水素社会へ突き進むドイツが直面する難題

執筆者:熊谷徹 2023年9月25日
タグ: 脱炭素 ドイツ
エリア: ヨーロッパ
グリーン水素の生産費用が割高なこともあり、当面はグリーン水素以外の水素も活用しながら、水素経済の活性化を図る[グリーン水素を生成する電解槽の前に立つフランク=ヴァルター・シュタインマイヤー独大統領、2023年5月2日、ドイツ・オーバーハウゼンのエア・リキード社](C)EPA=時事

 ドイツ政府は3年ぶりに国家水素戦略(NWS)を改訂し、2030年までに国内で生産する水素の容量目標を2倍に増やすなど、2045年のカーボンニュートラル達成には水素普及が不可欠という姿勢を強く打ち出した。だがエネルギー業界からは、再エネ電力の不足や水素の生産費用の高さなどについて懸念が出ている。

国内生産容量目標を倍増

 連邦経済気候保護省(BMWK)が7月26日に公表した新NWSは、2020年に前のアンゲラ・メルケル政権が公表したNWS(旧NWS)の路線を踏襲しながらも、水素普及の加速へ向けて、より野心的な目標を設定したことが特徴だ。

 旧NWSは、「2030年の国内の水電解設備による水素生産容量目標を500万kWとする」としていた。これに対し新NWSは、「2030年までに国内の水電解設備によるグリーン水素の生産容量目標を少なくとも1000万kWに引き上げる」と明記した。

 グリーン水素とは、風力や太陽光などによる再エネ電力だけを使って、水を電気分解して生産する水素のことだ。生成過程で二酸化炭素(CO2)が排出されないことから、オラフ・ショルツ政権はグリーン水素を最も重視している。政府は、水素を生産するための水電解設備の建設を促進するべく、民間企業に対して、助成金(補助金)を出す方針。助成金の額は、入札によって決められる。

 この入札では、政府が水電解設備の建設のための助成金額を、民間企業から募集する。政府から受け取る助成金額が少ない企業から落札し、助成金の交付を受けることができる。たとえば仮に建設に3億円の費用がかかるとする。A社は「我が社は政府から1億円の助成金を受け取りたい」と応札したとする。B社は「我が社は5000万円の助成金でよい」と応札したとすると、B社が落札する可能性が高くなる。

 助成金について入札を行う理由は、政府が一方的に助成金の額を決めるよりも、民間企業から金額を希望した方が、市場経済のメカニズムが部分的に働き、国(つまり納税者)の負担が比較的少なくなるからだ。

水素自給率も引き上げ

 さらにドイツは、水素の自給率についても、野心的な目標を設定した。旧NWSは2030年に国内で生産される水素量の目標を140億キロワット時(kWh)としていた。これは、旧NWS の2030年の水素需要量900億~1100億kWhの12.7~15.6%にあたる。水素需要量の84.4~87.3%が輸入される予定だった。

 これに対し新NWSは、「2030年の国内の水素需要量の50~70%を輸入でまかなう」と明記した。BMWKのロベルト・ハーベック経済気候保護大臣もベルリンでの記者会見で「将来ドイツは、需要量の約3分の1を国内で生産し、約3分の2を輸入する」と語った。つまりショルツ政権は新NWSの中で、2030年の水素自給率の目標を旧NWSに比べて大幅に引き上げたのである。

 ドイツが3年前に比べて自給率目標を引き上げた裏には、ロシアのウクライナ侵攻が起きるまで、ドイツがロシアの天然ガス、石炭、原油に大きく依存していたことへの反省がある。ソ連は東西冷戦時代にも天然ガスを西欧諸国に輸出し続けた。このため歴代のドイツ政府は、「ソ連(ロシア)がエネルギーを政治的目標を達成するための武器として使うことはない」という誤った先入観を抱いた。この結果、ドイツが2021年に輸入した天然ガスの内、ロシアからの天然ガスの比率は約60%に達した。

 去年8月にロシアがパイプラインによるドイツへの天然ガス輸出を完全に止めた直後、ドイツの化学メーカーなどの経営者たちは、「操業停止に追い込まれる」と一時パニックに近い反応を示し、一部の市民は電力会社やガス会社から「電力料金やガス料金を前年の2倍に引き上げる」と通告された。ショルツ政権が、水素自給率を3年前のNWSに比べて引き上げたのは、外国への依存度を減らすという姿勢の表れだ。

