「やればできる」を体現したファイザーCEOの「幸運を呼ぶ準備」

アルバート・ブーラ(柴田さとみ訳)『Moonshot ファイザー 不可能を可能にする9か月間の闘いの内幕』(光文社)

執筆者:緑慎也 2022年9月23日
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アルバート・ブーラ(柴田さとみ訳)
Moonshot ファイザー 不可能を可能にする9か月間の闘いの内幕』(光文社)

 新しい医薬品の開発には10年以上かかる。この常識を打ち破ったのが新型コロナウイルス感染症をめぐる創薬である。重症化を防ぐ治療薬やワクチンが登場するまで1年も要していないのだ。

 治療薬が速やかに出てきた事情はまだ理解できる。コロナ治療薬のほとんどは既存薬をそのまま転用または改良したものだからだ。既存薬なら安全性は一応担保されている。追加で確かめる必要があるのは基本的には有効性だけなので臨床試験が早く済む。

 一方、米ファイザー・独ビオンテックによるコミナティや、米モデルナのスパイクバックスはいずれも新方式のワクチンで、実戦投入の前例がない。パンデミック初期、筆者が取材した何人かの免疫学者でワクチンがこんなに早く登場すると予想した人はいなかった。

 わずか9カ月でのワクチン開発を成功させた当事者の一人ファイザーCEOがその舞台裏を語ったのが本書である。同社はパンデミック以前に成長の遅い部門を手放してスリム化し、巨大部門を分割し、独立性を高めていたという。大企業でありながら小回りのきく体制を整えていたわけだ。元祖ムーンショットのアポロ計画も、その前のマーキュリー計画、ジェミニ計画での経験やプロジェクト推進体制の洗練の過程を経てはじめて月面着陸を成功させた。まさに本書プロローグのタイトル通り「準備のない者に幸運は訪れない」わけだ。

 設計のしやすさと量産性に優れるメッセンジャーRNA(mRNA)技術を採用したからスピーディなワクチン開発が可能になったとよく言われるし、本書からもその点がうかがえる。しかし、それ以上に筆者が驚かされたのは、製造、物流面での革新である。研究レベルでサンプルをいくつか作るのと、全世界に供給する数億、数十億回分ものワクチンを生産するのではまったく異なるオペレーションが必要になる。新しい装置や、目的の場所に適切な品質を維持しながら運ぶための追跡システムを開発し、プレハブ方式で迅速に製造施設を設置するなど、降りかかる難局をその都度工夫して切り抜けてゆく場面は、さながら『特攻野郎Aチーム』や『007』シリーズなどのアクション映画を彷彿とさせる。

 著者は同社のワクチン・プロジェクト「ライトスピード(光速)」に関わる意思決定を次々と下す一方で、少しでも供給量を増やしてほしいと要求する各国首脳とも直接交渉していたという。その経験を元に語られるそれぞれのリーダーの姿も本書の読みどころである。

 著者は最後の章で「なぜ新型コロナウイルス感染症の患者にはこのような特別の対応ができるのに、がんや命に関わる自己免疫疾患、致命的な遺伝病、その他多くの深刻な医療ニーズを抱えた患者に対してはそれができないのだろう?」と書いている。ファイザーをはじめとする製薬企業や各国の規制当局は、今回のパンデミックを機に見事な連携プレーにより「やればできる」ところを見せた。10年かかるところを1年でも新薬を生みだせることを世界に知らしめてしまったのだ。著者は他の病気でも同じことが実現できるはずだと希望を語る。

 しかし、本書を読み終えてまもなく、mRNA技術の特許をめぐり、モデルナがファイザー・ビオンテックを提訴したとの一報を目にした。モデルナも他社から訴えられているという。この訴訟合戦の行方はわからない。新型コロナウイルスへの対応で歩み寄りを見せた製薬企業は再びいがみ合うようになるのだろうか。本書で描かれる希望は陽炎のように儚いものかもしれないが、ムーンショットをショット(一撃)に終わらせず連続的な流れにする一助にはなりそうだ。

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執筆者プロフィール
緑慎也(みどりしんや) 1976(昭和51)年大阪府生まれ。科学ライター。出版社勤務後、月刊誌記者を経てフリーに。科学技術を中心に取材・執筆活動を続ける。著書に『消えた伝説のサル ベンツ』、『認知症の新しい常識』、共著に『ウイルス大感染時代』『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』など。
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