長引く戦争下でウクライナの人々はどのように生活しているのか。人道支援NGOのスタッフとして赴いたキーウで目にした、平穏な日常と戦争の非日常が交錯する暮らしぶりを伝える。
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隣国モルドバの首都キシナウからおよそ11時間のドライブを経て午後7時にたどり着いたウクライナの首都キーウは、「戦時下」とは思えない明るさだった。歴史的建築物が多く美しい中心部は、店の明かりや電子広告に満ちて、東京と変わらないほどピカピカだった。
翌朝のホテルの朝食はロンドンやニューヨークのホテルに引けを取らない品揃えで、注文に応じてオムレツを焼いてくれる女性までいて、耐乏生活の影はない。
精密誘導弾に目標の位置情報を打ち込めば、標的が明るかろうが暗かろうが、ミサイルでもドローンでも飛んでいく戦争の時代に「灯火管制」に意味がないことは頭ではわかる。「欲しがりません 勝つまでは」的プロパガンダよりも、同時多発テロ直後のアメリカのように「普通の生活を続けることが屈しないこと」なのかもしれないが、この戦争は、少なくとも首都キーウでは見えにくい(11月25日に大規模なドローン攻撃があったが、私がキーウにいた11月はじめはこうしたことのない時期だった)。
60歳を過ぎて会社員を辞めたところで、縁あってNGOの業務を請け負うことになった。きっかけは昨年暮れ、ポーランドでウクライナの人々を支援する友人からの1本のメールだった。「人道支援の仕事に興味はありませんか?」。「ありますとも」と返事したことから、今年2月、NGOピースウィンズ・ジャパンのウクライナ支援チームの一員となった。人生どう転がるかわからない。ピースウィンズがウクライナとモルドバで行っている様々な支援事業(NGOは「みなさまからのご寄付」で細々と善行を積んでいるものと思っていたが、大まちがいで政府資金も得て数千万円から数億円単位の事業をいくつも動かしている)について学びながら、テロに出くわした時の身の守り方の講習(これはこれで興味深い)を受けたり、事業計画の立て方を習ったりして8カ月。プロジェクトの現場を見せてもらえることになった。ここから書くのは、NGO見習いの「ウクライナ出張日記」のようなものである。
現在、外務省はウクライナの危険レベルが「レベル4」であるとして、「退避してください。渡航は止めてください」と赤い文字で警告している。実際、私の滞在中の11月1日にはウクライナ国内10地域の118集落が攻撃され、今年に入って最多の攻撃だったと報じられた。戒厳令と総動員令が発令され、すべての空港は閉鎖され、午前0時から5時までの夜間外出は禁止され、18歳から60歳までの男性は出国禁止であり、郊外の森には地雷の看板が散見され、都市の幹線道路には武装兵士が必要に応じて検問を行うチェックポイントがあるなど、戒厳令下であることを感じないわけにいかない。そして、キーウ中心にある独立広場には戦死した兵士の数だけの国旗がひしめいている。
一方で、夜になると銃声が街に響いたアパルトヘイト下の南アフリカ共和国のヨハネスブルクや、荷台にロケット砲を積んだトラックが激しく行き交うザイール(現コンゴ民主共和国)、そこらに地雷が埋まっていた1990年代のカンボジア、今、文字通り砲弾の雨が降り注ぐガザと比べて、キーウが特段に「危険」なのかというと、そんな気配はない。ショッピングモールにはブランド品が並び、おしゃれなレストランには食事を楽しむ人々の姿がある。ゆったりと犬の散歩をする人もいれば、公園で遊ぶ子供の姿もある。
ロシア軍との激しい攻防が続くウクライナ東部と南部は別として、キーウをはじめとするそれ以外の地域では、日常と非日常が両端にあるシーソーの上で揺れながら生活が続いているような状態なのかもしれない。そんなシーソーの上のウクライナの暮らしを見えた範囲で点描したい。
長年「地下シェルター」とともにあるウクライナ