 ドイツ政府は、水素の調達先についても、EU(欧州連合)に加盟している友好国を中心にする。ドイツの天然ガス長距離輸送設備運営事業者連盟(FNBガス)は、今年7月12日に同国の将来の水素需給に関する研究報告書を公表した。この報告書によると、2032年のドイツの水素の供給容量の内57.4%はフランス、オランダ、デンマークなどの友好国からパイプラインで供給される。これらの国々は、ロシアや中国とは異なり、議会制民主主義、人権擁護などEUの普遍的価値を尊重する国々だ。パイプラインによる供給容量の内、最大の比率を占めるのはデンマークの24.5%と低く抑えられており、供給途絶リスクの分散化が図られている。供給国の中には、ロシアなどの強権国家は含まれていない。さらに供給容量の18.8%はオーストラリアやカナダなどの友好国から船で輸送される予定だ。

水素で製造業・運輸・発電事業の脱炭素化も進める

 新NWSの中でドイツ政府は、化学、鉄鋼メーカーなどエネルギー集約型の産業が、現在熱源として使っている化石燃料を水素によって代替する方針を打ち出している。水素を使って作られる合成燃料で、航空機、船舶、長距離トラックからのCO2を減らすことも目指す。さらに、水素を燃料として使う発電所や、将来燃料を水素に切り替えられる、H2-ready型天然ガス火力発電所の建設についても、助成金を交付する方針。政府は水素発電所の容量2380万kWについて、助成金額を決めるための入札を今年末から来年初めにかけて始める予定だ。

 ドイツ政府は気候保護法によって、2030年までに、電力消費量の80%を再生エネルギー(再エネ)電力でカバーすることを義務付けられている。だが、風力や太陽光などの自然エネルギーは天候に左右されるので、変動が大きい。欧州で電力需要が高まる冬に風や太陽光が弱いと、需給バランスが崩れて電力網が不安定になり、広域停電などが起きるリスクが高まる。そこでショルツ政権は、2030年の電力消費量の20%を、水素またはその派生物質であるアンモニアでまかなうことを考えているのだ。水素・アンモニアの発電所を、再エネ電力の供給量が少ない時のバックアップ(調整力)として機能させるわけだ。

生産費用の高さがネック

 しかし水素普及については、まだいくつかのハードルが残っている。一つは、グリーン水素の生産費用が割高であることだ。国際エネルギー機関(IEA)によると、2021年には陸上風力発電設備を使ったグリーン水素の生産費用は、1キログラムあたり約3.9ドル~約8ドル、太陽光発電設備によるグリーン水素の生産費用は、1キログラムあたり約4ドル~約9ドルだった。これに対し、現在製造業界などが使っている、天然ガスから生産されるグレー水素の生産費用は、1キログラムあたり約1ドル~約2.8ドルであり、グリーン水素よりも大幅に低い(数字は、IEAのグラフから拾ったので、概数)。

 水素の生産費用は今後逓減していくと予想されている。しかし当分の間は、政府が助成金などによって、メーカーが生産プロセスで使う熱源を水素に切り替えるための費用などについて、企業を支援する必要があると思われる。ドイツの化学業界などは、「製造プロセスの脱炭素化は、政府の助成なしには不可能」という見解を表明している。

陸上風力発電拡大の遅れ

 もう一つのハードルは、ドイツの再エネ発電設備の中で最も重要な位置を占める、陸上風力発電設備の設置速度の鈍化だ。ドイツ風力エネルギー連邦連合会(BWE)によると、この国で2017年に運転を始めた陸上風力発電設備の数は1792基だったが、2019年には325基に落ち込んだ。ドイツ政府が再エネ拡大を始めた2000年以来、最低の数字だ。新たに稼働する設備が減少した原因は、鳥獣保護を求める市民団体や、不動産価格の下落を懸念する住民からの建設差し止め訴訟の数が増え、監督官庁が建設許可申請の審査に以前よりも長い時間をかけるようになったからだ。

 2020年以降は、毎年の設置数は徐々に増えているものの、2022年も551基が運転を始めたに過ぎない。2022年末の陸上風力発電設備の累積設備容量は5810万6000kW。政府の2030年の容量目標・1億1500万kWのほぼ半分にすぎない。ドイツはあと7年以内に、陸上風力発電設備の容量をほぼ2倍に増やさなくてはならないのだ。

 BWEによると、遅れの原因は、世界的なサプライチェーンがスムーズに機能しておらず、部品の納入が遅れていること、原材料や部品の価格の高騰や、インフレによる風力発電設備の建設費の高騰、銀行融資の利率の上昇、技能を持ったエンジニアなどの不足だ。再エネ発電設備の設置が滞った場合、再エネ電力の需給が逼迫することから、水電解設備を建設してもグリーン水素を十分に生産できない可能性がある。グリーン水素の需要が増えているのに供給が十分でない場合、グリーン水素の価格が高騰する危険もある。

