「心の平穏」というタイトルが“逆説的”な快作
本書を読みながら、内臓を鷲掴みにして引き出され見せつけられるような感を覚えた。普段は皮膚の下にあるグロテスクな自分の中身に目をそむけたくとも、なぜか見ずにはいられない。
ネットでは人々の自己承認欲求があふれているが、本書のそれは息苦しいほどだ。DV夫と子供との生活を続けるために、不倫をすることで精神のバランスを保っている編集者の真奈美は、翻訳者の由依の不倫を責めたてる。自らも不倫している矛盾を抱えているが、不倫に対する良心の有無が2人の違いだと真奈美は自負していた。
由依の妹の枝里は、姉と見た目も性格も全く相容れない。パパ活で目先の金銭的不安を埋め合わせ、就職するより、将来の保障をしてくれる結婚相手を探す日々を過ごす。パティシエの英美は不倫を繰り返す夫と反抗的な息子、気ままな実母に挟まれ、怒りで自爆寸前だった。
一方、男たちは女以上に複雑だ。由依の夫の桂(けい)は、非モテ系読者向けの小説を書いている非モテ男。妻を愛しながら、自分が彼女を満たすことができないジレンマを抱えている。
由依の不倫相手・シェフの瑛人は彼女に自分の隠したい過去をさらけ出さずにいられない。そして真奈美の不倫相手である編集者の荒木は、誰も知らない顔を持っていた。
異色なのは由依というキャラクターであろう。モデルとしてパリで3年弱過ごした後、夢をあきらめて帰国し、桂と結婚。その姿は周囲の人からの視線によって浮かび上がる。物の扱いが乱暴で、出来の良いロボットが喋り、動いているよう……。好きなものを好きなだけ食べ、人のことをまるで気にしない……コミュニケーション不全気味な由依は言う。
「誰も愛してなくても、誰からも愛されなくても、普通に生きていける人間になった方がいい」
過剰な承認欲求が闊歩する中、由依の平坦な感情はある意味異質であり、理想だ。認められ、満たされることを望む思いはわたしの中にも確実にある。由依のように自らの承認欲求を認めつつ、それなしで生きられるなら、どんなにいいだろうか。
幸福を望んで踏み入れたのは苦しみの入り口。やがて八方ふさがりとなり、1人きりでは幸福にたどり着けないのだと知る。人とのかかわりを求めた結果、セックスで互いの深部に触れることで、一瞬満たされて安堵する。たとえそれが錯覚だとしても。
アタラクシア=心の平穏というタイトルが逆説的な快作である。
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