誰もが情報発信できる時代に「信頼される」ための指針
ビル・コバッチ、トム・ローゼンスティール(澤康臣・訳)『ジャーナリストの条件 時代を超える10の原則』

ジャーナリズムの危機が叫ばれて久しいが、原因はどこにあるのか。米メディア界の精鋭たちが真剣な議論を重ね、いつの時代も変わらないジャーナリズムの「10の原則」を導き出し、今後のジャーナリズムとメディアのあるべき姿を提示したのが『ジャーナリストの条件 時代を超える10の原則』(ビル・コバッチ、トム・ローゼンスティール著/澤康臣訳)だ。ジャーナリズムを学ぶための基本書として世界中で読まれ、何度も改版して内容を磨き上げている。今回翻訳された最新第四版では、インターネットやSNSの普及によるメディア環境の劇的な変化も捉え、日本のメディアにとっても示唆に富む。
ジャーナリズムは特権ではないし、インターネットによって情報発信が自由になったことをポジティブに捉えているという音楽ジャーナリストの柴那典氏が、同時に信頼のあり方が変わってきたと指摘する。
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ジャーナリズムは危機に瀕している。
この本の前提条件にはそういう認識がある。そう言われて頷く人も多いだろう。報道メディアは影響力を低下させている。一方でSNSにはフェイクニュースが蔓延っている。グーグルやフェイスブックなど、プラットフォームのアルゴリズムによって人々には自分が見たいこと、信じたい情報だけが届くようになっている。結果として多くの人はフィルターバブルの中に閉じ込められ、社会で何が起こっているのか見えづらくなっている。
今は、誰もがインターネットで情報を発信することができる時代だ。あらゆる分野においてプロとアマチュアの境目はなくなっている。新聞社やテレビ局といった大きな組織に所属していることが、そのまま信頼に結びつくような時代ではなくなっている。むしろそのほうが信用できないと感じる人もいる。
本書はそんな時代にジャーナリズムはどうあるべきかを、その原則まで立ち返ってまとめた一冊である。ジャーナリストの内実として問われることは何かを、主にアメリカで活動する多数のジャーナリストや研究者と論じて解き明かした一冊だ。
なのだが。
実は、そういう議論、個人的にはちょっと苦手なのである。ジャーナリズムはかくあるべしとか、そういうことを大上段に、声高に語るようなことは、少なくとも自分にはあまり向いていない。そのあたりは自分自身の出自と肩書きに関連しているのだろうと思う。
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いわゆる「ジャーナリスト」とは違う場所から
筆者は「音楽ジャーナリスト」という肩書きで仕事をしている。アーティストへのインタビュー取材から作品や人物像を掘り下げたり、ライブやコンサートの批評をしたり、市場や業界の動向を追ったり、ネット上に生まれた自然発生的なムーブメントがどう巻き起こったかを解き明かすようなことをやっている。
なので、新聞記者や報道機関出身の方々がよく仰るようなジャーナリズム論からすると、自分の立っている場所は傍流であるのだよなと思う。権力の監視をしているわけではない。危険な場所に身を賭しているわけでもないし、政治や事件の現場にいるわけでもない。そういう人間がジャーナリズムを語ることへの引け目はある。
だったらこの書評を引き受けるなよという話でもあるのだが、それでも言うべきことはある。その一つは、ジャーナリズムは特権ではない、ということ。そもそも医師や弁護士、保育士や介護福祉士などと違って、ジャーナリストには資格試験はない。専門教育によって特殊技能を学んだものがなれるというわけでもない。多くの人は、報道機関にまず職を得て、仕事の現場でその能力を磨いていく。政治家と違って投票で選ばれるわけでもない。本書のタイトルは「ジャーナリストの条件」(原題は「THE ELEMENTS OF JOURNALISM」)であるが、別に何らかの条件を満たさないとジャーナリストになれないというわけではない。誰でもジャーナリストを名乗ることができる。
もう一つは、それでいて、ジャーナリズムが世の中に与える影響はとても大きいということ。マスメディアのちからを指す「第四の権力」という言葉もある。情報を発信することで、ある意図に沿って社会現象を誘導できるくらいの潜在的な力を持っている。
個人的なスタンスとしては、インターネットによって市井の人々が情報発信の力を持つようになったことは、とてもポジティブな世の中の変化だと思っている。それによって従来のマスメディアの立場が相対的に低下してきたのが21世紀に入ってからの大きな趨勢なのだが、そのこと自体をことさら問題視したり嘆いたりするような感覚はあまりない。
立ち返るべき原理原則
ただ、問題は、それによって信頼のあり方が変わってきたということ。誰もがジャーナリストを名乗ることができる。ニュースメディアを名乗ることができる。ということは、注目を集めて小金を稼ぐために、もしくは特定の勢力に利するために、偽情報をばら撒くことだってできる。そういう玉石混淆の情報の奔流の中に我々はいる。
であるがゆえに、ジャーナリズムについて何かを語るためには、その原理原則に立ち返る必要がある。本書が長らく読みつがれてきた理由はそこにある。
本書は2001年に初版が出版されて以来、版を重ね、米国ジャーナリズムで最も有名な教本の一つとなってきた。今回の第4版では、ソーシャルメディアの普及や、広告モデルではなくオンラインでの有料購読モデルが有力になってきたメディアのビジネスモデルの変化を踏まえた記述が多く見られる。ポッドキャストや新興メディアへの言及も多い。
