医療崩壊 (68)

コロナ禍を奇貨に進む「デジタル医療」社会実装の新地平

執筆者:上昌広 2022年11月2日
タグ: アメリカ 日本
エリア: アジア 北米
画期的な人工膵臓(ベータ・バイオニクス社の「iLet Bionic Pancreas」=写真)の登場に、米政府も注目(米国立衛生研究所HPより)
新型コロナ禍は、「人工膵臓」のようなリスクを伴う医療行為も実施できる機器の開発を促した。IT企業と連携する未来も間近だ。その先端を行く米国では、法整備やデジタル環境へのアクセス格差解消など、社会実装が着々と進んでいる。

 前稿(『コロナ対策の医療技術が米国の「自己決定権」を変え始めた』2022年10月4日)で、コロナパンデミックによって世界の医療のエコシステムが変わったことを紹介した。主にオンライン診療の普及が医療に与える影響を解説したのだが、変化はそれだけではない。本稿ではデジタル医療の発展について述べたい。

画期的な人工膵臓の登場

 9月29日、米『ニューイングランド医学誌(NEJM)』が掲載した論文が世界の研究者の注目を集めた。『NEJM』は1812年に創刊された世界最古の医学誌であり、現在、世界で最も権威があるとされている。編集部が置かれているボストンという土地柄のせいか、先端医療に関する研究を扱うことが多い。

 掲載された論文は、米ベータ・バイオニクス社が開発した人工膵臓の1型糖尿病に対する臨床試験の結果だ。

 1型糖尿病は、ウイルス感染などをきっかけに、若年者に発症することが多い難治性疾患である。自己免疫反応がインスリンを分泌する膵臓のランゲルハンス島を破壊するため、一生、インスリンの注射が必要となる。心血管疾患や腎不全などを予防するためには、厳格に血糖をコントロールしなければならないが、それが難しい。いかにして、患者の負担を少なくしながら適切に血糖値をコントロールするか、多くの研究者や製薬企業が試行錯誤を繰り返してきた。

 この臨床研究を『NEJM』編集部が評価したのは、人工膵臓を使うことで、血糖管理の煩雑さが大幅に緩和されるからだ。従来は、血糖値や食事量に合わせてインスリン量を調整していたが、今回、開発された方法を用いれば、クレジットカードほどの大きさの機器に体重・目標血糖値、さらに「いつも通り」「多め」などの食事情報を入力するだけで、同社が開発したアルゴリズムに従い、過去の血糖変化も踏まえて、食事毎に全自動でインスリンが注射される。

 1型糖尿病患者219人を対象とした試験では、対照群の血糖値は改善しなかったが、この機器を用いた群では、血糖値の指標であるHbA1cは7.9%から7.3%に改善した。これにより、コントロールが困難とされる1型糖尿病の管理が、簡便かつ有効になる。将来的には、食事を写真に撮るなどして、もっと精巧な管理が可能になるだろう。画期的と言っていいからこそ、『NEJM』が9月29日号の原著論文のトップで紹介したし、その後、英『ネイチャー』誌もニュースとして報じている。

コロナを契機に加速したデジタル医療機器開発

 注目すべきは、この臨床試験が2021年1月~7月に実施されたことだ。この時期にデジタル医療機器の開発が進んだのは、コロナ禍で対面診療が制限され、遠隔診療に用いる診断・治療器機の需要が急増したためだ。

 米国でコロナの流行が始まった2020年3月、米国政府は、医療機関でのコロナ感染の拡大を防ぐため、既に承認した心電図やパルスオキシメーター、電子聴診器などの非侵襲的な医療機器とそのソフトウェアを、遠隔診療に用いることを緊急承認した。これを契機にデジタル医療機器の開発は加速する。米国立医学図書館データベース(PubMed)を用いて、「デジタル・メディスン」という単語を含む論文を検索すると、その数は2019年の145報から、20年240報、21年317報、22年366報(11月1日現在)と急増している。

「デジタル・メディスン」の研究の進展は、『NEJM』に掲載される論文を見ても明らかだ。9月以降だけでも、『NEJM』には、ベータ・バイオニクス社の研究以外に3つのデジタル医療機器の臨床研究が紹介されている。いずれも1型糖尿病を対象としたもので、内容は以下の通りだ。

(1)10月20日号「1型糖尿病のための断続的にスキャンされた連続グルコースモニタリング」

(2)9月8日号「1型糖尿病におけるオープンソースの自動インスリン送達」

(3)9月8日号「1型糖尿病におけるクローズドループ療法とC-ペプチド分泌の維持」

IT企業との合従連衡も

 日本でデジタル医療機器といえば、アップル・ウオッチのように、一般人が脈拍や不整脈を感知するものが話題になることが多い。野口悠紀雄氏も『日本人は遠隔医療が進まない事の損失を知らない』(「東洋経済オンライン」)という文章の中で、海外の先行事例として、

