
中国の政治を眺めてきて、そこに常に国民の存在を感じる。中国の歴史をふり返ると必ず「民」が登場する。
世の中の乱れが民を圧迫し、民を立ち上がらせ、多くの王朝を滅ぼした。易姓革命と呼ばれ、統治すべしという天命が革[あらた]まり、統治者は変わる(皇帝の姓が易[か]わる)。そこに主流から外れていた知識分子(科挙の試験の準備をした者たち)が加わり、新王朝の樹立を助け、統治を支えた。近代に入ると、科挙は廃止されたが、学問を身につけた知識分子が自ら革命に身を投じ、革命を主導した。
中国国民党も中国共産党も、ともに知識分子が主導する政党であったが、共産党の方により多くの知識分子が集まった。蒋介石の国民党は既得権益層との癒着を強め、抗日戦争に消極的だと見られていたからだ。国民党は日本が負けた後、国政運営に失敗し、民に見捨てられた。これに対し毛沢東の共産党は、国民、特に人口の大部分を占める農民との関係を重視した1。人民解放軍にも国民の支持を得るために「三大紀律八項注意2」を課し、しかも厳格に運用した。解放区でも地主などの既得権益層を一掃し、土地は農民に分配した。
ここに共産党は国民を重視したからこそ成功できたという物語ができ、それが共産党のDNAだと認識された。このように中国共産党の統治には国民と知識分子という2つのプレーヤーが存在してきたことが分かる。
党内世論形成に影響力を増す中堅幹部
1949年に天下を取った毛沢東の権威は圧倒的だった。国民は、その権威の前にひれ伏した。毛沢東のやり方に異議を唱えたのが知識分子であった。知識分子とは、広く考える力を持つ人たちと言っても良いだろう。毛沢東は、この知識分子を徹底的に弾圧した3。だが既存社会の破壊(革命)に知識分子は大して要らないが、新しい国家の建設には不可欠だし、沢山要る。知識分子を排除したことが、毛沢東の国家運営が成功しなかった大きな原因の1つである。
毛沢東路線への回帰には、イデオロギーの締め付けと言論の管理強化を伴う。じつは、これこそ知識分子が最も嫌がるものだ。毛沢東路線への傾斜を強める習近平路線にとり、知識分子の動向が国家運営の成否を大きく左右するであろう。現時点をとれば、知識分子の心は習近平政権から離れつつあるように見える。
鄧小平は、毛沢東が発動した文化大革命により国民の共産党に対する支持が大きく揺らいだことを実感していた。国民の支持を取り戻すために経済発展に軸足を置いて改革開放を始めた。正に新しい国家建設であり、知識分子、特に外国の知識と経験のある者は重宝され重要なポストを与えられた。鄧小平路線は、知識分子に可能な限りの自由を与え、その力を最大限に活用してきた。
胡錦濤時代には、共産党自身も高学歴化し、人事の能力基準に学歴を導入した。おかげで大臣は修士、副総理は博士というのが通り相場になった。党員の知識分子化が急速に進み、自分で考える力を持つ党員が大幅に増えたということになる。毛沢東や鄧小平の時代にはなかったことだ。党内世論形成に対する一般党員、特に中堅幹部たちの影響力は大きくなっているはずだ。
習近平路線は、能力や学歴よりもイデオロギー及び党中央、すなわち習近平総書記に対する忠誠を重視する。そうであればあるほど習近平路線の成否は、イデオロギーとしての「習近平思想」が、知識分子化した党員の多数を納得させることができるかどうかが鍵となる。そこで苦戦していることは、本欄の前号で指摘したとおりである。
「外交」で冷静な知識分子も「経済」で同じとは限らない
中国経済の長期にわたる急速な高度成長は、中国社会を大きく変えた。中国のこの50年は、日本の100年、西洋の200年に相当するといっても良い。この社会の変化とともに、中国共産党が重視してきた「民」そのものも急速に大きく変わったのだ。……

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