「名誉殺人」の背後に潜む現代インドの「トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)」

執筆者:池亀彩 2023年8月18日
タグ: インド
エリア: アジア
インドの名誉殺人の被害者は、ダリト男性とカースト・ヒンドゥーの女性という組み合わせがほとんどである一方で、ダリト女性は性暴力の対象となることが圧倒的に多い。写真はレイプ被害を受けて亡くなったとされる少女の追悼集会=撮影2021年8月(C)EPA=時事
家の名誉を守るために、多くは性的規範を破った女性を身内が殺す「名誉殺人」。それは中東、北アフリカ、南アジアに多い複雑な社会問題だが、インドの場合はカースト差別が根深く絡みついている。ただし、その伝統的な不浄観だけでは近年の事件は説明できない。旧不可触民の男性であれば女性と一緒に殺害されたり、あるいは旧不可触民の女性を襲う性犯罪が多発する裏には、支配カーストの男性による社会的な優位性の誇示という構図が見て取れる。

 

 インドでの残虐なレイプ事件が報道される度に、やっぱりインドは危ない国だとか、遅れている国だという印象が広まってしまうのが残念でならない。この文章も、そんなインドの悪いイメージを強化してしまいそうで、ビクビクしている。実際のところ、普通に旅行したり生活したりする分には、インドが女性にとって危険すぎる場所であるとは思われない。もちろん窃盗などの犯罪は日本よりもずっと多いが、旅行者が性犯罪を含め身体を傷つけられるような犯罪が極端に多いとは思えないのだ(「思えない」としか言えないのは後述するようにインドでの犯罪件数のデータが信用できないからである)。

 もちろん非常に保守的な社会だから、女性が一人で旅行しているとギョッとされたりはする。またインド、特に北部では、若い女性が若い男性とおしゃべりすることは極めて稀なので、こちらは気軽に話したつもりでも、脈があると誤解されてしまうこともある。だが、子連れで旅行された方など、インド人がいかに他人の子供に親切かを実感されたのではないだろうか。ギスギスしがちな日本社会に比べておおらかで温かい人が多いのがインドだと思う。

 とはいえ、インドが世界最大の民主主義国として、そして最近では「グローバル・サウスの盟主」として国際政治においてその存在感を強めようとしている状況で、この国の問題点を指摘しておくこともやはり必要だろう。ここでは、女性に対する暴力のインド的特徴について考えてみたい。

殺される「ダリト」の男性たち

 2016年3月に南インドのタミル・ナードゥ州ウドゥマライの町で起きたある殺人事件は、国内外に広く知られるものとなった。被害者の若いカップルが、白昼暴漢たちに襲われる様子が町の監視カメラに残っていたこと、さらに周囲の人々がスマホをつかって撮影し、その映像がインターネットにアップロードされたことなどにより、この事件は劇場型殺人事件として多くの関心を集めた。

 被害者はインドの旧不可触民であるダリト出身の22歳の青年シャンカルと、親の意思に反して彼と結婚した19歳のカウサリヤであった。カウサリヤは高カーストではないが、土地を所有し、農村社会の政治を牛耳るテーワル・カースト出身の女性である。病院に担ぎ込まれたシャンカルは死亡、カウサリヤは大怪我をおったが命をとりとめた。その後、彼らを襲ったのが結婚に反対していたカウサリヤの両親が雇ったチンピラであったことが分かり、この事件は「名誉殺人(オナー・キリング)」として扱われるようになった(詳しくは拙書『インド残酷物語』(集英社新書)を参照してほしい)。

「名誉殺人」という言葉は日本においても聞き慣れたものになりつつある。ざっくり言えば、―家の名誉を汚したとみなされるような行為をした(あるいはしそうな)人を、家族のメンバーが直接、あるいは間接的に、殺害することである。家族を自分たちの手で殺すことによって、家族の名誉が回復されると信じられている。親や親戚が決めた結婚を拒絶した女性が殺されるのが典型的なケースで、中東、北アフリカ、南アジア地域で多くみられ、また同地域からの移民が多い欧州で1990年代後半から社会問題として扱われるようになった。

 一方現在インドで問題となっている「名誉殺人」は、その背後にカースト差別、特に不可触民として扱われてきたダリトたちへの根深い差別があるという点が特徴的である。この場合、殺されるのは女性たちだけでなく、カースト・ヒンドゥー(ダリト以外のヒンドゥー教徒)の女性となんらかの関係を持ったとみなされたダリト男性――シャンカルもそのケースである――も含まれる。実際に付き合ったり、結婚したりしていなくとも、殺されるケースもある。

 私が実際にタミル・ナードゥ州で聞いたケースを紹介したい。大学院の修士課程で勉強していたダリトの男性に、カースト・ヒンドゥーの女性が恋心を抱き、ラブレターを渡したが、彼にその気はなく、言葉を交わすこともなかった。だがその女性の男兄弟がその話を聞きつけて、ダリト男性の友人の名前を騙って、自分たちの村に呼び出した。しばらくして彼の両親は息子が井戸の中で死んでいるのが見つかったというニュースを知る。女性の男兄弟とのやり取りは携帯電話に残っていたというが、警察は女性の両親の「彼は夜中にニワトリを盗もうとして誤って井戸に落ちた」という証言だけで、事故として片付けてしまったという。

アファーマティブ・アクションをめぐる軋轢

 ダリト差別の背景には、インドだけに限らず日本を含めた広いアジア地域全体に見られる浄・不浄の観念がある。不浄とは、死や殺生に伴うケガレ、生理や出産などの身体的なケガレから生じると信じられており、動物の死骸処理、屠畜(とちく)業、皮革業、清掃業、助産師などの職を伝統的に担ってきたダリトは、最も不浄な存在とされてきた。彼らとの身体的接触や食べ物のやり取り、同じ場所で食事をすることなどが避けられるだけでなく、村落社会の中でダリトが住む場所も厳重に規制されてきた。

 だが、こうした伝統的な不浄観だけでは、インド的名誉殺人は説明できない。なぜならダリト男性となんらかの関係を持ったとされるカースト・ヒンドゥーの女性は殺されるが、逆のパターン、つまりダリト女性と関係を持ったカースト・ヒンドゥーの男性が殺されたり、制裁を受けたりすることはほとんどないからである。……

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カテゴリ: 政治 社会
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執筆者プロフィール
池亀彩(いけがめあや) 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授。専門は南アジア地域研究、社会人類学。1969年東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科、ベルギー・ルーヴェン・カトリック大学、京都大学大学院人間・環 境学研究科、インド国立言語研究所などで学び、英国エディンバラ大学にて博士号(社会 人類学)取得。英国でリサーチ・アソシエイトなどを経験した後、東京大学東洋文化研究 所准教授を経て現職。著書に『インド残酷物語 世界一たくましい民』(集英社/2021年)がある。
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