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創価学会と共産党の「休戦」の背景
1974年12月28日、創価学会と日本共産党とのあいだで「創価学会と日本共産党との合意についての協定」が調印された(調印書の公表は翌1975年7月)。長らく熾烈な対立を続けてきた創価学会と共産党の(向こう10年を期限とする)この「休戦条約」は、社会に大きな衝撃を与えた。
創価学会と共産党、どちらも池田大作と宮本顕治という絶対的指導者を擁するトップダウン型の組織であり、この調印が二人の意向抜きに可能なはずはなかった。両者を仲立ちしたのが作家・松本清張である。1968年に『文藝春秋』誌上で、池田、宮本両氏と個別に対談したことを契機に、それぞれと親交を深めた清張が仲介役を買って出たのである。
もっとも、純粋な意気投合というわけではない。各種の思惑が複雑に交差していた。共産党側にとってこれは単に都市部の低中所得層という支持基盤のバッティングに由来する軋轢の緩和というだけにとどまらない意味をもっていた。そうした戦術的次元のみならず、「70年代のおそくない時期に民主連合政府の樹立」という第12回党大会の決定(1973年)――一種の野党共闘構想であり民主連合政府綱領という形で提起された――という大戦略の一環でもあったはずである。
他方、創価学会の思惑はさらに複雑であった。出版妨害事件等のスキャンダルをへて学会と党のあいだの「政教分離」を進めざるを得なくなった党と学会とのあいだにはこの時期、すきま風が吹いていた。池田大作にとってこの協定は、「中道政治」路線――つまり自民党はもちろん社会党・共産党からも距離を取る――の党執行部から主導権を奪いかえすチャンスと見えたようだ。仲介役の清張が「“文化大革命”に似る」とメモに記しているのはこのあたりの消息をうまく捉えている。池田が毛沢東がそうしたように「党中央部の実権派」に打撃を与えようとする狙いが背後にあるというのである(「創共協定メモ」『文藝春秋』1980年1月号、『作家の手帖』文藝春秋、1981年、336頁から)。その意味で、協定が共産党と創価学会のあいだで結ばれ、公明党とのあいだではなかったことが、いわば話のミソであった。
だが、事態は思惑通りには進まなかった。当初、完全に排除されはしごを外されたかたちになった公明党執行部の巻き返しが功を奏し、協定はほどなく「死文化」した。同協定は急速に忘れ去られ、現在から見れば、それは実に1993年まで続いた自民党一党優位支配体制たる「55年体制」中の一挿話以上の意味を持たないようにも思える。だが、当時はあたかもロッキード事件後の「政局の季節」であり、自民党の党内対立は極点に達しつつあった。地方政治に目を向ければ、非自民の野党共闘が支える「革新自治体」という現実がそこにあった。政治記者・渡邉恒雄は当時、自民党の分裂を予想し「保革連立政権」時代の到来を予想していたほどである(渡邉恒雄『保革連立政権論』ダイヤモンド社、1974年)。グループ1984年による『日本共産党「民主連合政府綱領」批判』(高木書房、1975年)がこの時期に出版されたこと、またそこでの彼らの狼狽と見まがうばかりの語調の激しさも、以上の文脈抜きには理解が難しいだろう。
国民的作家になった清張と司馬
本連載の視点から興味深いのは、こうした動きのキー・パーソンとして作家の松本清張が登場していることである。1909年生まれの清張は1974年当時、65歳。九州小倉に育ち、尋常高等小学校を15歳で卒業、アルバイトを転々としつつ19歳から印刷工、朝日新聞の印刷図案の請負、軍隊経験を経て1951年に「西郷札」で作家デビュー、1953年『或る「小倉日記」伝』で芥川賞受賞。58年の『点と線』以来は、社会派推理小説ブームを牽引した。1961年には長者番付作家部門の一位を獲得、その後もほぼ途切れることなく小説から社会評論まで旺盛に執筆活動を続け、1974年当時にあってすでに国民的作家としての地位を揺るぎないものにしつつあった。
特徴的なのは、主要作品のなかで推理小説と並んで歴史小説が大きな比重を占めていることである。しかもその手法は、歴史上の実際の「史料」を読み解くことで事件や史実を再構成しようとする、その意味で歴史学者の行う作業と共通するものであった。古代史(『古代史疑』)から直近の現代史(『日本の黒い霧』)まで、通史こそないものの、清張は様々な日本の歴史を描き、そこで描かれた歴史像に基づき、社会的、政治的な発言を行った。清張における文学と政治をつなぐのは彼が描く歴史なのである。
「日本史を描く」作家として清張と対比してみたいのは司馬遼太郎である。1923年大阪生まれの司馬は、清張より14歳も若い。1942年に大阪外国語学校蒙古語部に入学、翌1943年には学徒出陣、戦後は新聞記者として産経新聞に勤務、1956年に「ペルシャの幻術師」で作家デビューした。当初は伝奇小説家として注目されたが、その後は歴史小説に軸足を移し、1962年から1966年にかけて連載した『竜馬がゆく』、1968年から1972年にかけて連載した『坂の上の雲』が代表作となり、やはり70年代中期頃から国民的作家としての名声を確立するようになる。

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