メルケル回顧録で振り返る「激動の16年間」

執筆者:熊谷徹 2024年12月20日
エリア: ヨーロッパ
2015年9月、メルケル首相(当時)の受け入れ発表後に、ミュンヘン中央駅に到着したシリア難民たち。難民政策について国内で高まった批判が、メルケル氏に回顧録を執筆させる最大の動機となった(写真は筆者撮影)

 11月26日、ドイツのアンゲラ・メルケル前首相が「自由(Freiheit)」と題した回顧録を公表した。同氏がウクライナの北大西洋条約機構(NATO)加盟に反対する理由など、貴重な証言も含まれている。だがドイツの論壇では「自己批判が少なく、過去の決定を正当化しようとする態度が目立つ」という声も聞かれる。

ドイツで話題となっているメルケル氏の回顧録『自由(Freiheit)

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CDUの異端児がドイツ初の女性首相に

 736ページの回顧録に刻まれたメルケル氏の道程は、波乱に満ちている。1954年にハンブルクで生まれたが、牧師だった父親が家族とともに社会主義国・ドイツ民主共和国(東ドイツ)に移住したため、メルケル氏は東ドイツで教育を受けた。東ドイツでは物理学者として、物理化学中央研究所で勤務した。

 メルケル氏は1989年のベルリンの壁崩壊後、東ドイツの民主化を目指す新政党「民主主義の出発」に加わり政界に飛び込んだ。その後1990年に西ドイツの政権党だったキリスト教民主同盟(CDU)に入党する。メルケル氏は統一を実現したヘルムート・コール首相(当時)の目にとまり、連邦政府の婦人青年大臣に抜擢される。コール氏は「西ドイツ主導の統一」という印象を薄めるために、旧東ドイツ人を閣僚に加えたのだ。一種の頭数(あたまかず)合わせである。

 メルケル氏は、CDUの保守本流に属する政治家たちから「コールのお嬢ちゃん(Kohls Mädchen)」とか「社会主義圏から来たウズラ(Zonenwachtel)」と揶揄された。その異端児が、CDUのベテラン政治家たちを押しのけて、幹事長、党首、首相の座に就いたのだ。ドイツ政治史の中で極めて稀なケースだ。

 皮肉なことに、メルケル氏の急激な上昇の起爆剤となったのは、同氏の恩人コール元首相の政治スキャンダルだった。

 CDUは1998年の連邦議会選挙で敗北し、野党になっていた。メルケル氏は1998年にCDU幹事長に就任したが、その翌年コール元首相が現役時代に、闇献金を受け取っていたことが発覚し検察庁が捜査を始めた。コール氏だけでなく、CDUの一部の幹部も闇献金の授受に関わっていた。メルケル氏は、闇献金問題の徹底的な解明と党の金権体質の改善を要求し、自分を引き上げてくれたコール氏と訣別した。

 メルケル氏の路線はCDU内で支持され、同氏は2000年にCDU党首に選ばれた。2002年にメルケル氏は、当時連邦議会の院内総務だったフリードリヒ・メルツ氏(現CDU党首)を更迭し、自分が就任した。その後メルツ氏は一時政界を去り、米国の投資銀行に就職。この経験のため、メルツ氏は今もメルケル氏を嫌っている。

 メルケル氏が率いるCDUは2005年の連邦議会選挙で勝ち、同氏はドイツ初の女性首相に就任した。メルケル氏の任期は、16年間続いた。その任期はコール氏に比べて9日間短いが、年数ではタイ記録である。

 メルケル氏は首相在任中に、2007年のサブプライム住宅ローン危機と翌年のリーマンショックから始まるグローバル金融危機、ギリシャ政府の粉飾決算(2009年に発覚)が発端の欧州債務危機、日本の原子炉事故(2011年)が引き金となった、脱原子力加速、ロシアによるクリミア半島併合(2014年)、難民危機(2015年)、コロナ禍(2020年)など様々な危機を経験した。このためメルケル氏の回顧録は、様々な危機に直面して、同氏がどのような判断を下したかを知る上でヒントを与えてくれる。

