「受け入れは限界」――申請者急増に苦慮するドイツの移民難民庁

執筆者:三好範英 2024年1月22日
エリア: 中東 ヨーロッパ
ニュルンベルクにある連邦移民難民庁の正門(2023年11月22日、筆者撮影)
ドイツの難民認定・支援機関「連邦移民難民庁」は、難民認定申請者の急増に直面し、処理が追い付かない状況が続いている。同庁は審査官の人員を増やすなどして対応し、人権尊重の姿勢に変化はないと強調するが、議員や政府高官の話を聞くと、移民や難民をめぐるドイツ社会の雰囲気が、メルケル政権時代とは様変わりしていた。

 ヨーロッパではここ数年、アフリカ、中東から流入する不法移民の数が急増し、社会不安を引き起こしている。それを背景に、各国で右派ポピュリズム政党の支持拡大が顕著だ。ドイツの難民認定審査の最前線にある難民認定・支援機関「連邦移民難民庁」(BAMF)本部を訪ね、申請者急増に苦慮している現状を見た。

「審査」と「社会統合」を所管

 移民難民庁は、首都ベルリンから特急列車で約3時間、ドイツ南部バイエルン州第2の都市ニュルンベルクに本部が設けられている。

 ニュルンベルクと聞けば、ドイツのことを勉強した人ならば、「国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」の党大会が開かれた場所として認識しているだろう。1935年には当地で臨時国会が開かれ、ユダヤ人から市民権を剥奪する「ニュルンベルク法」が採択された。第2次世界大戦後、連合軍がナチの戦争犯罪を裁く「ニュルンベルク国際軍事裁判」を開いた場所であることは言うまでもない。

 同市は神聖ローマ皇帝直属の自由帝国都市であり、ドイツナショナリズムの象徴としての歴史を持っていたことから、ナチ党が党大会開催の場所としたのだが、戦後は非道なナチ支配を象徴する町となってしまった。また、西ドイツ諸都市の中で東西世界を分断する「鉄のカーテン」に近いこともあり、東欧諸国や東ドイツから多くの追放民、難民が流入した。戦後のニュルンベルクはこうした人々を積極的に救済する「人権都市」としてまちづくりをしてきた。連邦難民認定庁(移民難民庁の前身)が1996年に当地に移転した一つの理由だという。

 移民難民庁の建物は、市街地の南部、ナチが党大会を開いた「帝国党大会会場」の隣の敷地にあり、赤いレンガ造りのどこかいかつい雰囲気を持っている。約束通りに2023年11月22日午前10時、受付を済ませ、ガラス張りの待合スペースで並べられているパンフレットを見ていると、「中に入ってください」というアナウンスが流れた。ヨヘン・ヘーヴェケンマイヤー報道官と報道担当職員2人、審査官の育成に当たる研修教官の計4人が建物入り口で待っていた。

 建物の中に入るとまず、「ここはもともと何の建物だったか知っていますか」と報道官に聞かれた。「知らない」と答えると、「ナチ親衛隊(SS)兵舎として建てられました。ナチが好んだ新古典派的な建築様式です」と言う。確かにベルリンでも、ナチ時代に建てられた外務省や財務省の建物は同じ雰囲気を持っていることを思い出した。天井には独特の装飾が施されている。

 会議室でまずドイツの難民認定制度の概要を聞いたが、日本では出入国在留管理庁が出入国管理、難民認定審査、在留外国人の生活支援、不法残留者の摘発、送還など、およそ外国人受け入れに関する包括的な行政を担うのに対して、ドイツの移民難民庁の所管は、難民審査と移民の社会統合とかなり限定されている。出入国管理は連邦警察、難民申請者の収容施設や支援、在留資格のない人の送還は州や自治体の所管である。

 実際の難民認定審査を行うのは、全国に50カ所ある地方局であり、約8000人の職員が働いている。ニュルンベルクの本部の職員数は1300人ほどで、主に地方局の統括、政策の策定、職員の研修などを行っている。