グリーン水素への執着をあきらめたドイツ政府

 このためドイツ政府は、使用できる水素の選択の幅を広げた。ドイツ政府は旧NWSの中では、グリーン水素以外の水素には言及していなかった。しかし政府は、新NWSの中で初めて、「グリーン水素を十分供給できるようになるまでは、ブルー水素(天然ガスを使って生成されるが、CO2はCCS=炭素分離・貯留技術によって地中などに保管される)、ターコイズ水素(メタンから生成される。その際に炭素は固体になるので、大気中には排出されない)、オレンジ水素(ゴミ焼却の際の熱で発電された電力を使って作られる水素。CO2はCCSで貯留)も限定的に使用するべきだ」と記した。ただし政府からの助成を受けられるのは、グリーン水素に関連した設備に限られる。

 ドイツ政府が使用できる水素の幅を広げたのは、「国内で生産される水素の容量を増やすには、グリーン水素に限定せずに、選択肢を広げるべきだ」と考えたからだ。ちなみにドイツ政府は、原子力発電所からの電力を使って作られる水素(レッド水素)については言及していない。今年脱原子力を完遂したドイツ政府としては、レッド水素の使用は、越えてはならない一線なのだ。これに対し、フランス政府は原子力からの電力を使った水素も「持続可能性が高い水素」と認めることを要求しており、ドイツとの間で意見が対立している。

 またショルツ政権は、今年5月に発電事業者や地方自治体との協議の結果を「陸上風力発電戦略」として公表し、建設許可申請の審査期間の短縮など、ビューロクラシー(官僚主義)を減らすための措置を打ち出した。だがこれらの措置によって、陸上風力発電設備の設置数がただちに大きく増えるかどうかは、未知数だ。

「投資リスクの最小化を」

 エネルギー業界からは、「新NWSは多くの発電事業者が持っている問いに答えていない」という厳しい意見も出ている。

 ドイツ連邦エネルギー水道事業連合会(BDEW)は、7月26日に発表した声明の中で、「新NWSには、将来どのようにして競争が有効に機能する水素市場を構築するのか、どのように水素を助成するのかについての具体的なビジョンが欠けている。法的枠組みや、新たな水素市場の設計も十分に言及されていない。国内の水素生産容量を2030年までに1000万kWに引き上げるための具体的な施策と助成方法が欠けている。政府の、現在用意されている施策で十分な水素供給量を確保できるという見方は、余りにも楽観的だ」と述べ、新NWSについて不満を表明した。

 BDEWは、「現在ドイツの電力会社や機関投資家は、水素が本当に普及するかどうかについて確信が持てないので、様子見の状態にある。政府は電力会社や機関投資家の抱く不安を取り除かないと、水素発電所や水電解設備への本格的な投資は始まらない」と警告する。電力会社は、いつ水素パイプラインが設置されて発電所に接続され、いつ十分な水素が燃料として供給されるかを知りたいところだが、政府はまだ具体的な情報を与えられる段階にはない。

 エネルギー業界は、政府に対して水素については「容量市場」を作ってほしいと要望している。通常電力会社は、発電設備を運転させて、発電した電力を売ることで対価を得る。これに対し容量市場では、電力会社が発電所を運転しなくても、発電できる容量つまりキャパシティーを用意することについて、対価が支払われる。エネルギー業界は、水素発電所が再エネ中心の市場での万一のためのスタンバイ電源と見なされて、フル稼働することができずに、収益を生まない事態を危惧しているのだ。しかし新NWSは、電力業界の期待を裏切って、容量市場の創設に触れなかった。これは電力会社にとっては、不安の種である。

 水素発電所や水電解設備、水素パイプラインが、収益を生まない「座礁資産」にならないという安心感を、政府が民間経済に与えられるかどうか。この点が明確にならない限り、水素経済は絵に描いた餅に終わる危険もある。

カテゴリ: 環境・エネルギー
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執筆者プロフィール
熊谷徹(くまがいとおる) 1959(昭和34)年東京都生まれ。ドイツ在住。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン特派員を経て1990年、フリーに。以来ドイツから欧州の政治、経済、安全保障問題を中心に取材を行う。『イスラエルがすごい マネーを呼ぶイノベーション大国』(新潮新書)、『ドイツ人はなぜ年290万円でも生活が「豊か」なのか』(青春出版社)など著書多数。近著に『欧州分裂クライシス ポピュリズム革命はどこへ向かうか 』(NHK出版新書)、『パンデミックが露わにした「国のかたち」 欧州コロナ150日間の攻防』 (NHK出版新書)、『ドイツ人はなぜ、毎日出社しなくても世界一成果を出せるのか 』(SB新書)がある。
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