本連載の主人公、6月に104歳で他界した青森県弘前市の波多江たまさんの遺品の絵を、第1回目でプロローグとして紹介させてもらった。1936(昭和11)年2月26日に起きた「二・二六事件」で、蹶起した青年将校ら15人が陸軍衛戍刑務所で銃殺刑となった同年7月12日の朝。隣接する代々木原演習場の一角に仮設された遺体引き渡し所の絵だ。絵に書きこまれたメモに、「安田さんは、デスマスクを取っていた」とある。気になった読者もいることだろう。
「安田さん」とは、たまさんの兄、対馬勝雄歩兵中尉=享年28、青森県出身=らと一緒に刑死した安田優(ゆたか)砲兵少尉=同24、熊本県天草出身=の遺族のことだ。
突然の処刑の通知とともに遺体引き取りに呼ばれた遺族たちは、5つの仮設テントの前に列をつくった。悲痛なすすり泣きと沈黙の時間のさなか、「『少し待ってください。いま安田さんがデスマスクを取っていますから』と刑務所長から言われた」と、たまさんは生前に回想した。対馬中尉の遺族、付き添いの人々の前の順番で遺体と対面したのが、安田家の遺族だった。
生々しい銃弾痕
デスマスクの存在を筆者が初めて知ったのは、事件の刑死者遺族の会「仏心会」の2代目代表、河野司さん(故人)の著書『二・二六事件』(日本週報社、1957年)をたまさんから読ませてもらい、「叛乱将校の銃殺」というくだりを開いた時だ。〈某騎兵少尉が外套の下に隠した小型カメラで秘かに撮影した〉という処刑前の唯一の刑場写真と並べて、デスマスクの写真がある。
ふっくらとした頬、眠るように閉じた目からは、
〈人事全く了る。安らかに眠につかむ 昭和十一年七月十一日午后十一時〉
〈我を愛せむより国を愛するの至誠に殉ず 昭和十一年七月十二日刑死前五分〉
との辞世の心境が伝わる。だが両眉の間には、まるで血が滲んだような弾痕の裂け目が見え、青年将校らがたどった凄惨な運命を生々しく伝える。
デスマスクを取ろうと決めたのが、3歳上の長兄・薫さん(故人)だった。京都帝国大学に在学中、マルクス主義研究サークルの学生らが治安維持法で一斉摘発された「京都学連事件」(1925年)から続く特高の摘発で、1931年に検挙された。その後、経済誌記者を経て事件当時は内務省で働いていた。その動機は「天皇専制への憎悪」であったという。
〈七月十一日が(処刑前日の)最後の面会日であり、この時彼(安田少尉)の関心事から勅命等により裁判の決定が取り消されるのではないかという、わずかな希望を持っていたのではないかと推測し、悲しい思いに圧倒され(中略)デスマスク作成が唯一の憎悪の表現手段と考え〉
と、薫さんが末弟善三郎さん(93)に残した1998年4月4日の書簡にある(『二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿』所収、同時代社)。
「なぜかというと、『デスマスクは軍の官僚たちに対する見せしめだ。お前たちが弟をこういう姿にしたんだ、と忘れさせぬためだ』と長兄は言っていた」
善三郎さんは、薫さんの終生消えなかった怒りをそう語った。
安田少尉は、二・二六事件犠牲者の1人、渡邊錠太郎陸軍教育総監の邸宅を部隊と襲撃した際、右脚を負傷し、事件が終息した2月29日午後まで、赤坂伝馬町(現在の元赤坂1丁目)の前田外科病院(現・赤坂見附前田病院)に入院した。デスマスクは、薫さんの願いで遺体引き渡しの場に院長が立ち会い、読経の後、石膏の型を取った。同席した陸軍士官学校同期の親友高矢三郎氏(故人)の手記はつづる。
