
CDUは1月10日にハンブルクで開いた幹部会議で、ドイツの成長率を回復させるための経済改革プログラム「アゲンダ2030」を採択した。CDUのフリードリヒ・メルツ党首は、「我々は来月の連邦議会選挙で勝利し、政権樹立後ただちに改革プログラムの実行に着手する。3年間にわたる三党連立政権の誤った政策のために、現在ドイツは深刻な経済危機に直面している。我々は、ドイツを再び誇れる国に作り替える」と述べた。
アレンスバッハ人口動態研究所が12月に公表した政党支持率調査によると、CDUと姉妹政党キリスト教社会同盟(CSU)への支持率は36%で首位にあり、他党に大きく水を開けている。このためドイツの論壇では、来月の選挙でCDU・CSUがトップに立って連立政権を樹立し、メルツ党首が首相に就任するという見方が有力だ。
GDP成長率「年率2%」を公約
この選挙の最大の争点は、経済の建て直しと企業の競争力の強化だ。この国は、2022年のロシアのウクライナ侵攻後のインフレや国内消費の減少、人件費やエネルギー価格の高騰、労働力不足、交通インフラの老朽化、デジタル化の遅れなどにより、リーマンショック以来最悪の不況にあえいでいる。
国際通貨基金(IMF)の世界経済見通し(2024年10月公表)によると、ドイツの2023年の実質GDP(国内総生産)成長率はマイナス0.3%で、G7加盟国の中で最も低かった。ドイツの連邦統計局は1月15日、2024年の成長率を速報値でマイナス0.2%と発表した。IMFの2025年のドイツの予測成長率は0.8%で、イタリアと並びG7で最下位だ。ドイツでは失業者数、企業倒産件数がじりじりと上昇しており、市民や企業経営者の不安感が強まっている。
メルツ党首は、「この改革プログラムによって、我が国のGDP成長率を少なくとも年率2%に引き上げる」と約束した。
CDUはアゲンダ2030の中で、「ドイツは経済界なしには成り立たない」として、企業への負担を減らすことを最大の目標としている。具体的には抜本的な税制改革によって、企業収益に課される様々な税金の負担を現在の約30%から25%に減らす。残業手当にかかる税金を免除する他、年金生活者が再び就業する場合、給料については毎月2000ユーロ(32万円・1ユーロ=160円換算)まで無税とする。
さらに所得税の最高税率が適用される所得額を、現在の6万8480ユーロ(1096万円)から、8万ユーロ(1280万円)に引き上げる。
CDUは、「現在公的健康保険や年金保険などの社会保険の保険料率は、子どもがいる市民で41.9%、子どもがいない市民で42.5%だが、我々はこの水準を40%に減らす」としている。ドイツの企業は、社会保険料の半分を負担しなくてはならないので、高い保険料率は企業収益を減らす。
メルツ党首は、将来の公的年金の上昇率をショルツ政権下よりも低くするという方針を明らかにしている。具体的な抑制率は明らかにしていない。
また減税や社会保険料負担の削減のための財源の一部は、長期失業者らへの支援金を減らすことでまかなう。2024年には難民を含む長期失業者には「市民手当(Bürgergeld)」として毎月563ユーロ(9万80円)が国から支給されていた。CDUは市民手当を廃止し、ベーシックインカム(基本所得)を導入する。基本所得の額は公表されていない。失業者が健康で働ける状態にあるのに、労働局が斡旋した仕事を拒否したり、労働局とのアポイントメントを無視したりした場合には、基本所得の支給が停止される。条件を厳しくすることにより、就労への圧力を高める。
産業用電力価格の引き下げを約束
ドイツの製造業界は、産業用電力価格が米国や中国に比べて大幅に高いことから、政府に対して補助金によって上限を設定することを要求していた。CDUは、電力税や託送料金(送配電網の利用料)の引き下げによって、電力価格を少なくとも1キロワット時当たり5セント(8円)減らすと発表した。ただし電力価格をいくらにするのかは、明記していない。財源には、ドイツ政府が2021年から行ってきたカーボンプライシングからの税収(国内の暖房や車の燃料にかかる炭素税)を使う。CDUはエネルギー政策も転換する。同党は去年12月に発表した選挙プログラム(マニフェスト)の中で、廃止した原子炉の再稼働が可能かどうかを調査したり、小型モジュール原子炉(SMR)や核融合炉の研究を進めたりすることも約束している。
さらにCDUは、苦境にある自動車産業への支援策も打ち出した。具体的には欧州議会が決定した、2035年以降の内燃機関の新車販売の禁止措置を撤回することを求めるとともに、合成燃料(e燃料)の普及に力を入れる。
さらに欧州連合(EU)域内では、欧州議会と欧州理事会が2019年に採択した法律により、新規登録車両の走行距離1キロ当たりのCO2排出量の上限値が、2024年までの平均115グラムから、2025年には平均93.6グラムに引き下げられる。
欧州自動車工業会(ACEA)の試算によると、電気自動車(BEV)の売れ行き鈍化などにより、多くの自動車メーカーがこの目標を達成できず、合計150億ユーロ(2兆4000億円)の罰金の支払いを命じられる可能性がある。CDUは「この措置は今日の自動車産業の状況を無視している」として、罰金を科すことに反対し、フリート排出量の規制措置の緩和を求めた。