ウクライナに入って最初に訪れたのが、北部チェルニヒウ市の幼稚園だった。2022年2月24日、ウクライナの東部・南部と並行して北部から侵攻したロシア軍が1カ月以上地域一帯を占領。激しい砲撃によって大きく損壊した第4幼稚園と第72幼稚園の改修をピースウィンズが支援し、10月末にふたつの幼稚園は再開した。およそ20カ月ぶりに子どもたちを迎え入れ、園長たちは「2回目の誕生日のようです」と頬を緩ませた。窓をすべて新しくして、暖房設備も整えたため、再開した幼稚園は前よりもずっと暖かく居心地の良いところになった。子どもたちの昼寝用のベッドも美しく整えられていた。
ここで目を引いたのが、地下シェルターだった。現在ウクライナの学校や医療機関、ホテルなどでは地下シェルターが義務付けられ、これが整備されていないと再開することができない。幼稚園の地下シェルターは園児全員が退避できる広さを確保し、壁には先生たちが描いた可愛らしい絵があり、地上に負けない快適さが確保されていた。だが、地下シェルターが充実していればいるほど、ここを頻繁に使わざるを得ない園児たちの日常にも心が向かう。聞けば、園の再開からわずか1週間で、すでに3回、空襲警報が発令された(爆撃はなかった)ために園児をシェルターに誘導せざるを得なかった。
警報は、ウクライナ入国前に「Air Alarm Ukraine」というアプリを携帯電話に入れて受信した。キーウやチェルニヒウなど滞在先を登録しておくと、そこに警報が発令された時は警告音が鳴って表示される。何もなければハトのイラストと共に「No worries(心配ないよ)」と出るが、警報が出ると「Everyone to the shelter(みんなシェルターへ)」という表示が出る。
立派なシェルターは、この後訪問したチェルニヒウ州ニジィンの産婦人科病院でも見ることができた。少子化の進む日本ではまず見ることがないと思うような巨大な病院で、相談室から分娩室、手術室から新生児ICU(集中治療室)、家族と泊まれる特別出産室、障害のある人のための分娩室などとても充実した施設で、今年はこれまでに509人の出産があったという。この病院の地下シェルターは非常電源と手術室まで備えており、地上の病院を少しコンパクトにして地下に降ろしたかと思うほど広大だった。
この病院の地下が充実しているのは、ロシア軍による攻撃が続いた去年春の2カ月、実際に300人がここで生活し、医療活動もすべて地下で行われ(電気がない中での手術もあった)、55人の赤ちゃんが地下で生まれるという経験があったからだ。病院長のヴァレリーさんは2カ月シェルターを出ることなく寝泊まりし、ずっと母子の命を支えた。
ここで、ウクライナにおけるシェルターの意味を考えさせられる話を聞いた。ソ連時代に軍事産業の集積地だったウクライナには、冷戦時代、西側からの核攻撃に備えて地下シェルターが数多く造られた。この時代から、学校や病院、役所には地下シェルターが備えられていた。そして、シェルターの「第2の波」が来たのは1986年。チェルノブイリ原発事故が起きた後のことだ。被曝を防ぐ目的でシェルターが拡充された。そして2022年2月のロシア侵攻。地下シェルターは、ウクライナの人々にとって常に「使う蓋然性の高いもの」として身近にあった。この感覚は日本にいては知ることのないものだった。
国連機関や各国の人道支援団体の援助によって、各所の地下シェルターには水タンクが備えられ、暖房設備も整って、快適度を上げて充実していく。そして警報が鳴る度に人々はシェルターへと降りていく。こうした地下生活が日常に組み込まれていることは、冒頭に書いた「シーソーの生活」の象徴のひとつだと思った。
ウクライナとガザを同時に支援するNGOスタッフのタフな働きぶり
ウクライナ国内を移動する間、共に行動したピースウィンズ海外事業部長の山本理夏と中東・東欧マネージャー内海旬子の仕事ぶりを垣間見ることができた。普段は在宅勤務のため、会議の時くらいしか顔を見る機会がない(それも画面越し)が、一緒に行動して改めて彼女たちのタフさに感銘を受けた。