〈先ず看護婦が繃帯を取り除く。正に眉間の真ん中に一発(中略)アルコールで顔全体をきれいにしワセリンを塗った後、先生が十五番位の針金で丁度剣道の面の金具のような骨格を作り、全面に厚く盛り上げた。ややあって、固まった石膏を先生が静かに持ち上げる。裏返された先生が、「あゝよく出来ました」と原型に一礼されたのが印象深い〉
原型からデスマスクは3面作られた。1つは高矢氏の和歌山の自宅に置かれ、1945年の空襲で焼失した。残る2面は戦後、郷里の天草市本渡歴史民俗資料館と、防衛省防衛研究所に寄贈された。蹶起将校の遺品で唯一のデスマスク。天草の資料館では二・二六事件から80周年に当たった2016年、善三郎さんを語り部として大勢の人に公開された。安田少尉は死してなお事件を語り続けている。
事件後を生き抜いた同志
「あの日、安田少尉の弟さんが『何か困りごとがありましたら、いつでも声を掛けてください。後のご供養も自分に任せてください』と親切に話してくれた。以来、安田さんのご遺族を近しく感じてきた」
たまさんは、104歳の人生に焼き付けられた兄の処刑の朝を回想するたび、「地獄で仏に出会ったよう」という心の救いをこう語った。この弟さんは、安田家の三男、祖龍氏(本名・尚、故人)。事件のころ、駒沢大学で仏教を学んでおり、戦後、天草下島の本渡町(現天草市)にある曹洞宗明徳寺の住職となった人だ。2歳上だった安田少尉の菩提を弔いながら、1972年に他界した。
「祖龍がこんな話をしていた。実家が百姓をしていたから、農繁期に赤ん坊だった私をおんぶして田んぼの作業をしていた。ある日、私が背中にそそう(小便)をしたらしい。兄が小学3年のころだという。もうこんな生活はいやだと言って、自分から坊主を志した」
六男の善三郎さんは振り返る。
事件の当時まだ小学3年生で、天草下島の旧宮地村の実家で親と暮らしていた。1945年2月に陸軍士官学校予科に入ったが、半年後に敗戦の日を迎え、戦後、慶應義塾大学法学部を卒業して「武蔵紙業」(現ムサシ)に勤めた後、72歳から13年間、仏心会の代表を務めた。
「たまさんは私より11歳年長だが、遺族も世代交代して、事件のあった日々をじかに知り、処刑された身内の遺骨を抱いた経験を持つ人は、私たちくらいになった」
筆者が初めて事件の刑死者、殉難者の追悼法要(東京・賢崇寺)を取材した今年2月26日、善三郎さんはそう語り、高齢のため長らく法要で会えなくなっていたたまさんの健康を気遣った。たまさんが仏心会へ「最後の挨拶」となった手紙を送ったことを前回紹介したが、その文中でも遺体引き取りの日の心遣いへの感謝を安田さんに述べ、互いに「事件後」を生き抜いた同志の存在になっていた。
「お兄さん(対馬中尉)のご遺骨を抱いて列車で青森に帰った時、(監視の憲兵が同乗して)一番最後まで降ろされなかったとか、たまさんからご苦労を伺った。そういう経験をした方はもうおられない。私は天草の田舎にいて、(安田少尉の)葬儀が許可されたのが10月だった。遺骨がずっと実家にあり、デスマスクの1つも父の清五郎(故人)が持ち帰った。そのデスマスクをよく見ていましたよ。額の銃痕だけでなく、鼻に出血止めの脱脂綿が詰められたのも分かった。骨箱を開けると、一番上に頭がい骨がそのままあって、火葬のまきの火力が弱かったのだろう、血(の跡)が走っていて、死を生々しく感じ取った」
2月26日の全殉難者法要に参列し、境内の青年将校ら「二十二士」の分骨の墓に花を捧げた善三郎さんは、筆者にそう語った。
やはり、二・二六事件と兄の死は善三郎さんの人生に「いまもここにある」ものとして刻印されていた。
