ドイツでは、英国や米国、イスラエルに比べてコロナワクチンの市民に対する投与が大幅に遅れている。高い医療水準を誇る国としては、予想外の事態だ。その背景には加盟国を代表してワクチンを注文した欧州連合(EU)が犯したミスや、政府の広報不足があった。
オックスフォード大学のデータバンク「Our World in Data」によると、3月17日の時点で少なくとも1回ワクチンの投与を受けた市民の数は、米国で7367万人、英国で2527万人だったのに対し、ドイツは684万人と大きく水を開けられている。
イスラエルでは市民の59.5%、英国では37.2%、米国では22%が少なくとも1回予防接種を受けたのに対し、ドイツでは8.2%に留まっている。
ドイツは、米英、EUの監督官庁によって最初に認可され、ファイザー社が世界中で販売しているコロナワクチンBNT162b2を開発したバイオンテック社がある国だ。ワクチン先駆国とも言うべきドイツで、肝心の市民への投与が遅れているのは、意外である。
遅れの一因は、ドイツ政府がEUに調達を任せたことだった。メルケル政権は、「EU加盟国の間でワクチンの争奪戦が起きないように、EUが代表して製薬会社からワクチンを注文して、各国に配布するべきだ」と主張した。この意見には、一理ある。EUが統括しないと、ドイツのような大国が経済力に物を言わせてワクチンを優先的に買ってしまい、小国が不利になる可能性があるからだ。
空回りしたEUのワクチン注文戦略
EUはまず去年8月14日に英国・スウェーデンのアストラゼネカ社のワクチンを4億回分注文。次表が示すように、12月末までに6社に対し合計19億6500万回分を注文した。EUは調達先を少数の会社に絞ると、その会社が開発に失敗した場合に、ワクチン供給が遅れるリスクがあるために、6社に分散して注文したのだ。
このEUの注文戦略が、裏目に出た。欧州医薬品局(EMA)が最初に認可したのは、バイオンテック・ファイザー社の製品だった。認可日は12月21日。当時欧州ではコロナ・パンデミック第2波のために、毎日数千人の死者が出ていた。このためEU各国は12月27日に高齢者と医療従事者らを中心に予防接種を開始した。メディアは「新型コロナウイルスとの戦いに、光明が射した」と伝えた。
だがバイオンテック・ファイザー社は、欧州での生産の遅れのため、当初約束した量のワクチンを予定通り供給することができなかった。今年1月にドイツでは、ワクチンが配布されなかったために、医師や看護師への予防接種を延期する病院が続出した。鳴り物入りで始まった予防接種キャンペーンは、スムーズに進まなかった。
EUは去年の夏ワクチンの注文交渉を行っていた頃、バイオンテック・ファイザー社の製品について懐疑的だった。同社はEUに「5億回分提供できる」と伝えたが、EUは去年11月11日に3億回分しか注文しなかった。これはアストラゼネカ社への注文数よりも25%少ない。
その背景には、バイオンテック・ファイザー社のワクチン1回分あたりの価格が約12ユーロ(約1550円)と、アストラゼネカ社の製品の値段(1.78ユーロ)の約7倍だったことも影響している。それどころか、バイオンテック社のウール・シャーヒンCEO(最高経営責任者)は、EUとの交渉の初期で1回分あたり54ユーロという価格を提示したことを認めている。去年の時点でアストラゼネカ社の製品の最初の注文数が、バイオンテック・ファイザー社の製品の注文数を上回った裏には、この価格差もあるだろう。
EMAがバイオンテック・ファイザー社の製品を認可した時、アストラゼネカ社の製品は、まだ認可されていなかった。バイオンテック・ファイザー社の製品への需要が急激に増えたために、EUは急遽1月8日に同社の製品を3億回分追加注文した。EUが去年夏に同社の製品を多めに注文しておけば、製薬会社は生産体制を大幅に拡充し、今年1月の混乱は避けられたかもしれない。
バイエルン州政府のマルクス・ゼーダー首相は、今年1月にドイツのZDFテレビとのインタビューの中で、EUがミスを犯したと断言している。同氏は、「EUが去年注文したワクチンの数は、明らかに少なすぎた。さらに、早期承認の見通しが低いメーカーにも注文した。EUが今年になって、バイオンテック社・ファイザー社のワクチンを追加注文したことは、ミスがあったことをはっきり示している」と語っている。またゼーダー首相は、「結局は米国や英国の監督官庁と同じ結論に達するのに、なぜEMAでは米英よりも認可に長い時間がかかるのか」と述べ、欧州の官僚機構の機動性の低さに対しても不満を表明した。
EUのフランス・ティンマーマンス副委員長も3月14日にドイツの日刊紙に対し「EUと加盟国政府は、ワクチンの調達と配布において失敗を犯した」と述べ、パンデミック終息後になぜミスが起きたかについて詳しく報告するという方針を明らかにした。
ワクチン不足の一方で特定の製品が余る事態
ドイツのワクチン政策の混乱に輪をかけているのが、アストラゼネカ社の製品を忌避する市民が多いことだ。今年3月2日にドイツの連邦健康省が発表したところによると、同国の16の州政府にアストラゼネカ社のワクチン約320万回分が配布されたが、そのうち実際に医療従事者や市民に投与されたのは、約51万4000回分にすぎなかった。つまりワクチン不足が伝えられる一方で、アストラゼネカ社のワクチン約269万回分が、使われないまま予防接種センターの冷蔵庫で眠っていたのだ。
