう。

 ある韓国の中国史学者はこう述べて、事情を説明してくれた。研究者は「専攻する地域と時代に対する非常に小さな主題を扱った学術書を何冊か出版して、研究を終える」のが「普通」である。「膨大な資料と蓄積された研究の沼がどれほどかをよく知っている」ので、「敢えて自分が熟知する時代史を飛び超えて、中国史全体を扱ってみようという考えさえ及ばない」。

 以上はよく書き手の心理をうがっている。明るくないことまで書いていいんだろうか。そんな疑心暗鬼・躊躇逡巡の気持ちは、勉強すればするほど、よくわかろうというものだ。どの国も事情は同じとみえる。

 本書の著者にいわせれば、「通史はたとえ苦労して書き上げたとしても『あれがない、これがない』的な批判を受けるのは目に見えていた」。至言というべし。これでは、通史執筆の意欲が起こらなくてもいたしかたない。

 筆者も最近刊行した通史『明代とは何か』(名古屋大学出版会)で、「乱暴に切り捨て」「捨象する」と明記し、あらかじめことわっておいたにもかかわらず、「不用意」「不注意」な記述で、「バランスを欠」く「過言」「断定」だと批判する書評が出ている。少なからず同憂を禁じえない。

 しかし通史に対する渇望が少なくないのも、また確かであろう。事件・人名が交錯する歴史の流れを一望したい、複雑な史実展開に対する体系的、個性的な解釈を満喫したい。歴史に関心があるなら誰しも抱く願望であって、かなったときの喜びもまた格別である。

 そんな万一の僥倖を求め、筆者も及ばずながら通史の執筆を手がけてきた。通史の読者として、自らも渇望を覚えているからである。

 単著単冊の通史がありそうでないのは、内外いづこの歴史も大同小異にはちがいない。それでも、なかんづくなかったのは、けだし研究者層の薄い朝鮮史であろう。

 かつて愛読していたのは、旗田巍先生の『朝鮮史』(岩波書店)、梶村秀樹先生の『朝鮮史』(講談社現代新書)、姜在彦先生の『朝鮮儒教の二千年』(講談社学術文庫)『朝鮮近代史』(平凡社選書)だった。架蔵のこの四冊、もちろん今も膝を打つ論述はあるものの、さすがにアウト・オヴ・デートではある。カバーが色褪せただけではない。叙述の内容がいかにも古びてしまった。

 それでいて、新しい通史はあらわれない。最近の小倉紀藏先生の『朝鮮思想全史』(ちくま新書)も、あくまで思想哲学プロパーである。

 ようやく数十年をへて、本書にめぐりあった。年来の渇きがようやくにして癒やされた観がある。

六百年を体系的に一望

 本書は14世紀後半、高麗の衰亡・朝鮮王朝の草創からはじまって、20世紀半ばの朝鮮戦争休戦にいたる、正しく「六百年」をカバーする通史であり、題名に違わない。これ一冊で半島の六百年を体系的に一望できるといえば、それだけでいかほど貴重かよくわかる。

 しかもその体系とは、安易に借りてきたものではない。気鋭の著者がみすえた具体的な史実に即しつつ、手づから構築した体系であって、そこに味読賞翫の価値がある。

 六百年はやはり長い。その経過はどうしても、いくつかに区分して述べる必要がある。また、その分かった各々の時期を均分した論述にすることも難しい。現代に近ければ近いほど、史料は多いし、なじみも深いから、叙述は自ずと詳しくなり、かさばってしまう。

 だから歴史の著述で時間的な配分が比例しないのは、むしろ通例、決してめずらしいことではない。本書もやはり比例は失している。それでもことさら均衡につとめた印象が強い。

 史料史実の相対的に乏しい17世紀までが簡略なのは当然である。それでも約100ページと、相応の紙幅を割いて具体的な史実を書き込んだ。他方で、いわゆる近現代史は五十年あまりに100ページ以上を費やす精細な叙述ではありながらも、詳述というよりは概略とみるほうが適切である。通史としてのバランスに留意し、本書のあつかう全時期を、過不足なく見わたせるようにした著者の配慮とおぼしい。

 要するに、昔に厚く今に薄い、ということである。これは単に量的なバランスをはかったばかりではあるまい。本書を貫く体系にも深く関わっているとみることもできる。

 本書は「政争と外患」と題する。「朝鮮半島が分断に至った歴史を叙述することにある」と冒頭で「目的」を示しているから、そのシナリオを端的にいってしまえば、「政争と外患」が「分断」に導いた歴史だった。

 だとすれば、その「政争」と「外患」は、いつから始まり、いかなる内容でどんな推移をたどり、双方どのような関係にあったのか。そこが本書の具体的な内容にならねばならない。

朱子学イデオロギーによる政争

 第一の「いつから」に対する答えは、やはり副題にいう「六百年」前である。凄惨な「政争」は爾来、やむことはなかった。そこに朝鮮王朝をすべて論じなくてはならない必然性があり、本書はその「政争」すなわち「朋党」の権勢争いの経過を、手際よく克明に跡づける。