2008年、ウクライナNATO加盟をめぐる「攻防」

 ロシアのウクライナ侵攻との関連で最も興味深いのは、2008年にブカレストで開かれたNATO首脳会議のくだりだ。この会議でNATOは、加盟を求めるウクライナに対し、実質的に門を閉ざした。NATO加盟国は2008年4月3日に公表した共同声明の中で、「我々はウクライナとジョージアがNATOのメンバーになるということで合意した」と明記した。だがNATOは、加盟の時期を明らかにせず、ウクライナに対しメンバーシップ・アクション・プラン(MAP)のステータスを与えることを拒否した。

 MAPは、NATO加盟を希望する国の申請準備手続きの一部だ。MAPステータスを与えられれば自動的にNATOに加盟できるわけではないが、このステータスを与えられた国にとっては、将来のNATO加盟の可能性が極めて高くなる。

 当時NATO加盟国の中で、ウクライナにMAPステータスを与えることに最も強硬に反対したのが、メルケル氏だった。当時フランスの大統領だったニコラ・サルコジ氏も、メルケル氏と同意見だった。当時米国の大統領だったジョージ・W・ブッシュ氏は、ウクライナにMAPステータスを与えたいという意向を持っていた。特にブッシュ政権の国務長官だったコンドリーザ・ライス氏は、ウクライナへのMAPステータス供与に固執していた。

 メルケル氏は回顧録の中で、「米国のイラク侵攻の時に、ドイツやフランスは米国を真っ向から批判し、NATOに深刻な亀裂が生じた。私はウクライナにMAPステータスを与えることの是非をめぐる議論が、再び米欧間に亀裂を生む危険も強く意識していた」と述べている。つまりメルケル氏にとっては、ブカレスト会議は一種の綱渡りだった。

 メルケル氏がウクライナへのMAPステータスの供与に最後まで反対した最大の理由は、ロシアを挑発することへの懸念だった。メルケル氏は「ウクライナの領土であるクリミア半島には、ロシア海軍の黒海艦隊の基地がある。この基地の使用権に関するロシアとウクライナの間の協定は、2017年まで続く予定だった。かつてNATOへの加盟を希望した国の中で、ロシアにとってこれほど重要な軍事拠点を抱えた国はなかった」と記している。つまりメルケル氏は、ロシアの黒海艦隊の基地を持つ国に、MAPステータスを与えることで、ロシアがNATOに激しく反発することを恐れた。彼女は「NATO加盟は、新たにNATOに加わる国の安全だけではなく、NATOの安全も強化しなくてはならない」と言う。つまりメルケル氏は、ウクライナにMAPステータスを与えることが、NATOにとって危険だと考えたのだ。さらにメルケル氏は、「当時ウクライナでNATO加盟を求める市民の数は少数派だった」と付け加えている。

 ブカレストでの会議では、ブッシュ大統領(当時)がメルケル氏の主張を受け入れ、ウクライナにMAPステータスを与えず、共同宣言に「ウクライナはNATOのメンバーになる」という曖昧な一文を加えるに留めた。ウクライナ政府にとっては、この一文は全く不十分だった。

 メルケル氏は、ウクライナに対するMAPステータス拒否にこだわった理由の一つとして、2007年のミュンヘンでの安全保障会議でウラジーミル・プーチン露大統領が行った警告を挙げている。プーチン氏はこの会議での演説で、「米国による世界の一極支配」と、NATOの東方拡大を強く批判した。特に彼はNATOの東方拡大をロシアに対する挑発と呼んだ。彼は1998年のコソボ戦争や2003年の米国のイラク侵攻を例に挙げ、「米国は国際法を次々に破るだけではなく、政治、経済、人権などあらゆる領域で他国の権益を侵している。NATOと欧州連合(EU)が国連を骨抜きにすることは許されない」と述べた。

 メルケル氏は回顧録の中で、「プーチン氏は、ソ連が超大国として、米国と互角の立場で対峙していた時代の復活を夢見ている」と語っている。さらに、メルケル氏はプーチン氏とのある会話も記録している。この時プーチン氏は、「あなたは永久にドイツの首相ではいられない。いつかは首相の座から降りる。そうすればウクライナはNATOに加盟するだろう。私は、ウクライナのNATO加盟を絶対に阻止する」と語った。この言葉は、メルケル氏の心の中で、ウクライナにMAPステータスを与えることについての懸念を深めたという。

