1960年のクリスマス前、私はシラキュースから一緒に行った日本人留学生3人と別れ、ワシントンDCの毎日新聞支局へ行った。大森実さんと支局員2人がいた。壁にワシントンと東京、2都市の時計があり、通信社のチッカーが休みなく最新情報を吐き出していた。これこそジャーナリズムの現場だという、私にとってはもっとも刺激的な光景だった。
大森氏は神戸の人で大阪本社社会部記者だったこともあり、つまり、私にとっての直系の先輩であった。初めて会う私を「おう、よく来た」と機嫌良く迎えてくれた。
剛腕、型破りの人であった。シベリアの「異国の丘」で使役されていた旧日本軍の将兵が、やっと帰国を許された。その再開第一船第一陣が興安丸に乗って祖国へ帰ってくる。舞鶴到着の前に社用機が洋上で船をとらえ、祖国に着いた時には街頭で号外を配る。大森氏はその号外を書く仕事を命じられた。
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