月明かりの洋上で波に揺れていた小さなボートが突然、けたたましいエンジン音を上げた。密航取り締まり中のチュニジア沿岸警備隊がサーチライトを照射し、すぐ脇に寄った直後だった。
「おい! モーターを止めろ!」
逃げさせまいと、隊員が慌てて身を乗り出してボートの左舷をつかんだ。観念したのか、大人も子どもも両手のひらをみせ、「許してくれ」「赤ちゃんもいるんだ、見逃してくれ」と嘆願の声を繰り返した。
6月1日午後11時前、チュニジア中部スファックス沖9キロの洋上。薄い鉄板を溶接しただけの粗末なボートに41人が肩を寄せ合い、160キロ先のイタリア最南部ランペドゥーサ島に向かっていた。全員が黒人で、誰も救命胴衣をつけていなかった。この海域では今年出回り始めた鉄板ボートの転覆事故が急増しており、欧州行きは阻まれたが、命を落とさなかっただけで幸運ともいえた。
洋上で阻止、「いっそ死なせてくれ」
取り締まり船の甲板上に連れてこられた彼らに出身国を尋ねると、ニジェール、ガンビア、ベナンといった西アフリカの国名とともに、数千キロ離れた東アフリカのスーダンという声がいくつも上がった。
赤いニット帽をかぶったオスマン・アブバカル(20)は、私をにらみながら吐き捨てるように言った。
「スーダンに安全はない。だから停戦の時に逃げてきたんだ。先に行かせてくれないなら、どうすればいいっていうんだ? いっそ海で死なせてくれ。国連だって助けてくれなかったんだ」
小さな子どもを連れた女性が突然、声を出して泣き始め、両手で頭を抱え込んでうなだれた。
しばらくして気持ちの整理がついたのか、アブバカルは長い旅路を語り始めた。
スーダンで戦闘が始まったのは4月15日のことだ。
民政移管をめぐって対立してきた国軍と準軍事組織「即応支援部隊」(RSF)による激しい市街戦となり、断食月(ラマダン)明けの祝祭が始まる21日に何度目かの「停戦合意」が発表された。戦闘は止まらなかったが、徴兵を拒み続けてきたアブバカルはこの機をとらえて、首都ハルツームを脱出した。同じような境遇の若者が30人以上いたという。
「スーダンは愛する母国だ。戦争がなければチュニジアやリビアなんかに来るもんか」
サハラ砂漠を越え、無政府状態が続くリビアに密入国したが、多くが道中で兵士に連行されたり行方不明になったりした。安全を求めて、さらに西に進んで隣国チュニジアに逃れた。
「でも仕事がなく、寝る場所すらなかった。雨が降っても公園に野ざらしだった」
アブバカルは私に、スファックス中心部にあるその公園に行ってみてくれ、といった。
「人間が暮らせる環境じゃない。まともに暮らせるなら、だれも命がけで地中海なんて渡らない」
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、スーダンの戦闘で周辺国に50万人以上が逃れ、ほぼ半分を隣国エジプトが占める。国内避難民も約170万人に上っている。それでも私が5月上旬、欧州の玄関口となっているイタリアのランペドゥーサ島で取材していた際にはまだ、地中海中央部に戦闘を逃れたスーダン難民の姿はなかった。
国際移住機関(IOM)のベテラン広報官は「スーダンからの旅路はとても遠い。国境周辺で事態が沈静化するのを持っている人が多いはずだ。ここまで来るには少なくとも1年はかかるだろう」との見方を示していた。
現実には、戦闘から逃れた難民ははるかに早く砂漠を越え、海を渡り始めたことになる。
生ごみの上で野宿、塩水で水分補給
その公園は、吐き気を催すほどの強烈な生ごみの臭いで満ちていた。
チュニジア第二の都市スファックスの中心部で、城壁に囲まれたメディナと呼ばれる旧市街の市場に隣接した広大な公園だった。再造成のために、あちこち生ごみで埋め立てられていた。
風が吹くたびに異臭が拡散し、ポリ袋が舞う。そんな地元住民が寄り付かなくなった園内に、青年がたむろしていた。数人で立ち話をしたり、毛布をかぶって寝ていたり、椅子に腰かけてぼんやりしたりしている。ほとんどが戦闘勃発後にスーダンから逃れてきた若い黒人男性で、150人ほどいるという。アラブ系が多数派のスーダンだが、この街は少数派の黒人の脱出先となっていた。
スファックスはもともとアラブ系の地元チュニジア人が欧州に向かう密航拠点だったが、最近になって国内外から黒人移民が続々と集まるようになっていた。