出張したのは10 月の終わりから11 月の初め。イスラエルのガザ地区への攻撃が1カ月になろうとする頃だった。ふたりは毎朝、ホテルや移動中の車の中で東エルサレムの事務所とオンライン会議を開いていた。通信遮断により、ガザにいるパレスチナ人スタッフと連絡が取れなくなった。みんな無事なのか? どうやってエジプトから支援物資を運び入れるのか。誰とどう連携すればいいのか……、ウクライナの大平原を爆走する車の中で、こうした難題への対処について、ふたりは現場からの報告を聞いて次々と指示を出していく。ある朝など、移動中の車の中で内海がガザ会議の後、モルドバ会議に出席し、立て続けにシリア会議に出るのを見た。今年はトルコ大地震があり、モロッコやアフガニスタンの大地震があり、ハワイ・マウイ島の山火事があって、ガザ爆撃があった。ロシア侵攻から2年が近づいても出口の見えないウクライナ情勢だけでなく、世界各地の人々の苦難にふたりは立ち向かっている。
以前、山本に話を聞いた時、「できる支援があるなら、やらない理由はない」という言葉を聞いたことがある。軽やかな言い回しに、人道支援のプロフェッショナリズムを見た。内海はNGOの仕事について「大きな事業は国連や国がやればいい。私たちNGOはニッチなんです。それがおもしろいと思う人にとっては、おもしろい」と言った。素人の私からすると数億円規模の事業が「ニッチ」なのかはよくわからないが、現場に軸足を置く彼女らしい言い方だと思った。国連の事業やODA(政府開発援助)と違って、NGO(非政府組織)であるピースウィンズが手掛ける事業は「国益」のためではなく、「助けを必要とする人々」のために行われる。政府資金の助成を受ける場合には行動の制約を受けることがあるものの、自己資金を使う限り誰の制約も受けることはない。ニッチであろうと、その自己裁量にNGOの矜持があるという意味だと受け取った。
NGOにはさまざまなバックグラウンドを持った人がいるが、最初に書いた幼稚園の改修を担当した畠中太も一風変わっている。建設エンジニアとしてオリエンタルコンサルタンツグローバルに籍を置く彼は、2007年から2年近く、会社を休んで現在の南スーダンで小学校や診療所を建設するピースウィンズのプロジェクトに参加。2022 年にも5カ月会社を休んで、ウガンダの学校トイレや手洗い場の建設に従事した。そして今回は、「定年になる前の終活(できることをやっておく)」と、ウクライナ事業に1年間参加したという。担当してきた幼稚園の再開を確認して、12月にはまた会社員に戻っていく。いろんな働き方があるものだ。
ピースウィンズがこれまでウクライナと隣国で行ってきた支援
この仕事に関わるまで私自身まったく知らなかったのだが、ピースウィンズはロシアの侵攻以降、ウクライナとモルドバで地元NGOと連携しながら、いくつもの事業を手がけてきた。その主なものを簡単に紹介したい。
・脆弱層住民の退避支援(ウクライナの東部・南部の戦闘の激しい地域から、高齢者や障害者、子ども連れの女性などの安全な地域への退避と移動先での生活をサポート。1万人以上が安全な地域に逃れることができた)
・病院への発電機提供(停電で十分な医療を提供できなかった東部の病院に発電機を提供)
・隣国モルドバにおけるウクライナ避難民への食料・日用品提供(避難所で暮らす15万人以上に温かい食事や日用品を届けた)
・医薬品支援(医薬品が不足する病院に必要な医薬品を届けている)
・医療機器支援(CTスキャナや超音波検査機など不足する医療器具を提供している)
・モルドバでの教育支援(避難所でもウクライナの学校のオンライン授業を受けられるよう、パソコンやWi-Fiを備えた学習スペースを整備・運営)
・教育機器支援(ロシア軍によって一時占領され、破壊された学校に、机や椅子、黒板や音響設備などを提供)
・ウクライナ西部に逃れた国内避難民の心のケアと法的支援(カウンセリングなどを通じて、避難した人々の傷ついた心のケアをし、必要書類を整えるための法律相談を提供した)
・モバイルクリニック(車で移動する医療スタッフが、医療施設から離れた地方に暮らす女性に検査の機会を提供。必要に応じて心のケアにもあたる)
最初にも書いたが、NGOは「細々と」事業をやっていると思っていた私には、巨大なCTスキャンを購入して備え付けるまでの手はずを整えたり、1万人もの人々が危険な地域から逃れるのを手助けしたり、15万人もの避難民に食事や日用品を届けているなど想像もしていないことだった。