93歳ながら、2月26日の全殉難者法要と、7月12日の青年将校らの慰霊法要には参列を欠かさず、いつも凛とした口調とたたずまいに、たまさんと同じく、生ある限り「語り部」の使命を背負い続ける人の決意を感じた。
喪服姿の遺族たちとの交流を邪魔してはいけないと、あらためての取材をお願いし、神奈川県葉山町の自宅を訪ねたのが翌3月30日。庭から望む湘南の早春の丘陵は、山桜の淡紅色に染まっていた。
故郷天草への思い抱き
「私の生家は宮地村の約3000人の農村集落にあり、戦前には10軒くらいの大地主、その下に小地主(自作農)、自作兼小作、そして100戸ほどの小作がいる階級社会だった」
善三郎さんの話は、家族の歴史から始まった。祖父善吉さん(故人)は大地主の家の長男に生まれたが、「“ばか正直”な生き方をしたために曾祖父から廃嫡され、わずか5反の田んぼと多少の畑を耕す自作農になり、父が米穀の仲買人を仕事にして現金を稼いだ」。
母コヨさん(故人)との間に6人の息子、4人の娘をもうけ、貧乏な暮らしだったというが、「お前たちに財産は残せないが、教育を残してやる」「お前たちは村では本家の子どもの上席に座れないが、村を出て出世し、本家を見返せ」と常々、家訓のように言い聞かせた。
長男の薫さんは期待通りに旧制福岡高校、京都帝大経済学部に進み、次男の優は陸軍士官学校に入った。兄弟そろって村始まって以来という大出世だった。
善三郎さんには、13も年長の安田少尉と同じ屋根の下で暮らした歳月はない。
「生まれた時には旧制天草中学に行っていた。私が5つだった昭和5年、優は転校先の熊本の済々黌(旧制中学)を出て士官学校予科に入った。思い出といえば、川にウナギ捕りのワナを仕掛けに行くのに連れていってくれたり、士官学校の夏休みに帰省しての帰り道、船着き場まで私が軍刀を担いで付いていったり。『遅くなるからもう帰れ』と言われた。優しい兄だったのを覚えている」
創立1879(明治12)年、熊本最古の県立高校である済々黌は、現在も文武両道の名門校として全国に知られる。熊本は西南戦争で勇名をはせた熊本鎮台、後身の第6師団があり、熊本陸軍幼年学校も置かれた軍都。戦前の済々黌は多くの軍人を輩出した。
「優は初め、父の希望もあって大学へ進むのが第1志望だった。弁護士になりたかったが、『法律は金の力で左右されることが多いから、やめた』と考えを変えて士官学校を選んだ」
と善三郎さんは言う。
「しかし、中学校では『天草から来た』と、ばかにされたようだ」
美しい島々が連なる天草地方は、苛烈なキリスト教徒迫害と重税取り立てに端を発した1637(寛永14)年の島原・天草の乱で知られる。荒廃の後、天領となって移民政策などで復興されたが、耕地や産業も乏しい離島の貧しさは、大地主支配もあって明治以後も変わらず、人々は出稼ぎに収入を求め、村々を歩く女衒への娘身売りと海外への人身売買が「唐行き(からゆき)さん」の名を生んだ。安田少尉の済々黌時代は、とりわけ昭和恐慌が農村の生業に大打撃を与えていた。
こうして近代の恩恵から取り残された古里の原風景は、後の二・二六事件で蹶起した青年将校の同志、対馬勝雄中尉を生んだ東北にも重なる。
「天草女という言葉が昔あった。天草出身の女性が貧しさ故に当時の満州とか南方へ連れていかれ身を売っていた、という悲しい現実によるものだった。熊本は細川藩のお膝元ということもあり、天領だった天草の歴史と併せて蔑むようなやつが兄の学校にもいた」
