アンはおどりながら家の中へはいってきて、叫んだ。「ああ、マリラ、世界に十月という月のあることが、あたし、うれしくてたまらないわ。もし九月から、ぽんと十一月にとんでしまうのだったら、どんなにつまらないでしょうね。まあ、この楓の枝を見てちょうだい。スリルを感じないこと?――つづけざまに、ぞくぞく、ぞくぞくっとしないこと?」 赤毛のアンの息づかいが聞こえてくるような楽しい台詞だが、それを翻訳していた村岡花子は、灯火管制の下、スタンドに黒い布をかぶせた薄暗い部屋で、憲兵に「敵性語」を訳しているところを見つかれば逮捕される危険を冒しながら、出版のあてもない翻訳を続けていた。原書と訳稿を風呂敷に包んで防空壕に逃げ込む生活の中で、いつの日か、この物語を日本の読者に届けられると信じながら。

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