「今、ウクライナで男性であること」の苦悩
事業地を見て回るのが目的だったため、ウクライナの人々と長く語り合う時間はなかったが、ピースウィンズのウクライナ人スタッフと断片的に交わした会話から、今のウクライナの状況を推しはかることができた。
ある女性スタッフは進学のためキーウに来てそのまま暮らしているが、出身は南部のロシア占領地域で、両親は今もそこで暮らしている。無事は確認しているが、会いに行くことも、来てもらうこともできない。別の女性スタッフは夫とトルコに旅した時の思い出を楽しそうに語ってくれた。だが、男性の出国が許されない現状では、夫婦で海外旅行をする可能性はない。
もうひとりの女性スタッフは、ロシアによる侵攻直前、自然に恵まれたブチャ地区にアパートを買おうと思っていたが、決めきれないうちにロシアが入ってきて一帯を蹂躙した。当時、ロシア軍がベラルーシの国境周辺に集結していたため、首都キーウが危ないと思った人々は、「田舎なら大丈夫だろう」と郊外のブチャ地区に避難したが、逆にそこでロシア軍が住民を大量に虐殺。ロシア軍が撤退した後に400人以上の遺体が残されることになった。
出国禁止の対象となり、いつ徴兵されてもおかしくない男性スタッフに、聞いても良いのかどうか迷いながら「今、ウクライナで男性であること」は何を意味するのか聞いてみた。普段とても明るくて雄弁な彼がしばらく考えてから、流暢な英語でこう言った。「海外に出られないことは居心地が悪いけれど、まあそれは我慢できる。だけど辛いのは将来を決められないこと。家のリフォームをしたいけれど、手をつけて明日徴兵されたら妻はどうすればいいんだろうと考えるとためらってしまう。問題は男性だけのものではない。僕が出張の間にブラックアウトが起きて、3人の子供と家に残っていた妻が泣きながら電話してきたことがある。遠出するときは残された家族の心配をしなければならないし、家族は僕の身を案じなければならない。先が見えなくて、家族の身が心配なのは、女性も男性も変わらない。ただ、本当にいつ徴兵されるかわからない年齢の男性として、今の自分の生活を説明しろと言われると、『継続性がない』と答えるでしょう。明日の予定くらいは辛うじて決められる。でも、3日先に何が起きているかなんてわからない。先のことを何も決められないのです」
閉鎖された国境
さまざまなものを見て、話を聞いて、ウクライナを離れる日にも「戦争の影」は姿を現した。朝、キーウを車で出発して、モルドバを目指していたところ、12:45ウクライナ全土にアラートが発出された。ロシアでミグ戦闘機が飛び立ち、その目的地が不明のために全土が警報対象となった。何度かウクライナを訪問している山本が言った。「国境が閉鎖されるかもしれない」。
果たして14:50に国境に辿り着くと、ゲートは閉鎖され、人も車も通行は許されず、私たちの車の前に20台以上の列ができていた。警報が解除されなければゲートは開かない。出国するだけなのだから、とっとと通して欲しいと思うが、徴兵を逃れようとする男性が隠れていないかといった確認もあり、車は1台1台丁寧に検査しなければならない。
警報の解除を待つうちに、疑問が湧いてきた。警報が出ている間、原則としてシェルターに避難しなければならないが、車列の人々は動く気配はない。理屈の上では、この車列が攻撃される可能性はあるものの、おそらく本気でその心配をする人はいない。このあたりにも、「日常と非日常が入り混じる」中で現実的な選択をしながら生活するしかないウクライナの暮らしの実相がある。もしも、このまま警報が解除されず外出禁止の時間になったら、出国を待つ人々はどうするのだろうか、とも考えた。
そうこうするうち、15:10に警報が解除され、車列はジリジリと前進を始めた。結局、ゲートに辿り着いてから3時間近く経った17:35、私たちの車は国境の検問を越えてモルドバに入国した。面倒な検査を通過した解放感と、警報が響くことのないモルドバに入った安堵で、少し気持ちが緩んだような気がした。入国から出国まで1週間、特段危険なことは何もなかったとはいえ、私の胸にも「非日常」は刻まれていたのだろう。