それでも印象的なのは、本書の冒頭で「なぜ人にニュースが必要なのか」というところにまで立ち返っていること。どんな原始文化にもニュースは存在する。友人や知人と会って人が最初にすることの一つが情報共有である。自分が直接経験できない世界を知るため、人とお互いにつながるため、人の基本的な「知る本能」を満たすためにニュースは存在する。ジャーナリズムとは、要するに、今どうなっているのか、これからどうなるのかの情報を社会に供給するためのシステムだ、と本書にはある。
そして、本書には「ジャーナリズムは民主主義のためにある」とある。ジョセフ・ピュリツァーの言をひいて、民主主義とジャーナリズムは「ともに栄え、ともに滅ぶ」とある。
人と人の関心をつなぎ、公共の場を生み出す
民主主義というとまた大上段に構えた言葉になってしまうのだけれど、その理路も丁寧に説明されている。人と人の関心をつなぐこと。コミュニティを形作ること。人々の頭の中にある「今の社会はこうなっている」という像を描き出し、オープンな議論ができる公共の場を生み出すこと。ジャーナリズムが本来そのためにあること、そしてその機能が不全になりつつあることも書かれている。
そのうえで、本書には10の原則が挙げられている。
1. ジャーナリズムの第一の責務は真実である。
2. ジャーナリズムの第一の忠誠は、市民に対するものである。
3. ジャーナリズムの本質は、事実確認の規律にある。
4. ジャーナリズムの仕事をする者は、取材対象から独立を保たなければならない。
5. ジャーナリズムは、力ある者の監視役を務めなければならない。
6. ジャーナリズムの仕事をする者は、人々が批判と歩み寄りとを行う議論の場を提供しなければならない。
7. ジャーナリズムは重要なことを面白く、かつ、自分につながる問題にするよう努めなくてはならない。
8. ジャーナリズムはニュースにおいて、全体像を配分良く伝えなければならない。
9. ジャーナリズムの仕事をする者は、個人としての良心を貫く責務がある。
10. 市民もまた、ニュースに関して権利と責任がある。彼ら自身がプロデューサーや編集者になる時代には、なおさらである。
綺麗事の「べき論」と思う人もいるかもしれない。仰々しいとか、堅苦しいとか、理屈っぽいとか、そういう印象を感じる人もいるかもしれない。正直なことを言うと、筆者もこのリストだけを最初に見た時にはちょっとそういうことを思った。
ジャーナリストたちの葛藤や悩み、守りたい信条
でも、読み進めていくと、その印象は変わる。第1章は総論で、上記の10項目の内容が端的に紹介される。第2章から第11章までが、それぞれの説明にあてられる。その中で、とにかく沢山の人たちが登場する。多くの紙幅を割いているのは、いかめしい理想論というよりも、一人ひとりのジャーナリストたちの葛藤や悩み、守ろうとしている信条についての話だ。
たとえば「ジャーナリズムの仕事をする者は、個人としての良心を貫く責務がある」という項目を説明した第10章。そこでは、他紙からの盗用や捏造によって記事を執筆していたニューヨーク・タイムズの元記者ジェイソン・ブレアの不祥事の顛末と、それを告発した社員たちの声が綴られる。
また「ジャーナリズムの仕事をする者は、取材対象から独立を保たなければならない」という項目を説明した第5章では、政治家からジャーナリストに転じたウィリアム・サファイアの話から、両論併記でバランスをとる見せかけの公平さよりも大事なものがあるということを語る。
そして、最後の11章で主語は「ジャーナリスト」から「市民」へと変わる。一般の人たちがSNSに投稿した写真や映像がニュースの素材となることは当たり前になった。その先で、人々と職業ジャーナリストがどのような協力関係を築くことができるかが論じられている。
本書は、ジャーナリズムについての本であるのは間違いないのだが、それと同時に「信頼」を巡る考察の書でもある。挙げられているジャーナリズムの10の原則は、そのまま、人が情報を発信するにあたって「信頼される」ためにどうあるべきかという指針に読み替えることができる。
そういう意味でも、広く読まれる価値のある一冊だ。

- ◎柴那典(しば・とものり)
音楽ジャーナリスト。1976年、神奈川県生まれ。ロッキング・オン社を経て独立。音楽やビジネスを中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』『ヒットの崩壊』『平成のヒット曲』、共著に『渋谷音楽図鑑』がある。X:@shiba710
- ◎ビル・コバッチ Bill Kovach
『ニューヨーク・タイムズ』ワシントン支局長、『アトランタ・ジャーナル・コンスティトゥーション』編集者、ハーバード大学ニーマン・フェローシップ運営代表を歴任。憂慮するジャーナリスト委員会の創設者・議長を務めた。
- ◎トム・ローゼンスティール Tom Rosenstiel
アメリカ・プレス研究所専務理事、「ジャーナリズムの真髄プロジェクト」の創設者・理事、憂慮するジャーナリスト委員会副議長を務めた。『ロサンゼルス・タイムズ』メディア批評担当、『ニューズウィーク』議会担当キャップを歴任。4冊の小説のほか、ジャーナリズム論を中心に多数の著作があり、ビル・コバッチとの共著に『インテリジェンス・ジャーナリズム』(ミネルヴァ書房)、『ワープの速度』(未邦訳)がある。
- ◎澤康臣(さわ・やすおみ)
ジャーナリスト、早稲田大学教授(ジャーナリズム論)。1966 年岡山県生まれ。東京大学文学部卒業後、共同通信記者として社会部、ニューヨーク支局、特別報道室などで取材し「パナマ文書」報道のほか「外国籍の子ども1万人超の就学不明」「戦後憲法裁判の記録、大半を裁判所が廃棄」などを独自調査で報道。「国連記者会」(ニューヨーク)理事、英オックスフォード大学ロイター・ジャーナリズム研究所客員研究員なども務めた。著書に『事実はどこにあるのか』(幻冬舎新書)、『グローバル・ジャーナリズム』(岩波新書)など。