この奇妙な事態が起きた理由は、いくつかある。まず当初EUとドイツ政府のこのワクチンに対する判断に微妙な温度差があったことだ。今年1月29日にEMAがアストラゼネカ社の製品を認可した時、EMAは「18歳以上の全ての市民に使用できる」とした。これに対しドイツ政府の感染症研究機関ロベルト・コッホ研究所(RKI)の常設予防接種委員会(STIKO)は、当初異なる見解を打ち出した。
STIKOは、「アストラゼネカ社がEMAの認可を受けるために提出したワクチンの治験データでは、65歳以上の市民に関するデータが十分ではなかった。このため同社のワクチンは、18歳から64歳までの市民に限るべきだ」という見解を公表した。
ただしSTIKOは3月4日になって、「その後提供されたデータを分析した結果、アストラゼネカ社の製品は65歳以上の市民にも投与できる」と方向転換した。だが初めの内STIKOが「データが不十分だ」と判断し、EUとドイツ政府の見解が食い違ったことは、市民の間に不信感を生んだ。
独政府は「アストラゼネカ社の製品の有効性は高い」と主張
もう一つの理由は、他社の製品との有効性の違いである。ドイツ政府が今年2月19日に市民向けに公表した予防接種に関する広報資料には、「バイオンテック・ファイザー社の製品の有効性は、最高95%」と記されている。これは、予防接種を受けた市民が、新型コロナウイルス感染症を発症する可能性は、予防接種を受けていない市民に比べて最高95%減るという意味だ。米国モデルナ社のワクチンの有効性は最高94%。これに対しアストラゼネカ社の製品の有効性は最高70%と記述されている。ワクチンについての知識が少ない市民がこの数字だけを見ると、アストラゼネカ社の製品の有効性が低いかのような印象を受ける。
だがワクチン専門家は、「それは全くの誤解であり、アストラゼネカ社の製品も、感染や重症化を防ぐためには有効だ」と説明する。STIKOのトーマス・メルテンス委員長は2月22日のドイツの日刊紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)とのインタビューで、「70%という数字は、軽い症状も含めて新型コロナウイルス感染症を発症しない可能性を示している。したがって、アストラゼネカ社の製品は、コロナウイルスに感染して重症化する危険を大幅に減らす上では、有効だ。毎年投与される季節性のインフルエンザワクチンでも、有効性が70%ならば、何千人もの命を救うことができる」と語っている。
ドイツ政府は「アストラゼネカ社の製品は他社に比べて劣っている」という誤った印象を市民に与えないように、広報の仕方に配慮するべきだった。
強い副反応に関する報道も拍車
さらに、アストラゼネカ社の製品の副反応に関するドイツでの報道も、市民の不信感を高めた。今年2月19日にブラウンシュヴァイク市のヘルツォーギン・エリザベート病院のカール・ディーター・ヘラー医長は日刊紙とのインタビューの中で「2月11日に88人の医師や看護師にアストラゼネカ社のワクチンを投与したところ、37人が41度を超える発熱、関節や筋肉の痛み、下痢などの症状を示し、翌日病院を休まなくてはならなかった。我々はワクチンを投与される人のうち、副反応を示すのは最高15%と予想していたので、42%が仕事を休むほどの副反応を示したのは、驚きだった。ただし副反応は2月13日には収まり、今のところ後遺症が残った人はいない。今後は、一つの医局に一度に予防接種を行わないようにして、多くの職員が休むのを防ぐようにする」と語っている。
ちなみにヘラー医長は「強い副反応は体内の免疫システムが確実に反応している証拠であり、ワクチンの有効性を示す。副反応を恐れて予防接種を受けないことは、最悪の選択だ」と述べ、予防接種を受けるよう勧めている。
だが3月11日には、気になるニュースが流れた。デンマークの健康省は「アストラゼネカ社のワクチンを投与した後、脳血栓による重篤な症例が見つかったため、2週間にわたり投与を見合わせる」と発表した。同省は「ワクチンが直接の原因であるかどうかは不明」としており、EMAに詳しい調査を依頼している。ドイツ政府も3月15日に、アストラゼネカ社製ワクチンの接種の一時停止を決定。ドイツでは、同社のワクチンを投与された20~63歳の男女13人が脳血栓を発症し、その内3人が死亡した。フランス、ノルウェーなど合わせて13ヶ国が、アストラゼネカ社の製品の投与を一時完全に停止した。
EMAは3月18日に「アストラゼネカ社製のワクチンは安全であり、有効である」という調査結果を発表した。EMAは使用停止などは勧告せず、ワクチンの注意書きに、「稀に脳血栓を起こすことがある」という警告を加えるよう指摘するに留めた。
しかし一時13ヶ国が、このワクチンの使用を見合わせたという事実は消えない。EMAの調査結果を受けて、今後各国で同社のワクチンの投与が再開されても、市民の不安は残るので、このワクチンを忌避する人は後を絶たないだろう。
もう一つ注意するべき点は、欧州でコロナワクチンの投与が始まってから、まだ半年も経っていないということだ。このためワクチンに長期的な副作用があるかどうかは、全く解明されていない。しかし欧州のウイルス学者たちの間では、「ドイツでは今でも毎日200~300人が新型コロナウイルスのために死亡している。副作用による残余のリスクを考慮しても、万一感染して重症化した場合のリスクの大きさを考えると、予防接種には大きな意味がある」という見解が有力だ。
変異株に対する有効性は?