 党派の離合集散は名前の羅列になりがち、ともすれば退屈きわまりない。しかも朝鮮王朝時代の党争は、建前と本音がかけ離れている。ご多分にもれず地縁・血縁・信条的な利害で結びつきながら、朱子学イデオロギーの「道徳的〈正しさ〉」を前面に出して、妥協なき論争をくりひろげた。局外・客観からはしばしば不可解な経緯をたどるため、そこをおもしろく、わかりやすく述べなくてはならない。

 そうした必要も本書の論述は満たしている。史実の経過ばかりでなく、そこに通底する構図・論理をみとおし把握できたため、時代相の巨細を再現する興味深い叙述を可能にした、というほうが正確かもしれない。

 その構図とはつまり王朝時代の「政争」が、内外の秩序体系に関わる朱子学イデオロギーと不可分だったために、権力構造と対外関係の変動をもたらしたというにある。政変のみならず、しばしば「外患」をも招来したのであって、豊臣秀吉の朝鮮出兵・後金ホンタイジの侵攻・19世紀半ば以降の洋擾・日清戦争、いずれもその例に漏れない。

 しかもそれぞれの「外患」の影響は、新たな党派・党争を再生産し、くりかえし「政争」をもたらす。そうした構図・構造は王朝時代ばかりにとどまらず、イデオロギー・政体に西洋・日本の影響が強くなる近現代になっても、容易に変化しない。やはり韓国併合・朝鮮戦争という「外患」をもたらし、植民地化にいたって、ついには政権の「分断」を導いた。「分断」状態の現在も、その遺制が存続しているとみることも可能だ。

 ごく図式的に整理すると、

14C(外圧〔=事大〕→朱子学→)朋党→党争→政争→17C外圧(=交隣)→党争→政争→20C外圧〔=独立・併合〕→党争→分裂→分断=独立

 となろうか。筆者が中国史の視座から朝鮮半島史上の内外政治を眺めつつ、思いめぐらせていた仮説にごく近い。拙著『東アジアの論理』(中公新書)でくりかえし断片的に述べてきたものながら、本書は朝鮮史の専門家がそうした構図で、体系的な通史を書いてくれた。そこに最も重要な意義があると評したい。

()内は本書の叙述が薄いところで、中国史の立場からはもっと立ち入って書き込んでほしかった論点である。いな、これは精読すれば自ずと了解できるので、望蜀かもしれない。

 そうした側面をよく表す本書の読みどころは第3章・第4章で、18世紀の後半から20世紀初頭までを描く章立て・論述は、なかんづく特徴的だろう。1870~80年代および1900年代に「開港」「併合」という「外患」の重大事件が起こっているから、各々そこを画期として章などを区切るのが通例であった。ところが本書は、3章・4章ともあえてそうしない。「外患」は「政争」と密接不可分だからであり、そこに対する着眼と論述が、凡百の朝鮮史の叙述と一線を画した著者のオリジナリティだと断言する。

「他律性史観」のタブーを超えて

 朝鮮史学界には「他律性史観」ということばがあった。簡単にいえば、朝鮮半島の歴史は外から動かされてできあがったもので、自律性がなかったとする見方である。もちろん戦後史学では重大タブーと化し、その脱却・克服が久しく史学史・歴史教育の主流だった。ひとまず目的を達したのか、いまや用語としても、あまり使われない。

 そのいきついた一面が、本書の「あとがき」に紹介するエピソードであろうか。著者の友人「の大学院生は、韓国(朝鮮王朝)が中国(清)から独立する理由などないし、属国だった過去があるわけないと反発した」という。

「属国」だった実質支配が認められないから、「独立」もないとの謂であり、しかも最近の韓国では、そればかりではない。日本のいわゆる「韓国併合」も「違法」だと認められるので、「併合」という過去もなくなっているそうだ。「他律」を忌避否定するあまり、「外患」の存在という事実にまで目を背けるようになってしまったのである。

 実質かどうか、合法かどうかはともかく、あったことをなかったことにしては、もはや歴史・「史観」とはいえない。歴史でなくしてまで「他律」を否定しなければならないのであれば、実際の歴史には「他律」が厳存していたのを、かえって裏書きしたも同然ではないか。けっきょく旧態依然の「他律」「自律」の二分のほうが、歴史の実態に近いのである。

 それなら多かれ少なかれ、確かに存在した「外患」「他律」は、いかに内政・「自律」と関連していたのか。それをみなおすほうが、はるかに実りある思索であろう。本書は「政争と外患の六百年」でその表現をまっすぐ果たした。真の意味で、ありそうでなかった通史なのである。

 

 

カテゴリ: カルチャー 社会
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執筆者プロフィール
岡本隆司(おかもとたかし) 京都府立大学文学部教授。1965年、京都市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。博士(文学)。専門は近代アジア史。2000年に『近代中国と海関』(名古屋大学出版会)で大平正芳記念賞、2005年に『属国と自主のあいだ 近代清韓関係と東アジアの命運』(名古屋大学出版会)でサントリー学芸賞(政治・経済部門)、2017年に『中国の誕生 東アジアの近代外交と国家形成』で樫山純三賞・アジア太平洋賞特別賞をそれぞれ受賞。著書に『李鴻章 東アジアの近代』(岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『中国の論理 歴史から解き明かす』(中公新書)、『叢書東アジアの近現代史 第1巻 清朝の興亡と中華のゆくえ 朝鮮出兵から日露戦争へ』(講談社)、『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)など多数。
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