すがすがしい7月の朝だった。乗船プレジデント・クリーブランドが横浜港大桟橋を出るのは、あさっての午後である。
洋行の客らしく少し気取ってスーツケースを預け、丸の内側レストランで朝食をとる。まだ早いのに当時の東京駅では一時預り、赤帽、靴磨きが、それぞれの位置で待機していた。
私は都電で九段のフルブライト委員会へ行った。
目指す留学先へ行く前に、ハワイ大学イースト・ウエスト・センターで5週間のオリエンテーションがあるという。アジア各国から来る留学生を、いったんハワイで受け止め、米本土での学業や生活の常識を教えるのである。
たとえば当時の日本には、紀ノ国屋など少数の例外を除いて、スーパーマーケットが存在しなかった。野菜は八百屋、肉は肉屋、豆腐は豆腐屋が作って売っていた。
留学に旅立つ少し前のこと、妻と阪和線・長居駅近い商店街を散歩していて「そうだ、レタスの食べ方を実習しておこう」との話になり、八百屋に入って「レタスください」と注文した。
オヤジは奥に入って、一枚の杓子菜のような菜っ葉を持って出てきた。
そんなのではない。もっと、こう丸くなったやつだ。アメリカ映画の中で見たんだけど、と両手で結球の形を作って説明した。親父は不思議そうな顔で「ふーん、ウチはこれをレタスやいうて売ってまんねん。こんど問屋に聞いときまっさ」と答えたものである。
レタス1枚でこの違い。いきなり米本土に着いて、いちいち小さい「発見」に驚くのも結構だが、さほど意味のない日米の差は、ハワイで習っておくのが賢明だろう。
日本とくに東京は、昭和35年、すでにかなりの程度アメリカナイズされていた。だが東南アジア諸国から来た学生には、オリエンテーションは必要だっただろう。
東京最後の夜、大阪から来た三人で飲み歩き、今の国立劇場に近い毎日新聞麹町寮に帰ると「あたしから御餞別だよ」、普段から二百三高地に結ってる寮の小母さんが、ビールを一本抜いて待っていた。(『新潮45』2016年7月号より転載)
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