「東北、北海道までそうだったと思う。多くの兵隊さんが農村から戦地に来ていた。大事な働き手を農家は奪われるのだから、生活苦になれば、次は娘を身売りに出すしかない。そうした実情を肌で知って、何とかしなければというのが、兄たちが蹶起した訳だった」
農村窮乏への怒り
安田少尉は二・二六事件の後、東京陸軍軍法会議で被告人となるが、それに先立つ1936(昭和11)年3月1日、牛込憲兵隊の尋問調書に次のような証言を残した=以下、『安田優資料』(安田善三郎編著、1998年)より引用=。
〈私ハ小サイ時カラ不義ト不正トノ幾多ノ事ヲ見セツケラレ、非常ニ無念ニ感シテ来タ〉
〈中学校ニ入リ一番正シイノハ軍人タロウト思ヒ軍人ヲ志願シタノテアリマス(中略)共産主義ノ説明ヲ父親ニ聞キ大イニ共産主義ヲ憎ム様ニナリマシタ。実ニ軍人ノ社会ハ正シイモノト思ツテ志願シタノテアリマス〉
ところが、東京・市ケ谷台の士官学校(教育課程は予科2年、隊付き勤務6カ月、本科1年10カ月)に入った途端、生徒間の不正行為やカフェー遊びなどを知って憤慨した。しかし、教官役である村中孝次区隊長に触れて、
〈私情ヲ投ケ君国ニ殉スルノ精神ニ甦ツテ行動シテ居ラルヽコトニ非常ニ感奮〉し、家族同様の親交を結んだ。
〈其ノ親交中ノ無言ノウチニ愛国ノ士テアルコトカワカリ、無言ノ感化共鳴シ全クコノ愛国ノ至情ニハ一ツノ疑念ナク、凡テニ於テ共ニ行動出来ルモノト確信シタノテアリマス〉
村中区隊長は青年将校たちの国家革新運動の中心人物で、後に二・二六事件の首謀者となる。予科時代の安田少尉は村中との出会いから運動に共鳴し、1932(昭和7)年、旭川野砲兵第七連隊付き士官候補生として赴任した北海道の農村の現実に、自らの生き方を決めるように憂国の情を一気に深める。
〈経済上ニテ、現状ハ一君万民ノ国情ニナツテ居ラヌ事ハ明瞭ナル事テアリマス。同シ陛下ノ赤子ナカラ、農村ノ子女ト都会上層部ノ人々トノ差ノアマリニ烈シイコトハ陛下ニ対シテ申訳ナイト思ヒマス。コレハ現在ノ国家ノ機構カ悪イト思フノテアリマス。殊ニ北海道山奥ノ人民ノ生活ハ満州人等以下ノ生活ヲシテ居リマス〉
当時、北海道や東北は「昭和の大凶作」のさなか。新聞は〈七萬餘に達した凶作地方児童救済〉(同年4月2日の『北海タイムス』)、〈昭和聖代の痛恨事 婦女子の身賣り 青森で半年間に三百名〉(同年7月15日の『時事新報』青森版)といった悲劇を連日報じた。
「目を転ずれば、飛行機など兵器生産を担う重工業は財閥系大企業に独占され、その金が政党との癒着、政治腐敗の温床となり、農村の救いなき貧困という不正義を正すには実力による国家改造しかない」という確信が、安田少尉に深く育っていった。
〈殊ニ北海道ノ北見ノ方ニ行クト、十一月頃既ニ一月位迄食フ馬鈴薯モ(米、麦ハ勿論ナシ)無イトイフ有様テアリマス。然ルニ農村ノ租税ハ都市ヨリ多ク、金融ハ凡テ集中占拠サレテ居リマス〉
〈北海道ノ兵ノ如キハ、食物ハ軍隊ノ方カヨイカラ地方ニ帰ツテ農ヲヤルコトヲ厭ツテ居ル。ソシテ良兵ハ愚民ヲ作ルコトニナツテ居ル。之皆農村ノ疲弊カラテアル。之ヲ救フニハ、トウシテモ財閥重臣等ヲ排除セネハ実政(現)カ出来ヌト思フノテアリマス〉
地方の惨状から目を転ずれば、飛行機など兵器生産を担う重工業は財閥系大企業に独占され、その金が政党との癒着、政治腐敗の温床となり、「農村の救いなき貧困という不正義を正すには実力による国家改造しかない」という確信が、安田少尉に深く根を張っていった。
苦界の女性を救おうと
安田少尉は1934(昭和9)年4月に士官学校本科を卒業し、再び野砲兵第七連隊に見習士官として配属された。旭川は、心酔する村中大尉が同地の旧制中学で学び、少尉時代に旭川歩兵第二十七連隊に勤務したゆかり深い土地だ。2カ月後、同連隊の本隊が出征していた満州(中国東北部)へ派遣されて錦州(現遼寧省)に駐在し、砲兵少尉に任じられた。