その引き金は今年2月、チュニジアのカイス・サイード大統領が黒人移民を非難した演説だった。捜査当局による非正規滞在の黒人移民の一斉摘発が始まり、黒人へのヘイトクライム(憎悪犯罪)も急増した。仕事を失ったり、部屋を追い出されたりした主に西アフリカからの出稼ぎの黒人移民がスファックスに逃れ、安価だが危険な「鉄板ボート」で欧州に脱出する動きが加速した。この新たな「黒人向け欧州密航ルート」に、戦闘で国を追われた東アフリカのスーダンからの黒人難民が流れ込んだ形となった。
すらりとした長身で高校生だったボリス・リングアコー(19)もその一人だ。
ハルツームの軍事基地の近くにあった自宅アパートが空爆で一部倒壊し、車でリビア近くまで逃れ、歩いて国境を越えた。だが、リビアで兵士につかまって暴行を受け、パスポートなど所持品すべてを置いたまま逃げた。一緒に旅をしていたスーダン難民の中には投獄されて、今なお消息が分からない人も少なくないという。
「リビアはテロリストだらけで、安全な場所はありません。スーダンと同じようなことが起きていました」
建設現場などで旅費を稼ぎながらチュニジアに入った。チュニジアでは非正規入国者は公共交通機関を使えないため、国境から300キロ以上歩いて3週間前にやっとスファックスにたどり着いた。「今も同じようにスーダン人がこっちに向かっています」
この先、欧州行きは考えているのか尋ねるときっぱりと言った。
「方法が分かれば行きます。何の問題もありません」
洋上で出会ったアブバカルが言ったように、公園は人間が暮らす環境とはかけ離れていた。
「僕たちが寝ているのはここです」
赤いセーターを着たマビル・モハメド(18)は、地面やコンクリートの上に敷かれたボロボロのマットレスや段ボールを指さした。難民キャンプと違って、テントや水、電気といった最低限のインフラすらなく、支援団体などの姿もない。たまに地元の人たちが食事を配ってくれることがあるくらいだという。
「スーダンは戦争ですが、ここでは食べ物や寝るところがありません。飲み水もないので、モスクでもらえる塩水を飲んでいます」と窮状を訴える。
スーダンを逃れた後、安全な地を目指してすでに4カ国目という高校生もいた。
ハミス・ガファクワル(18)は、ハルツームから西部ダルフール経由でチャドへ、そしてニジェールからサハラ砂漠を越え、リビアを経由してチュニジアにたどりついた。道中に通った難民キャンプで助けを求めたが、相手にしてもらえなかったという。
「スーダンで戦闘が行われているのは全世界の人たちが知っているはずなのに、誰も助けてくれません。どうして僕たちは、犯罪者のようにいつも野宿しないといけないんですか?」
際立つ存在感、ざわめく住民
取材中、大勢いた公園内から突然、波が引くように人が減り、みなフェンスの外の路地に散っていった。私服警官が見回りに来ていたのだった。
公園の外にある地元市場では、腰に布を巻いた黒人女性が路上にバケツや段ボールを置き、アフリカ風の香辛料や食材を売る露店が並んでいた。行き交う客も黒人が目立つ。声をかけると、コートジボワールやカメルーン、ギニア、ナイジェリアなどサハラ砂漠以南の各地の出身者が集っていた。
その露店が集まる一角にも警官が姿を見せ、露天商の女性たちは手慣れた様子で商材を手に道路の反対側に移っていった。「同じ市場なのに、いつも黒人だけ追い出されるのよ」と舌打ちした。
アラブ系がほとんどの地元住民の中には、街の中心部で急速に存在感を高める黒人の姿に眉をひそめる人が少なくない。
路上でスマホを売るムハンマド(44)は「黒人は我々が商売していた場所を使って、見たこともない商品を売っているんだ」と警戒する。会社員ロトフィ・キック(64)は「我が国は清潔で美しかったのに、黒人が来てからひどい状態になった」と嫌悪感をあらわにし、「我々が路上で物を売れば逮捕されるのに、彼らは野放しだ」と取り締まりの徹底を訴えた。
カメラを回していると、魚屋のカレッド・アズージ(46)が話に割って入ってきて、スーダン難民が野宿する公園の方角を指さしてまくし立てた。
「公園だって、やつらが侵入して乗っ取られちまったんだ!」
チュニジアを追い出されるように欧州に向かう黒人移民・難民が乗り込む鉄板ボートは沈没が相次ぎ、地中海中央部の5月末までの死者・行方不明者は、前年同期比約1・5倍の1030人に達している。(敬称略)