 現在ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー政権は、ロシアとの停戦交渉に参加する条件の一つとして、欧米諸国がウクライナを将来のロシアによる侵略から防衛する保証と、NATOがウクライナを招聘することなどを求めている。米国とドイツは、ウクライナをNATOに加盟させることに反対している。NATOは原則として、戦争に巻き込まれている国を加盟させることはない。そう考えると、ウクライナのNATO加盟への道は現在も相当困難であると言えそうだ。

宥和的な対ロシア政策でも、自己批判は希薄

 メルケル氏の回顧録に一貫するトーンは、「私が首相時代に行った決定は全て正しかった。もう一度同じ機会を与えられても、同じ決定を下すだろう」というものだ。個人主義が浸透しており、自己を正当化する傾向が強いドイツでは、ある意味で当然の態度かもしれない。

 ただしロシアに対して宥和的だった全ての政治家が、メルケル氏と同じ態度を取っているわけではない。たとえばメルケル政権で外務大臣を務め、親ロシア派として知られたフランク・ヴァルター・シュタインマイヤー大統領(社会民主党)は、2022年2月のロシアのウクライナ侵攻直後、「私はプーチン氏の真の意図を見抜くことができなかった。ウクライナやポーランドの警告を無視して、ロシアからドイツに天然ガスを送る海底パイプライン・ノルドストリーム(NS)1・2の建設を推進したのは失敗だった」と述べている。これに対しメルケル氏は回顧録の中でも、対ロシア政策をめぐってこのような自己批判を行っていない。

 メルケル氏は、回顧録の中で過去にロシアとウクライナが、陸上パイプラインの天然ガスの通過料をめぐってしばしば争い、一時東欧への天然ガス供給が途絶えたことなどを指摘。さらに、ウクライナを通過しないNS1が、ドイツや他の西欧諸国への割安の天然ガスの供給を支えたことを指摘。「プーチン氏に対しては、NS2の建設に合意する条件として、ウクライナに陸上パイプラインの通過料を保証する契約を延長するよう求めた」と述べている。

 だがメルケル政権が、プーチン氏のウクライナに対するアグレッシブな態度が表面化した後も、エネルギー貿易を拡大しようとしたことは否めない。

 たとえばロシアは2014年にクリミア半島に戦闘部隊を送って、この地域を併合した。露骨な国際法違反である。だがメルケル政権は、プーチン氏がウクライナの主権を侵害したにもかかわらず、2018年にNS2のドイツの領海内での建設の最終許可を出した。それだけではない。メルケル政権は、ロシアのクリミア半島併合の翌年の2015年に、ロシアの国営企業ガスプロムが、ドイツ最大の天然ガス地下貯蔵設備レーデンを所有・管理するドイツ企業を買収する許可も与えた。つまりメルケル政権は、ロシアがドイツへの天然ガス輸入量を増加させるだけではなく、貯蔵設備をコントロールすることまで許した。ドイツのロシアに対する警戒心がいかに薄かったかを示すエピソードだ。

 ロシアのウクライナ侵攻が始まった後、オラフ・ショルツ政権はガスプロムによるレーデン貯蔵設備の買収を無効化する法律を施行し、管理権はドイツ側の手に戻った。NS2の承認手続きも凍結させた。

 今日ではロシアのクリミア半島併合は、ウクライナ戦争の第1ラウンドだったと見なされている。メルケル政権がロシアのクリミア半島併合後に、NS2建設と、レーデン貯蔵設備のロシアへの売却を許可したのは、明らかな政策ミスだ。

 同氏は、2022年6月にドイツの通信社RNDと行ったインタビューの中で、「私がロシアとエネルギー貿易を続けた理由は、世界第2位の核大国ロシアと、対話のチャンネルを維持する必要があると思ったからだ」と語っている。つまりメルケル氏は、「自分はロシアの危険さを知っているので、ロシアとの意思の疎通をやめるのではなく、貿易を通じて対話を続ける必要があると思った」と弁明しているのだ。

回顧録執筆の動機は「難民危機」

 メルケル氏は回顧録の前文の中で、「私は首相だった時、本を執筆する気はなかった。だが私の気持ちを変えて、本を書かなくてはと思うようになったきっかけは、2015年のシリア難民をめぐる議論だった」と語っている。