もう一つ欧州で市民が大きな関心を抱いているのが、変異株にワクチンが有効かどうかという点だ。欧州では英国で最初に見つかったB.1.1.7が急激に広がっている。英国には、新規感染者の100%近くがB.1.1.7に感染している地域もある。ボリス・ジョンソン首相は今年1月22日に「B.1.1.7は通常の新型コロナウイルスよりも感染力が最高70%高いだけではなく、致死率も高いことを示すデータがある」と語っている。ドイツでもB.1.1.7が新規感染者に占める比率は上昇しつつあり、RKIは「パンデミックの第3波が始まった」という見解を打ち出している。
RKIは2月19日に「現在までに認可されているワクチンは、いずれも抗体などによって新型コロナウイルスのスパイク蛋白質に対する防御機構を作り出す(スパイク蛋白質は、新型コロナウイルスが人間の細胞に入り込むための突入口を作る)。B.1.1.7の変異は、この防御機構に大きな影響は与えない。このためワクチンはB.1.1.7に対しても有効と考えられる。万一ワクチンの有効性が変異株によって大幅に減ることがわかった場合、メーカーは数週間でワクチンの成分を変更することができる」という見解を打ち出している。
ただしRKIは、南アフリカで最初に見つかった変異株B.1.351とブラジルの変異株P.1については、「ワクチンの有効性をB.1.1.7よりも大幅に減らす可能性がある」と警告している。南ア変異株とブラジル変異株は、まだ英国変異株ほど欧州で拡大していない。RKIは、「南アで発表されたある研究報告によると、アストラゼネカ社のワクチンがB.1.351による発症を防ぐ有効性は10%だった」と指摘している。このため南ア政府は今年2月に、医療従事者に対するアストラゼネカ社のワクチンの予防接種を中止している。
ドイツ人の8割は予防接種を希望
RKIが2月下旬に公表したアンケート調査結果によると、回答者の80%が「絶対にコロナワクチンの予防接種を受けたい(66.8%)」もしくは「どちらかといえば予防接種を希望する(13.2%)」と答えた。これに対し20%が「絶対に受けない」、「どちらかと言えば受けたくない」または「まだ決めていない」と回答している。
アンゲラ・メルケル首相は、「メーカーの生産が需要に追い付かないので、ワクチン投与は第1四半期にはまだ困難を伴うが、4月以降はスムーズに進むだろう」という見通しを明らかにしている。来月からはホームドクター(かかりつけの医師)や、企業での予防接種も始まる見込みだ。
予防接種の進捗度と経済成長率に相関関係
米国の急速な予防接種比率の上昇と、昨今の景気見通しの回復を見ると、コロナ不況の克服のためにも、ワクチン投与の加速が重要な心理的な効果を持っていることがうかがわれる。
今年の予測経済成長率は、パンデミック抑え込みや予防接種の進捗度に比例しているように見える。経済協力開発機構(OECD)によると中国の今年の経済成長率は7.8%、米国では6.5%と予想されている。これに対し、予防接種が遅れているドイツの成長率は3%。市民への投与がまだ始まっていない日本の成長率は、わずか2.7%と予想されている。ドイツ政府の経済諮問委員会は、3月17日に「パンデミック第3波は、景気回復に対する最大の脅威だ。我が国の経済回復のスピードを高めるためには、予防接種のテンポを大幅に早める必要がある」という声明を発表している。
ドイツ政府が景気回復を加速するためにも、今後市民に対する広報活動をさらに強化して、滑り出しが悪い予防接種キャンペーンのスピードを高めようとすることは、間違いない。