私たちは本当に「真偽を見分ける」ことができるのか――長期化するコロナ禍でのうわさとのつきあい方

執筆者:松田美佐 2021年4月17日
タグ: 新型コロナ
エリア: アジア
まだまだ続きそうなウィズコロナの世界で、私たちは情報とどうつきあうべきなのか。(C)molotoka / Shutterstock
 
新型コロナウイルスの感染が拡大し始めてから1年が過ぎた。いつになれば、もとの日常生活に戻ることができるのか、それとも「新しい生活様式」がしばらく続くのか、見通しはつかない。そんな中、さまざまなうわさやデマ、偽情報が口頭やネットで、さらにはマスメディアでも広がっている。このような情報とどのようにつきあえばよいのか。うわさ論から考えることにしよう。

 

「真偽を見分ける」ことの不可能性

 さまざまな情報があふれる今日の社会では、情報を鵜呑みにせず、「事実」かどうか見分けることが重要だと言われている。メディアリテラシー、ファクトチェックなどという言葉も身近なものとなった。

 確かに、手に入れた情報の真偽をチェックすることは重要であり、実行すべきである。ネット上で見かけた情報は鵜呑みにすべきではない。ただし、「真偽を見分ける」という考え方には、いくつか問題がある。

 まず、すべての情報をチェックする時間はない。私たちは日常生活のなかで、マスメディアだけでなく、ネットからも、そして知り合いからも直接、さまざまな情報を入手する。それを一つ一つチェックするのは現実的ではない。なので、通常チェックの対象とするのは、「これ本当?」と自分が疑問を感じたものや自分にとって重要度の高いものだ。言い換えれば、自分にとってもっともらしいものや重要でないものについては、わざわざチェックすることはない。しかし、チェック対象とならなかった情報、言い換えるならば、自分にとってもっともらしく感じられる情報に、ウソがないとは言えないはず。むしろ、「もっともらしいウソ」だからこそ、信じて、友人に伝えたり、SNSに書き込んだりする。

 加えて、「事実」かどうかを簡単に判断できないことは世の中には数多い。確かに、複数の情報源や根拠をチェックすることが可能なものもある。一方で、立場によってとらえ方が異なるものもあれば、うわさの典型例なのだが、「マスメディアでは伝えられない事実」「関係者から聞いた内部情報」として語られるものもある。こういった話にはウソも多いが、あとになって事実だとわかるものがある。

 さらに重要なことに、「事実」自体が未確定で、把握できない場合はどうすればよいのか。たとえば、新型コロナウイルスに関する科学的な事実は未確定であり、そもそも確かめようがない。他にも、専門家が調べても現状ではわからないことや専門家の間でも意見がわかれることは数多い。

 「真偽を見分ける」という立場は、「事実」の存在と、私たちがそれを把握できることが前提となっている。まずは、その困難さを理解する必要がある。

事実性だけではなく、感情・意見

 広まっているときに、うわさを否定することは基本的に難しい。なぜなら、うわさとは「情報」や「事実」だけではなく、感情や表沙汰にしにくい意見でもあるからだ。

 新型コロナウイルスに関する偽情報でも、否定が比較的容易なものもある。たとえば、ウイルスの発生源や予防法、初期に広まったトイレットペーパーをはじめとする物不足のうわさなどだ。「コロナには25~26度のお湯が効く」といった偽情報は、そもそも普通の飲み物の温度であると自分で気づくこともできるし、医療関係者が「事実ではない」と否定すれば、多くの人は「単なるうわさだったか」ととらえるようになる。トイレットペーパー不足も「予言の自己成就」――ある「予言」が広まったことにより、人々が行動を変化させることで、その「予言」が実現する――のメカニズムを知ることで、納得する人も出てくる。いずれも、どちらかといえば、事実性が重視されるうわさだ。

 「**市のコロナ感染者第1号が自殺したらしい」

 私が地方都市名の入ったこんな書き込みをSNSで見かけたのは、2020年の4月ごろ、感染第一波で緊急事態宣言が出されていたときである。その後、同じような話を別の地域についても見かけ、「おかしいな」と思っていたところで、新聞の取材を受けた。コロナ感染者の自殺はデマであって、どの地域でも自殺の事実は確認できない(2021年1月には、コロナウイルス感染を苦にしたと考えられる自殺者について報道があるが、ここで取り上げるうわさが広がったのはそれ以前である)。そして、うわさになっている人や家族が、うわさによって精神的に追い込まれていると。