「イスラエルのスタートアップ企業タイトーケアは、肺の音を調べられる手持ちサイズの端末を開発した。

 子供が夜にせきが続いたような場合、端末で音を録音すると、データがネットを通じて医師と共有される。その夜のうちに、専用のアプリを通じて診察も受けられる。搭載したAIが、過去のデータをもとに異常を感知する。

 この端末は1台約300ドル。コロナ患者の診察にも活用できる。欧米など15カ国で使われている」

 と紹介している。

 確かに、このような医療機器の開発は大きな進歩だが、私が紹介した4つの研究はレベルが違う。1型糖尿病へのインスリン注射は、過剰投与すれば低血糖症状を引き起こして場合によっては命を落とすし、過小投与になれば高血糖で昏睡になる「危険」な医療行為だ。不整脈を感知したり呼吸音を聞くなど、介入を伴わない医療機器とは、開発の難易度は全く違う。コロナ禍の中で、米国を中心にこのようなリスクも伴う医療行為を実施できる医療機器が開発され、かつその臨床試験で安全性、有効性が証明されているのだ。今後、このような医療機器は、一気に普及していくはずだ。

 これは、デジタル医療機器の開発に成功した企業の下に、病気に関するデジタルデータが集約されることを意味する。この情報の価値は大きい。今後、このような企業とIT企業などとの合従連衡が繰り広げられるだろう。

 既に、その萌芽は存在する。アマゾンが米ワンメディカル社を約39億ドルで買収したことなど、その典型例だ。ワンメディカル社は、利用者が年間199ドル支払えば、プライマリケア(初期治療)としてバーチャルケアと対面ケアの両方を提供する会社だ。今年3月時点で約77万人と契約し、188の診療所と提携している。アマゾンがこのような「医療企業」を買収することで、より健康に直結した個人情報を収集することになる。

日本は大きく出遅れた

 医療のデジタル化の流れは止まらない。『NEJM』はこの問題を繰り返し取り上げ、その弊害についても警鐘を鳴らしている。

 例えば3月24日号では、「ヘルスケアでのデジタル・インクルージョン デジタル・インフラストラクチャ・イニシアティブで公平性をサポートする」という論考を掲載し、約2100万人がブロードバンド・アクセスを有していない米国で、年齢・人種・経済力・英語力などによって生じる格差を如何に克服するかを議論している。また9月1日号では、「ヘルスケアに対するサイバーセキュリティの脅威の増大への対応」という論文の中で、デジタル医療のサイバー攻撃に対する脆弱性に警鐘を鳴らしている。

 米国政府も対応に余念がない。10月6日には連邦規則を改正し、患者が、医療機関が保存するデジタル形式のデータに自由にアクセスする権利を認めている。このような動きを睨み、すでにアップル「ヘルスケアレコード」などのアプリケーションはダウンロードが激増している。この結果、2021年に1455億ドルだったデジタルヘルス市場は、2028年には4305億ドルに成長するとの予想がある。デジタルデバイスが生み出す「ビッグデータ」を用いた、新たなビジネスが立ち上がる。

 日本は対照的だ。厚生労働省は、クラスター対策に基づく感染者の強制隔離には熱心だったが、PCR検査やオンライン診療を抑制するなど、患者のニーズに対応することには尽力してこなかった。この結果、我が国でオンライン診療は普及せず、デジタル医療の発展は決定的に遅れた。前出のPubMedによれば、11月1日現在、「デジタル・メディスン」という単語を含む1226報の論文が発表されているが、日本の研究機関が関与したのは、わずかに60件(4.9%)だ。なぜ、このような遅れが生じたのか、我が国は猛省すべきである。

 

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執筆者プロフィール
上昌広 特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長。 1968年生まれ、兵庫県出身。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学大学院医学系研究科修了。東京都立駒込病院血液内科医員、虎の門病院血液科医員、国立がんセンター中央病院薬物療法部医員として造血器悪性腫瘍の臨床研究に従事し、2016年3月まで東京大学医科学研究所特任教授を務める。内科医(専門は血液・腫瘍内科学)。2005年10月より東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究している。医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」の編集長も務め、積極的な情報発信を行っている。『復興は現場から動き出す 』(東洋経済新報社)、『日本の医療 崩壊を招いた構造と再生への提言 』(蕗書房 )、『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)、『医療詐欺 「先端医療」と「新薬」は、まず疑うのが正しい』(講談社+α新書)、『病院は東京から破綻する 医師が「ゼロ」になる日 』(朝日新聞出版)など著書多数。
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