ガザ地区への人道支援の封鎖をめぐりイスラエルに対する国際的な圧力がかつてないほど高まるなか、イスラエル国内では社会的な分断に加え、国民と国家の間の信頼関係にも揺らぎが生じている。
2025年1月、イスラエルとハマスは23年11月以来となる2度目の停戦に入り、33人の人質が解放された。解放された人質は1度目の105人と合わせて138人となる。人質の家族は喜びをあらわにしつつ、残りの人質についても解放を優先させるよう政府に求める姿勢を貫く。しかし、ベンヤミン・ネタニヤフ首相が率いる政権はまだガザ地区に50人の人質が残っているにもかかわらず、停戦合意を破り、攻撃を再開した。これに対し、イスラエル軍においてはエリートが集まる空軍パイロットや、地上戦闘部隊の精鋭集団ゴラニ部隊の兵士、さらにはイスラエル軍のエリート中のエリートである「タルピオット・プログラム」の修了生までもが戦闘再開に反対し、人質解放を求める書簡を出した。
「人質解放」はイスラエルにおいて特別な意味を持つ。ネタニヤフ首相はあくまで2つの目標を同時に達成すると一貫して主張を続けるが、半数以上の国民の目には政治的な生き残りのために戦争を長引かせているように映る。国民の命よりも政治を優先させているのではないかという疑念が、国民国家としてイスラエルが築き上げてきた国家と国民の間の「社会契約」を揺るがしている。
「人質解放ほど偉大な戒律はない」
イスラエルは「宗教国家」ではない。安息日には公共交通機関が運行されないなど宗教的な側面はあるが、2021年の国勢調査によれば、ユダヤ系国民のうち45%が自らをユダヤ教徒としての戒律に従わない「世俗派」か「非宗教的」だと答えている。
だが、社会慣習としてのユダヤ教の教えや歴史は日々の生活にも浸透する。男性であれば生後間もないころに割礼をし、男女とも13歳頃になればバル・ミツヴァやバト・ミツヴァといった祝祭を行い、ユダヤ人として一人前になる。毎年秋ごろにはユダヤ新年「ロシュ・ハシャナ」を迎え、春ごろに訪れる「ペサハ(過越の祭り)」では、家族で集まって、ユダヤ人が奴隷となっていたエジプトから脱出した時代に思いを馳せながら、夕食の儀式を行う。夕食では、エジプト脱出の際にパンを発酵させる時間がなかった時のことを象徴する「マッツァ」と呼ばれる無発酵のパン(個人的な感想としては無味でボソボソのクラッカー)や、奴隷時代の苦しみを想起させるため苦味のあるパセリを食べたりし、「歴史の記憶」を辿りながら、かつての苦しみを後世に伝える。
こうした「歴史の記憶」が極めて身近に存在するイスラエル人にとって「人質解放」は単なる「解放」ではない。イスラエル政府は人質が解放されるたびにプレスリリースを行うが、「Redemption」と表現する。Redemptionは、聖書において奴隷状態に置かれていたユダヤ人がエジプトから「解放」された時と同じ文言だ。さらに、ユダヤ教の戒律は「ミツヴァ(Mitzvah)」と呼ばれるが、そのミツヴァの中でも「捕虜の解放(Redemption of Captives)」は「ピディオン・シュブイーム」と呼ばれ、最も尊重すべき戒律であると考えられている。
ユダヤ教育機関シュタインザルツセンターを運営し、指導者ラビでもあるメニ・エベン・イスラエル氏は、歴史的に戦争などで人質を取ることが当たり前になる中で、ユダヤ教の共同体が人質の解放に非常に重きを置いてきたと説明し、「人質を解放するという慣習が世代を超えて続くうちに大きなものとなり、ラビたちが『この戒律よりも重要なものはない。なぜなら人命を救っているのだから』と明言するようになったのです。こうして、命を救うことがユダヤ教において最も重んじられる価値になったのです」と説明する。
ユダヤ教の歴史の中でも特に著名なラビの1人であるマイモニデス(1138–1204)も、「人質を取り戻すことは、貧しい人々を支援したり衣服を与えたりすることよりも優先される。人質解放ほど偉大なミツヴァはない。なぜなら、捕らわれた者は飢えや渇き、衣服の欠如に苦しみ、さらに命の危険にもさらされているからである」と説いた。
「人質解放は最高位のミツヴァだ」という教えは、後に解説する2011年のギラード・シャリート氏の解放のケースで改めて社会に広く共有されるようになった。
1人の兵士と引き換えに1000人のパレスチナ人を釈放
この宗教的側面に派生する慣習・解釈に加え、イスラエル国家の存続のため、国家と国民との間に存在するようになったのが「社会契約」という概念だ。
イスラエルは、ユダヤ人の迫害やホロコーストの結果、ユダヤ人にとっての安住の地となるために建国された。敵国に囲まれるように建国された小さな国家は、安全保障を最大の柱とし、国民皆兵制度の導入によって、国民全員が命をかけて国を守るという使命を負った。その結果、一市民として集団や国家のために貢献すればするだけ、国家から権利や尊厳、保護を受けることができるという「双方向な契約」が成立したのだ。
イスラエル軍の社会学的な側面に詳しいペレス・アカデミック・センターのゼエブ・レーラー博士は、「イスラエルの社会契約は、シオニズムから派生する基本的な『契約』で、集団のために自分たちを犠牲にしなければならないという長年の考え方だ。市民が犠牲を払う代わりに、国家は市民に対してあらゆる基礎的な保護を与え、この契約が成立する。西側諸国における社会契約とも異なり、シオニスト的要素が入っているため、特に私のような世代では、国家によって与えられる権利に対する意識が非常に強い」と説明する。
イスラエル人がハマスなどの敵対する勢力の人質になるのは今回が初めてではなく、イスラエルは都度、人質解放を進めてきた。2000年には、ドラッグディーラーだったイスラエル人がドバイ滞在中にヒズボラに拉致され人質となった。アリエル・シャロン首相は2004年、400人以上のパレスチナ人とレバノン人の釈放と引き換えに、人質のイスラエル人とイスラエル兵3人の遺体を交換することでヒズボラと合意した。イスラエル史上最もタカ派とも呼ばれたシャロンだが、ヒズボラとの交渉に応じたことについて、「決定は簡単なものではなかった。政府がこのような価値観や道徳的配慮に対処しなければならないことは、めったにあることではない。われわれは正しい、道徳的で責任ある決断をしたと信じている」と説明した。
イスラエルの人質解放への姿勢を象徴し、また一方で論議の対象ともなっているのが2011年のギラード・シャリート氏の解放だ。イスラエル軍の兵士だったシャリート氏は2006年、ハマスに拉致され人質となった。イスラエル政府はエジプトなどの仲介を介してハマスと交渉し、イスラエルの刑務所にいるパレスチナ人1027人と引き換えに、シャリート解放で合意した。当時この決断を下したのはネタニヤフ首相だ。
イスラエル軍には人質が発生した場合の解放交渉にあたるスペシャルチームが設けられている。前出のゼエブ・レーラー氏は中佐として12年間、交渉チームの一員を務めた経験を持つ。レーラー氏は、人質の解放を優先しなければならないイスラエル軍の考え方について次のように説明する。
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