 このうわさについては、「自殺していない」という事実を伝えても、納得する人ばかりではない。第一に事実の確認が難しく、「マスメディアでは伝えられない話」とまことしやかに語られる。加えてこの話は、「情報」や「事実」として扱われるというより、感情や意見と結びつけて解釈、理解されるためだ。

 たとえば、コロナ禍での不安や不満から、感染を「自業自得」ととらえ、このうわさを受けとめる人がいる。「誰しもが感染する可能性があるとはわかっている。ただ、自分は窮屈でつらい生活を続けている。将来の見通しが立たず、生活も不安だ」――こんな感情のはけ口がうわさと結びつく。表立っては言えない気持ちを代弁してくれる以上、事実関係の否定だけではうわさを消すことはできない。

 一方で、「これだけ感染者バッシングがひどいのだから、それを苦にしてもおかしくない。こんな不幸は、あってはならないことであり、最近の感染者バッシングは間違っている」――こう受けとめられた場合には、このうわさは自殺という事実以上に「感染者差別批判」というメッセージを共有するメディアとなる。「うわさを伝えることで、感染者差別をなくしたい」――このように感じる人にも、事実を示すだけでは効果は望めない。うわさを否定されれば、「感染者差別批判」という「正義」を否定されているように感じられるからだ。

あいまいさに耐える、そして寛容に

 では、どうすればいいのか。

 まずは、「事実」についてのとらえ方を変える必要がある。先に述べたように、「事実」がどこかに存在しており、私たちはそれを見分けることができるという考えを、一旦、留保しよう。もちろん、ファクトチェックできるものもある。そういったものはチェックが必要である。しかし、そうではないものも多いのだ。

 その上で、急いで真偽を判断しないこと、急いで広めないことを心がけよう。特に、自分にとってもっともらしい話は要注意だ。「ありそう」と思ったなら、誰かに伝える前に、リツイートやシェアの前に、自分とは違うとらえ方を想像したり、自分とは違う立場から考えたりしてみよう。

 感染者第1号自殺のうわさの場合、自分がその人自身や家族であった場合のことを。事実だとして、そんなうわさが流れたり、ネットで拡散したりしたら、どのような気持ちがするのか。かりに事実でないとすれば、どうであろう。もし、感染者バッシングを受けているのなら、自分なら何をしてほしいのか、してほしくないのか、と。

 新型コロナウイルスのように生命に関係することは、誰にとっても極めて重要であり、関連情報があいまいなままであるのは、不快である。しかし、そのあいまいさに耐え、時間をかけて、情報を集めて吟味し、あいまいさを徐々に減らしていく必要がある。非常に難しいことであるのだが、事実が未確定である以上、情報とはこのようにつき合うしかない。

 と同時に、忘れてはならないのが、うわさは「事実」だけなく、感情や意見でもあることだ。かりに事実に反する話を信じて、広めている人を見かけたとしても、「ウソつき」と責めるのはよい方策ではない。自分自身も怪しげな話をもっともらしいと思うこともあるだろうし、事実に反する話が心地よいこともある。そう考えれば、事実に反する話をする人に、どのように話しかければよいか、おのずから答えは出るはずだ。ウソを糾弾するのではなく、相手の気持ちを汲み取りつつ、話を進めていく。対面で会う友人・知人だけでなく、顔が見えないネットだからこそ、寛容さを心がけること。こちらも極めて難しい。

 うわさは最も古いメディアである。太古の昔から存在し、情報があふれかえる今日も消えることがない。このことを考えれば、うわさやデマの特効薬がないこと、そして、つきあい方が難しいことも納得いただけるはずだ。
 

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
松田美佐(まつだみさ) 1968年兵庫県生まれ。91年東京大学文学部社会心理学専修課程卒業。96年東京大学大学院人文社会系研究科社会文化研究専攻社会情報学専門分野博士課程満期退学。東京大学社会情報研究所助手などを経て、2003年中央大学文学部助教授。08年より中央大学文学部教授。著書『ケータイの2000年代』(共編著、東京大学出版会、2014年)、『うわさとは何か』(中公新書、2014年)ほか
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