 2015年にメルケル氏は、ハンガリーなどで立ち往生していた約100万人のシリア難民に対し、ドイツでの亡命申請を許可した。当時私はミュンヘン中央駅のプラットフォームで、列車で次々に到着するシリア難民たちを見た。駅前に集まった一部のミュンヘン市民は、シリア人の子どもに菓子や玩具を与えて、歓迎していた。

 通常EUに入域する難民は、「ダブリン協定」に基づき、最初に到着したEU加盟国で、亡命を申請しなくてはならない。つまりメルケル氏がドイツでの亡命申請を許したのは、超法規的措置だった。多くの難民はドイツに来ることを希望した。この国が、手厚い社会保障制度を持ち、ハンガリーなど他の国々よりも難民に良い待遇を与えていたからだ。

 CDUの姉妹政党・キリスト教社会同盟(CSU)の党首だったホルスト・ゼーホーファー氏は、当時メルケル氏に対し、「あなたの決定は、取り返しのつかないミスだ」と真っ向から批判を浴びせた。メルケル氏はある難民居住施設で、シリア人の求めに応じて、携帯電話で、難民と並んで「セルフィー」を撮影させた。この写真はインターネットを通じて世界中に拡散された。ドイツの保守勢力は、「メルケル氏は、ドイツが難民を歓迎するという誤った印象を中東やアフリカの市民に送っている。ドイツは難民を引き寄せる磁石になっている」と批判した。連邦難民局によると、2015年・2016年にドイツで亡命を申請した難民の数は約122万人という過去最高の水準に達した。難民の居住施設や食事の世話などを担当させられた地方自治体関係者たちは、「許容限度を超えている」と政府を批判した。ドイツでは今年も1月から11月までに約24万人が亡命を申請した。ドイツでは、時折テロ組織「イスラム国(IS)」などに感化された難民による、無差別殺傷事件が起きている。

 メルケル氏は回顧録の中で、難民受け入れは正しかったと主張している。同氏は科学者らしく、通常はポーカーフェースを保ち、感情の起伏を滅多に露わにしない。だが彼女が首相時代に唯一、感情を爆発させたのが、難民問題で批判された時だった。メルケル氏は回顧録の中で、2015年9月15日の記者会見で行った発言を引用している。この時メルケル氏は、「ドイツがシリア難民を受け入れた時、世界の多くの国々が『親切なジェスチャーだ』と称賛した。だが今になって、困っている人たちに対して我々が手を差し伸べたことについて(ドイツ国内で)批判され、謝罪しなくてはならないならば、ドイツは私の国ではない」と言ったのだ。この言葉には人権を重視するメルケル氏の姿勢が浮かび上がっている。

 メルツ氏はメルケル氏とは異なり、CDUの保守本流に属する政治家だ。彼が率いるCDUでは、今日「メルケル氏がEUの規定を破ってドイツで100万人を超えるシリア難民を受け入れたのは失敗だった」という意見が有力だ。

 その理由は、メルケル氏の難民受け入れが、2年後にドイツ政界に大きな地殻変動を生じさせたからだ。

 有権者の間では、メルケル氏の難民政策に対する不満が強まった。このため、2017年の連邦議会選挙では極右政党・ドイツのための選択肢(AfD)が大躍進し、初めて連邦議会入りした。AfDはSNSを利用して、メルケル政権の難民政策を強く批判した。アレンスバッハ人口動態研究所によると、現在のAfDへの全国での支持率は17%で、CDU・CSU(37%)に次いで第2位。AfDは今年9月のテューリンゲン州議会選挙で首位に立った。州議会選挙でAfDがトップの座を占めたのは初めてだ。2015年にメルケル氏が難民に示した「好意」は極右政党躍進の追い風となり、この国の政治地図を塗り替えた。

福島事故がメルケル氏に与えた衝撃

 我々日本人にとってこの回顧録の中で興味深いのは、脱原子力政策に関する箇所だ。メルケル政権は、2011年に東京電力福島第一原子力発電所で起きた炉心溶融事故をきっかけに脱原子力政策を加速し、2022年末までに全原子炉を廃止することを決めた(実際に廃止されたのは2023年4月15日)。福島事故をきっかけに原子力政策をこれほど大きく変えた国は、ドイツだけだ。

