中東―危機の震源を読む (64)

中東という「危機と機会」に溢れた世界

執筆者:池内恵 2010年4月号
エリア: 中東

 二〇〇五年一月号から続けてきたこの連載も、本誌の紙版の休刊でひと区切りとせざるを得ない。それまでの『フォーサイト』の国際情勢ウォッチングの連載は、著名な学者、ジャーナリスト、作家がほとんどで、知名度も経験も乏しい私に声がかかった時は緊張した。独自のニュースソースを抱え、機動力や組織力を備えた第一線のジャーナリストたちに、大学に勤めながら中東の動静を窺っている筆者のような者の視点がどの程度通用するのか、大いに不安を感じながら始めたことを記憶している。結果として五年四カ月にわたって続けてこられたことは、何よりも筆者にとって糧となった。
 中東に次々と生起する事象を、少し引いた位置から意味づけていき、全体像の中に収めていく作業の必要性を、筆者自身が毎回再発見した。ジャーナリストは目の前の現象の解説に拘泥しがちで全体の文脈と意味づけを見失いがちだ。逆に研究者は常に変わらぬ理論を打ち出して現実と乖離していく。その間をつなぐ役割を誰かが担わねばならない。そういった使命感を抱いての連載だった。そのことを多くの読者が受け止めてくれたことに感謝している。
 昨年半ばまでの連載は、ほぼそのままの形で、『中東危機の震源を読む』(新潮選書)に収めた。過去五年の中東情勢を、その時々の文脈を再現しながら振り返ることで、これまでの「軌跡」を踏まえ、今後の中東情勢がどの方向に発展していくか、いわば「投射角」を思い描くために読んでいただければ幸いである。
 そもそも連載を始める前は、中東をめぐって毎号取り上げるに値するテーマがあるのか、という不安があったのだが、それは杞憂だった。毎回、数多くの候補の中からテーマを選択することが、最大の苦労だったといってもいい。イラク、パレスチナ、イラン、レバノンといった中東諸国の紛争や危機は、国際社会を構成する主要な国家にとって避けて通れない課題であり続けてきた。他方、ドバイをはじめとする湾岸産油国の経済発展は、国際政治経済に、欧米ともアジアとも別種の「もう一つの極」を形成しかけている。
 さほど人口が多いわけでなく、経済発展の中心でもないにもかかわらず、なぜ中東という小さな地域がここまでの重要性を持ってしまうのだろうか。その背景は、国際社会における「理念」の問題を抜きには語れない。単純なパワーの問題を超えた、国際社会を構成する原理や規範をめぐる問題や挑戦を中東が発信し続けていることが、中東を国際社会の重要な地域とし、「危機の震源」ともしているのである。
 中東から発信されるイスラーム主義のイデオロギーがもたらす影響は、中東諸国の安定性を揺り動かすだけでなく、自由主義を根幹におく近代の国際社会の規範と制度に挑戦する。イスラーム教の政治理念は、イラクやレバノンやパレスチナの各国内政に影響を及ぼすとともに、世界各地のムスリム(イスラーム教徒)の慈善団体や政党活動、あるいはテロリズム諸集団の組織化や行動といった多岐にわたる場所に波及し、相互に組織上のつながりなしに、しばしば同時並行で発展していく。
 ムスリムの帰属意識は、西欧諸国の都市郊外に特定民族が集まって暮らす状態を生み、フランスでの暴動のように重大な治安上の脅威となることもある。そこに内相として対処したサルコジが、その発言や手法を批判されながらも大統領への道を駆け上っていった。イスラーム教の価値規範とムスリムの独自の帰属意識や集団形成という挑戦に対処することは、欧米とアジア・アフリカを問わず、世界各国の政治指導者の力量を試す試金石となっている。
 ある意味で、オバマを大統領に選んだのも、イスラームをめぐる諸問題への米国の回答と見ることができる。「西洋対イスラーム」という理念と現実政治の入り混じった対立に対し、「移民・多民族・多宗教国家」「グローバル化を主導し、そのものがグローバルな存在である米国」という理念を打ち返したのである。

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執筆者プロフィール
池内恵(いけうちさとし) 東京大学先端科学技術研究センター グローバルセキュリティ・宗教分野教授。1973年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得退学。日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター准教授を経て、2008年10月より東京大学先端科学技術研究センター准教授、2018年10月より現職。著書に『現代アラブの社会思想』(講談社現代新書、2002年大佛次郎論壇賞)、『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2009年サントリー学芸賞)、『イスラーム国の衝撃』(文春新書)、『【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』 (新潮選書)、 本誌連載をまとめた『中東 危機の震源を読む』(同)などがある。個人ブログ「中東・イスラーム学の風姿花伝」(http://ikeuchisatoshi.com/)。
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