アキレス腱は財源確保
ドイツの論壇では、「アゲンダ2030のアキレス腱は財源だ」という指摘が目立つ。特に企業減税や社会保険料率の引き下げを、長期失業者や難民のための支出を減らすことだけでまかなえるのかどうかは、未知数だ。さらにロシアに対する抑止力を高めるための防衛支出の増額分や、送電線などエネルギー関連のインフラ整備のための資金をどこから捻出するのかという点が明記されていない。
特に議論の焦点となっているのが、連邦政府の国債発行に歯止めをかけている、債務ブレーキという憲法上の規定だ。2023年11月に連邦憲法裁判所がショルツ政権の過去の予算措置をめぐり違憲判決を下して以来、政府は深刻な財政難に苦しんでいる。当時のショルツ政権のコロナ・パンデミック特別予算の内、「気候保護・エネルギー転換基金(KTF)」に流用した600億ユーロ(9兆6000億円)が無効と認定され、政府はEV購入補助金の廃止など、歳出削減を迫られた。
ドイツ連邦政府は、債務ブレーキによって、GDPの0.35%を超える財政赤字を禁じられている。政府が借り入れを増やすことで、将来の利払いの増加を防ぐためだ。
今日ドイツの経済学者らの間では、債務ブレーキに対する批判が強まっている。政府がEV普及、産業の脱炭素化、半導体産業の誘致、デジタル化の加速や鉄道などのインフラ整備などのために財政出動を行おうと思っても、債務ブレーキが足枷となっているからだ。経済学者からは「ロシア・ウクライナ戦争や、気候変動など前例のない事態が起きている今、債務ブレーキは廃止するべきだ」という意見が出ている。
このため社会民主党(SPD)と緑の党は選挙プログラムの中で、債務ブレーキに修正を加えて、ドイツの競争力や成長率の改善のために必要な投資については、例外的に国債を発行できるようにすることを提案している。
これに対してCDU・CSUは、「ドイツが抱える様々な問題に対処するために、政府の歳出や借金を増やすことは、正しい解決策ではない」として、債務ブレーキの変更に反対している。しかし債務ブレーキを現在の状態に維持したままで、企業負担を大きく減らしたり、イノベーションに必要な投資を確保したりすることができるのかどうかは、不透明である。
模範はシュレーダー元首相の「アゲンダ2010」
CDUがこの改革プログラムに「アゲンダ2030」という名前を付けた理由は、1998年から2005年まで首相だったゲアハルト・シュレーダー氏(SPD)が2003年に断行した改革プログラム「アゲンダ2010」を模範としているからだ。
当時ドイツでは社会保険費用負担の増加などのために企業の国際競争力が低下し、失業者数が400万人を超えていた。このためシュレーダー氏は、社会保障制度・労働市場に大ナタをふるった。具体的には、長期失業者のための支援金を生活保護と同じ水準に引き下げたり、健康保険の自己負担を増やしたりした。派遣労働者などの非正規雇用を増やすための施策も導入した。さらに、経営者が就業者のための社会保険費用負担を免除される低賃金部門(ミニ・ジョブ)を創設した。ミニ・ジョブで働く市民は、主にオフィスの清掃や飲食店で勤務した。その結果、働いているのに家賃が払えないワーキング・プアーの問題が深刻化した。
この改革は企業の収益力を高めたものの、市民にとって痛みを伴う措置を含んでいたため、市民からは強く批判された。しかし企業経営者や経済学者からは「労働費用の伸び率を減らして、企業の競争力を高める」として絶賛された。当時野党だったCDU・CSUもこの政策を支持し、アゲンダ2010関連の法案に賛成した。
この結果、失業者数は2005年の486万人から2019年には227万人に約53%減った(ドイツ連邦統計庁調べ)。
アゲンダ2010により、企業は労働費用の伸び率を抑え、国際競争力を回復することができた。したがって就業者数を増やすことが可能になった。アゲンダ2010は、首相が提案した抜本的な改革が、具体的な成果を生んだ、ドイツでは極めて珍しい政策である。
だがシュレーダー氏の改革プログラムは、旧東ドイツを中心に市民や労働組合の猛烈な反対にあった。このためSPDは2005年の連邦議会選挙で敗北した。シュレーダー氏は首相を辞任した他、議員生活にも終止符を打ち、ロシアのウラージミル・プーチン大統領に請われて、海底パイプラインを運営するロシア企業の子会社の幹部に天下りした。
シュレーダー氏は、経済界と密接なパイプを持つ、SPDでは異色の政治家だった。CDUのメルツ党首は以前から、「シュレーダー氏とは意見が合う」と語っていた。
経済界は、アゲンダ2030を歓迎している。ただしメルツ氏が首相の座に就いても、財政難という桎梏は変わらない。さらに、企業を優遇し、市民に大きな負担を強いる政策は、ドイツのための選択肢(AfD)やザーラ・ヴァーゲンクネヒト同盟(BSW)といった過激政党への支持率をさらに引き上げる危険がある。シュレーダー氏が首相だった時代には、極右・極左政党への支持率は現在ほど高くなかった。メルツ党首のアゲンダ2030がシュレーダー氏のアゲンダ2010のように、具体的な成果を挙げられるかどうかは、未知数である。
【参考資料】
熊谷徹『ドイツ中興の祖ゲアハルト・シュレーダー』(日経BP)
