Bookworm (16)

ティリー・ウォルデン 著 有澤真庭 訳『スピン』

評者:鴻巣友季子(翻訳家)

2018年4月8日
エリア: 北米 中東 アジア

元スケート選手が描く
グラフィック・ノベル

 すでに数々の大きな賞を受け、コミック界のアカデミー賞「アイズナー賞」の候補にも挙げられた、アメリカでとびきりの注目株だ。

Tillie Walden 1996年ニュージャージー州生まれ。漫画家。17歳までの12年間、フィギュアとシンクロナイズドスケートの競技を続ける。米コミック界の注目株。

 元スケート選手の漫画作家による、スケート競技を題材にしたグラフィック・ノベルである。グラフィック・ノベルとは、ストーリー性のある長編コミックのこと。本作は柔らかな線と、墨絵を思わせる色彩を抑えた絵柄で、言葉数が少なく、アメリカンコミックに特徴的な派手な擬音語なども一切使われない。
 物語の本質をよく表したこの作風は、日本のマンガに深く影響を受けたこととも関係があると、ウォルデンは述べている。幼少時に「ヒカルの碁」や「HUNTER×HUNTER」などの日本のモノクロ漫画に親しみ、手塚治虫のストーリー漫画で創作に開眼、数々のジブリ作品にもインスパイアされていると言う。4作目となる本書で、長年温めてきた自伝的コミックに初めて挑んだ。
 ティリーは10代の女の子。スケートが題材だが、いわゆるスポーツ根性ものや、まぶしい青春ものは期待すべからず。少女のさまざまなトラウマや悩みが複雑にからみあいながら、物語は静かに展開していく。
 ティリーは厳しい選手生活を送りながら、競技に情熱を注ぎきれない。それでも、それなりの成績を上げるのでやめられないのだ。世界トップクラスまではいかないが、全米の分厚い中間層のなかでは最上位。世界中のあらゆる分野に、たくさんのティリーがいるだろう。
 悩みはスケートだけではない。親に愛されているのか心もとなく、リンクや学校では陰湿ないじめにあい、男性に乱暴されたことも……。もうひとつ切実な問題は、彼女が同性愛者である事実とどう向き合ったらいいかわからないこと。同性のコーチやリンクメイトや学校の友だちを好きになっては傷ついてしまう。
 ウォルデンは本作に最も影響を与えた作品として、「アイズナー賞」を受け、同名ミュージカルも軒並み賞をさらった、アリソン・べクダルの自伝的コミック『Fun Home』をあげている。『Fun Home』はバイセクシャルの父をもつレズビアンの主人公とその家族の葛藤と悲劇を、どこかユーモラスな筆致で描いているが、『スピン』はひりつく感情の起伏を誇張せず、あくまで淡々と綴っていく。とはいえ、いくつかの場面は、文字どおり泣きながら描いたと、ウォルデンは語っている。心の中にうつろさを抱えたすべての読者に、静かに響く1冊だ。

カテゴリ: カルチャー
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