 この決定は、メルケル氏にとっても容易ではなかった。メルケル氏は、前年(2010年)に、CDUの保守派政治家や電力業界の要請に応じて、原子炉の稼働年数を延長したばかりだったからだ。同氏の記述には、それから1年も経たない内に、態度を180度変えたことについての「きまり悪さ」の感情がにじんでいる。

 メルケル氏は原子力エネルギーについての見方を変えた理由として、回顧録の中で「日本ほど技術水準が高く、厳しい安全基準を持つ国が事故を防げないのであれば、我々も原子力エネルギーに対してこれまで通りの態度を取ることはできない」と説明している。メルケル氏は、「この事故の直後は、それまで積極的な原子力推進派だった保守派の政治家の間や、CDU役員会でも、私の提案への反対意見はなかった」と語っている。

 今日、メルツ氏が率いるCDUでは、「メルケル氏の脱原子力政策は誤りだった」という意見が主流だ。同党は今年11月に公表したエネルギー政策に関する提言書の中で、「原子炉の再稼働が可能かどうか調査するべきだ。小型モジュール原子炉(SMR)など次世代の原子炉の研究開発を進めるべきだ」と主張している。

東ドイツでの「体験」とメルケル氏の「政治的信念」

 メルケル氏がこの回顧録に「自由」という題名を付けた理由はよく理解できる。同氏は社会主義時代の東ドイツと東西ドイツの統一に、約150ページつまり全体の約5分の1を割いている。彼女は現役時代、自分が東ドイツで育ったことを前面に出さなかった。今回メルケル氏は回顧録の中で、社会主義国での自由の抑圧の経験が、自分の政治家としての基本姿勢を形作ったと語っている。

 メルケル氏は、社会主義体制に抵抗した反体制運動家ではなく、体制に適応した一市民だった。しかし教条主義的な東ドイツでの教育については、不満感を持っていた。

 メルケル氏は1978年に、テューリンゲン州のイルメナウ工科大学で助手として就職することを考えた。だが審査過程で国家保安省(シュタージ)の職員から「学生について情報を提供する協力者(IM)になれ」と求められた。メルケル氏はこの要請を拒否したため、就職については希望がかなえられなかったが、後年の政治家としての経歴に傷をつけずに済んだ。もしも彼女がこの時にシュタージへの協力を受諾する宣誓書にサインしていたら、初の女性首相になる道は閉ざされていたはずだ。

 メルケル氏は回顧録で「東ドイツでの生活は、常に崖っぷちを歩いているようなものだった。いつ運命が劇的に変化して、奈落の底に落ちるかわからなかった」と述べている。メルケル氏が戦火を避けて西欧へ逃げてきたシリア難民に温情的な態度を示した背景には、東西間を隔てる壁が建設される前に、ドイツ西部へ逃げた市民、ベルリンの壁を越えて西側へ逃亡した市民の姿も重なっていたのかもしれない。

 メルケル氏が自由を重視する姿勢は、社会主義体制下で生きたからこそ、西ドイツで育った人間よりも心に深く刻み込まれた。「自由」という書名には、「政治家は自由を守るために戦わなくてはならない」というメルケル氏の信念が込められている。

 欧州現代史に関心がある人にとっては、必読の書だと思う。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
熊谷徹(くまがいとおる) 1959(昭和34)年東京都生まれ。ドイツ在住。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン特派員を経て1990年、フリーに。以来ドイツから欧州の政治、経済、安全保障問題を中心に取材を行う。『イスラエルがすごい マネーを呼ぶイノベーション大国』(新潮新書)、『ドイツ人はなぜ年290万円でも生活が「豊か」なのか』(青春出版社)など著書多数。近著に『欧州分裂クライシス ポピュリズム革命はどこへ向かうか 』(NHK出版新書)、『パンデミックが露わにした「国のかたち」 欧州コロナ150日間の攻防』 (NHK出版新書)、『ドイツ人はなぜ、毎日出社しなくても世界一成果を出せるのか 』(SB新書)がある。
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