満州では3年前の9月18日、日本の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した柳条湖事件を戦端に満州事変が勃発。関東軍は独断専行の軍事行動で全土を制圧し、翌1932年3月1日には、傀儡政権の満州国が発足。安田少尉の渡満前年、1933年5月31日に日中両軍が塘沽協定を結び、現地は停戦状態にあった。
農山村や辺境部に出没する匪賊の討伐を任務とした安田少尉は、ある日、日本人居留民会主催の酒席に連なった。
「親友だった佐賀勝郎氏(故人)が戦後、『砲七会』(戦友会)の機関誌に書いた優の話がある」
と善三郎さんに聞いた。
機関誌『山吹』への寄稿文(1972年1月16日)によれば、部隊の歓迎会だった。
末席の安田少尉は、酌をする芸者の1人が天草出身と知ると、〈こんな場所で働かないで天草に帰れ〉と真剣に説いた。
〈天草の女性が外地で下らぬ男たちに媚を売っているのは見るに忍びない〉
と嘆き、翌週末に佐賀氏を誘ってまた料亭に行き、〈郷(さと)へ帰れ〉と訴えた。
〈只々同郷の女性が遠い異国で、外地で戦う国軍の威をかりて、我欲をむさぼる邦人たちのおもちゃになっていることに対する憤りからほとばしる口説きである〉
と佐賀氏は記した。
給料袋を丸ごと手渡して帰り、その後も給料が出るたびに料亭に通って女性に帰郷を勧め、お金を渡した。満州駐在は短く、赴任からわずか5カ月後の同年12月、旭川の原隊へ復帰が決まると、佐賀氏に、
〈毎月、君宛に金を送るから、彼女の許に届けてくれ、必ず郷に帰る様にすすめてくれ〉
と頼み、その約束を違うことなく実行し続けた。
その女性も、家の貧しさ故に身を海外に売られた当時の「天草女」の1人だったのだろう。
それからの消息は不明だというが、安田少尉にとっては、内外に満ちる「不正義」から救い出したい古里の化身ではなかったか。その女性がせめて、青年将校の心からの勧めを受け入れる結末になっていたら、二・二六事件に参加する運命は変わっていたのか。それとも、個人の力や思いではどうにもならない苦い現実をかみしめただけだったのか。
「古里への切ないほどの愛情、苦界にある人への優しさと誠実は、安田少尉の素顔を伝えるものですね」
と善三郎さんに問うと、
「優にはたまらなかったのでしょう」
と満州の逸話に思いを寄せながら、
「ところが、それから同じ兄が、二・二六事件で人の命を奪っていく訳ですからね。これには、私はいまもって耐えられません」
と深い憂い顔になった。
村中大尉と再会、事件へ
旭川に戻り初年兵教育を担った安田少尉は、1935(昭和10)年12月20日、陸軍砲工学校(現東京・新宿区)に入校する。砲兵・工兵科将校の専門教育の場だったが、2カ月後には二・二六事件に参加する。偶然のタイミングだったのか。
事件後の翌1936年5月19日、前述した東京陸軍軍法会議の第15回公判で、安田少尉は経緯をこう答えた。
〈本年二月二十三日頃ト思ヒマスガ、私ト同ジク砲工学校入校中の鉄道第二聯隊ノ中島莞爾少尉ノ下宿ニ行ッタトキ村中孝次ガ来テ居ッテ、近ク同志ガ蹶起スルコトニナッタト告ゲラレマシタカラ、私ハ同人ヲ信用シテ居ルノデ、一身ヲ賭シテモ決行ニ参加スルト決意ヲ示シマシタ〉
直接の契機は、心酔する村中との東京での再会であった。安田少尉は同じく士官学校時代に村中を師と仰いだ同期生、文中の中島工兵少尉(佐賀県出身)と一緒に、目前に決行が迫っていた蹶起に迷わず勇んで身を投じることになった。
