
パキスタンでカリスマ的人気があるクリケットの元スター選手で、最大野党「パキスタン正義運動(PTI)」の党首を務めるイムラン・カーン前首相(70=首相在任期間2018年~2022年)が5月9日、同国の特捜機関・国家責務局(NAB)によって逮捕された。首相在任中、業者の不動産取引に便宜を図り、見返りに妻が設立を計画していた大学に土地の寄付を受けたとされる、いわゆる「アル・カディル・トラスト」事件をめぐる汚職が逮捕容疑だ。
カーン前首相の逮捕を受け、PTIの支持者らは「逮捕は不当」として各地で抗議行動を展開、警官隊との衝突などで5月中旬までに少なくとも10人が死亡、デモ参加者ら2000人以上が身柄を拘束された。PTIはカーン氏を首相に引き上げた2018年の総選挙で第一党となり、アフガニスタンに近い北西部ハイバル・パフトゥンファ州や総人口の半分強が暮らす中部パンジャブ州で政権を握り、カーン氏の首相退任後も国民から大きな支持を得ている。
先鋭化するカーン氏支持者の抗議デモ
暴徒化したデモ隊の一部は中部パンジャブ州ラホールにある与党の「パキスタン・イスラム教徒連盟シャリフ派(PML-N)」の総裁でもあるシャバーズ・シャリフ現首相の私邸や政府庁舎などを襲撃し、破壊・略奪行為に出た。また、かねて「軍は法律を超えた存在」などとして軍との対立を強めていたカーン氏は、自身の逮捕の背後に軍の意向が働いたと主張。これが首都イスラマバード近郊ラーワルピンディにある陸軍司令部に支持者らが乱入する事件につながった。同市内では軍高官の邸宅が放火される事件も起きた。カーン氏やPTI支持者が一線を越えたことで軍との関係は決定的に悪化。軍としてもいよいよカーン氏排除に動きだした、というところだろう。
しかし事態は急転。同国最高裁は11日に「カーン氏の逮捕は不当」との司法判断を示し、イスラマバード高裁は12日にカーン氏の保釈を認めた。しかし、同18日にはパンジャブ州警察が州都ラホールにあるカーン氏の邸宅を包囲するなど、再逮捕の観測から情勢は緊迫化した。カーン氏は汚職や暴動の扇動など120件以上の容疑を抱えており、今後司法・警察当局がカーン氏再逮捕に踏み切る可能性は否定できない。そうなれば内政のさらなる混乱は必至だ。
その一方、身柄を拘束されない限りカーン氏は今後も支持者らとともに政権批判を展開し、昨年春の不信任決議に抗議してPTI所属議員が一斉辞職し、野党不在となった国会の選挙前倒しを求めて、抗議行動を展開するだろう。政権や軍との対立先鋭化が懸念される。
軍と民心の間に決定的な亀裂
カーン前首相逮捕による今回の抗議行動は、これまでにないパキスタン内政の地殻変動を顕在化させた。その1つが軍に対する民心の離反だ。
独立以来ただの一度も軍事クーデターが起きていないインドに比べ、パキスタンは75年余の歴史で通算30年以上も軍事政権が力を振るってきた。軍は隠然たる権力を持ち、常に文民政権ににらみを利かせている、というのが大方の理解だ。現シャリフ首相の兄、ナワズ・シャリフ元首相(在任期間1990~1993年、1997年~1999年、2013年~2017年)が失脚したのは、2015年に対立関係にあるインドのナレンドラ・モディ首相を軍に根回しせずに招いて首脳会談を行い、軍首脳の逆鱗に触れたからだとされる。また軍傘下の年金基金がセメント、不動産などの有力企業を抱えていることから、莫大な利権の存在も指摘される。
それでも、アフガニスタンとの国境地帯などで文字通り命懸けのテロリスト掃討作戦を展開し大きな成果を上げた軍に対し、パキスタン民衆は一定の敬意を払ってきた。カーン前首相も当初は軍と良好な関係を築いていたとされるが、汚職取り締まりやコロナ禍への対応、対米外交などを巡って軍との意見対立が表面化。さらに昨年11月、何者かに銃撃され負傷したカーン氏は「軍による自身への暗殺未遂」として公然と軍を批判。軍としても黙って……

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