移民難民庁本部の建物天井にあるナチ時代の装飾(2023年11月22日、筆者撮影)

難民申請者の30~40%が身分証明書なし

 本サイトでも、『難民危機「第3波」到来でドイツに高まる「反移民」の世論』(2023年10月17日)で指摘したように、現在ヨーロッパは冷戦崩壊後の不法移民流入の第3波に直面しており、国民の不安を背景に各国で右派ポピュリズム政党が台頭している。ドイツでも新興政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が、世論調査で最大野党のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)に次ぐ支持を集めている。

 こうした状況に対し、オラフ・ショルツ政権は、不法移民の流入制限や送還促進といった移民制限策に舵を切っている。移民難民庁にとっても現状は異常事態であり、年間申請者25万人の処理が限界と言われる現場の仕事が回らなくなっていることへの危機感が表明された。

 申請者が増えたと言っても、100万人以上が流入した2015年の難民危機ほどではないのでは、という私の質問に対し、報道官は、「10月までの申請者数は27万人近くになり、前年に比べて50%以上増えている。庁内の配置を柔軟化し、審査官(ドイツ語でEntscheider=決定者)にかつての経験者や、新たに審査官としての訓練を施した職員を当てて対処している」と庁内の配置転換で何とか切り抜けている実態を明らかにした。

 ニュルンベルクの本庁では実際の難民審査は行っていない。取材するには地方局に行かねばならない。近くの町の地方局で審査の現場を取材できることになり、報道官以外の3人と車に乗り込んだ。向かう先は、車で30分ほどのツィルンドルフという町だった。

 局長が出迎えてくれたが、まず現場を見てからということで、審査が行われている小部屋に案内された。

 眼鏡をかけた女性職員が、並んで座る難民申請者と通訳を前に、「連邦庁にようこそ」と話しかける。新型コロナ流行時に設置されたのだろうアクリル板の仕切りがある。

 私が同席した部屋の申請者は、クルド系トルコ人の男性(31)で、左耳にピアスをし、黒いシャツに白いジャージのラフな服装だった。通訳は知的な雰囲気のあるひげ面の男性で、おそらくトルコ系ドイツ人なのだろう。

 職員は大きなコンピューターのディスプレイを見ながら、通訳を介して申請者に次々と質問をし、聞き取った内容を打ち込んでいく。

 質問を列挙すれば、だいたい次のようだった。

 結婚しているか。子供はいるか。両親の名前は何で、どこに住んでいるか。出身地はどこか。クルド人か。何年間学校に行ったか。仕事についているか。どのようにドイツに来たのか。出生証明書、身分証明書、運転免許証などを所持しているか。

 身元確認の基礎となるこれらの書類をコピーし、申請者は聞き取った内容が記載された書類に署名した。最後に難民申請者としての在留許可証が手交され、1回目の審査は終わった。時間は約1時間かかった。

 局長室でヨハネス・シェーファー局長が質問に答えた。難民審査は2回面接が行われ、私が同席したのは1回目の面接だった。1回目審査はアイデンティティ(身元)を確認するためであり、分かりやすく言えば、どうやってドイツに来たかを聞くが、なぜドイツに来たかは2回目の審査で聞くことになる。

 局長によると「申請者は(連邦警察などの)関係機関によって、指紋、写真などは採取されており、その情報はすでに我々に報告されている」と言う。

 面接では親族に関する質問が繰り返されたが、ドイツにすでに親族がいれば、その人間の身元や、その人間が本当にどこから来たのか調べることができるので重要だ。

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カテゴリ: 政治 社会
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執筆者プロフィール
三好範英(みよしのりひで) 1959年東京都生まれ。ジャーナリスト。東京大学教養学部相関社会科学分科卒業後、1982年読売新聞社入社。バンコク、プノンペン特派員、ベルリン特派員、編集委員を歴任。著書に『本音化するヨーロッパ 裏切られた統合の理想』(幻冬舎新書)、『メルケルと右傾化するドイツ』(光文社新書)、『ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱』(光文社新書、第25回山本七平賞特別賞を受賞)など。
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