村中大尉は1925(大正14)年、士官学校卒業間近のころ、思想家北一輝(輝次郎、二・二六事件に連座し死刑)の著書『日本改造法案大綱』(1923年)を読み、
〈天皇ニ指揮セラレタル全日本國民ノ超法律的運動ヲ以テ先ズ今ノ政治的經濟的特權階級ヲ捨ツルヲ急トスル〉
と説く天皇・国民国家への日本改造(天皇大権発動による戒厳令、華族廃止、私有財産の制限、財閥解体と生産・資本の国家的統一、労働者の権利、国民の生活権利などを含む)に共鳴したという。
その後、旭川の歩兵第二十七連隊で初年兵教育を担う中で、兵隊たちの出自たる庶民の貧しい暮らし、農村漁村の窮乏、地方の中小企業の惨状を知り、その体験が運動の実践を志させたという。革新派青年将校たちの先駆けを成す精神的支柱だった。大尉まで昇進しながら、国家改造の運動を統制や策動で抑えようとする陸軍中央を批判し続けた。
士官学校区隊長を務めた後、軍エリート幹部コースの陸軍大学に進んだが、1934(昭和9)年11月、陸軍内で起きた「十一月事件(陸軍士官学校事件)」のため憲兵隊に検挙され、放校される。この事件は、村中大尉ら「皇道派」と呼ばれた青年将校グループと、「統制派」と色分けされた中央幕僚らの対立が激しくなる中、士官学校の教官となっていた統制派の辻正信大尉が士官候補生を使って青年将校グループの情報を集め、元老、重臣を殺害するクーデター計画を密告させたとされる。が、そのような事実があったのか否か、いまだ定かではない。
村中大尉らは1935(昭和10)年7月、
〈軍内攪乱の本源は実に中央部内軍当局の間に伏在する〉
などと事件の背景、軍の内幕を暴露する「粛軍の意見書」を、共に検挙された磯部浅一陸軍一等主計と連名で執筆。青年将校の内情を探ろうとして、〈叛乱陰謀ともいふべき事実内容を虚構捏造〉したと辻大尉らを非難し、誣告罪で告訴した書面と併せて全国の同志に拡散し、ついに免官された。対立抗争も頂点に達していた。
〈内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮して、稜威(聖なる威光)を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(刈り除く)するに非ずんば、皇謨(天皇の描く国政)を一空せん〉
〈君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは我等の任として能く為すべし〉
〈君子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さざれば破滅沈論(零落の意)をひるがえすに由なし〉(注・カッコ内はいずれも筆者)
青年将校たちが積年の訴えと決意を込め、村中大尉も筆を入れた二・二六事件の「蹶起趣意書」の一節。1936(昭和11)年2月26日の直前、安田少尉を蹶起に引き入れたのも村中大尉だった。
「『村中さえいなければ、村中とさえ出会わなければ』と事件の後、天草の父は言っていましたね。是非もないことだが、優のあのような行動と死が、親としては悔やまれてならなかったのだろう」
と、善三郎さんは振り返る。
「戦後になって、兄の士官学校同期生の方が 私に『あの時、村中さんがこう言った、ああ言った、ということを口癖のように言っていた』と語ってくれたことがある。それほど傾倒していたんです」
安田家の人々と同じ問いと憾み、苦悩を、どれだけの家族が背負って生きることになったのか。(この稿つづく)