代理も決まらない混迷「WTO」事務局長選「本命」「大穴」「第3候補」

執筆者:鈴木一人 2020年8月14日
エリア: その他
ロベルト・アゼベドWTO事務局長(写真)の、突然にして理由なき辞任表明から混迷が始まった (C)AFP=時事

 

 何の前触れもなく、突如5月14日に退任の意向を示したロベルト・アゼベドWTO(世界貿易機関)事務局長。2021年8月末までの任期を1年残して今年の8月末に辞任することとなる。

 既に後任の事務局長選挙のプロセスは始まっている。立候補の受付は7月8日に締め切られ、8カ国から8人の立候補者が出た。今後順調にいけば、9月からの候補者選定プロセスが半年ほどかかり、年末から来年初めにかけて新しい事務局長が選出されることになる。

 だが、それまでの事務局長代行を4人の事務次長から選出するのですら混乱し、結局事務局長代行を決められない状況にある。

 こうした状況がなぜ起こったのか。そして新しい事務局長には誰が選ばれるのか、少し検討してみたい。

自由貿易の歪曲圧力

 2017年にドナルド・トランプ米大統領が就任して以来、自由貿易体制には常に圧力がかかってきた。大統領はTPP(環太平洋パートナーシップ協定)からの離脱、NAFTA(北米自由貿易協定)の再交渉、米中貿易戦争など、自由貿易に対して否定的である。アメリカ人の雇用を喪失させ、アメリカ産業の活力を奪うものとして自由貿易を認識し、自由貿易体制そのものを否定するわけではないが、アメリカが不利になる産業に関しては自由貿易から離れ、部分的に保護主義的な制度を適用することを繰り返してきた。

 こうした自由貿易を歪曲する圧力は、当然WTOに対してもかけられている。他の国際機関に対しては、UNESCO(国連教育科学文化機関)やWHO(世界保健機関)のように、トランプ大統領の政治的アジェンダであるイスラエル・パレスチナ問題や、米中関係に関与したことを理由として脱退したが、トランプ政権はWTOから脱退するという意思を示したことは管見の限り1度もない。

 WTOが加盟国から独立した紛争処理メカニズムを持ち、その手続きによって出された判決に基づいて報復関税をかけることが出来るということに関し、トランプ政権は都合良く対応してきた。

 例えばWTOの航空機協定に関して、欧州の「エアバス」とアメリカの「ボーイング」の両社に対し違反という判断がなされた際、エアバス社以外にも貿易問題を抱えている欧州に対して合法的に報復関税をかける手段として活用する一方、ボーイング社に対する報復関税をEU(欧州連合)が用意することに対して強く反対し圧力をかけている。

 このように、アメリカにとって都合の良い判決を活用出来るという意味で、WTOはトランプ政権にとって有益なものと映っており、だからこそWTOを脱退するといった判断には至っていないのであろう。

 しかし、トランプ政権は任期が切れたWTOの上級委員の後任を任命するプロセスにおいてことごとく拒否権を発動しており、その結果、7人いるべき上級委員が現在は1名しか存在していない。上級委員は理事会のコンセンサスで選ばれるため、1国でも強い反対があれば合意が成立せず、任命が出来ないのだが、アメリカはその制度に則って反対を続けている。

 上級委員は紛争処理メカニズムにおける上級審(2審制度の第2審)において裁判官の役割を果たすが、1つの案件に対して3人の上級委員が担当することとなっている。現在1名しか上級委員がいないため、上級審が開催されず、紛争処理案件を結審することが出来なくなっている。

 このように、トランプ政権はWTOを脱退するわけでも廃止するわけでもないが、その機能に制限をかけ、機能不全に陥らせることにはためらいがない。その点で、TPP脱退などとは多少異なりつつも、自由貿易を歪める政策をとっていると言えよう。

理由不明の突如辞任

 5月に突然退任を発表したアゼベド事務局長は、その理由として「個人的な都合」とだけ説明し、詳細は語らなかった。

 一部には、アメリカによる自由貿易を歪める圧力に嫌気がさしたとの見方もあったが、2020年6月に開催される予定だった第12回閣僚理事会(MC12)が新型コロナウイルスのため2021年に延期となったことを受けて、閣僚理事会の準備期間を新事務局長が担当出来るように早期に辞任したという見方もある。

 何が真実なのかはアゼベド本人が語らないためはっきりしないが、これまで任期を残して辞任するという事例はなく、後任の事務局長の選挙期間がどのくらいかかるかは定かではないため、MC12のために早期に辞任したという説明も十分な説得力がない。やはりここは、政治的な圧力に嫌気がさしたと考える方が合理的だと思われる。

 いずれにせよ、突然の辞任によって急遽事務局長選挙が行われることになり、新事務局長決定までの事務局長代行が7月末までに決まるはずであった。だが、4人の事務次長(ナイジェリアのフレデリック・アガ、ドイツのカール・ブラウナー、アメリカのアラン・ウルフ、中国の易小準)のうち、誰が代行になるかも決まらなかった。

 その理由も定かではないが、事務局長代行の指名に当たっても加盟国間の意見が分かれており、とりわけ中国の易小準を推すグループと、アメリカのアラン・ウルフを推すグループが対立したことが原因と考えられるだろう。

 また、多くの加盟国が現状のWTOの意思決定において積極的に仲介する労をとらなかったこと、またアメリカの大統領選挙までは問題の解決が難しいと匙を投げていたことも、原因として考えられる。

 元々、WTOの運営は米中対立、とりわけアメリカの自国ファースト主義に基づく行動によって混乱しており、そうした状況が落ち着かない状態で、誰も火中の栗を拾いに行かなかったことだけは確かであろう。

選出には相当な時間が必要

 では、今後の事務局長選挙の行方はどうなるのであろうか。

 現在立候補しているのは8カ国からの候補者で、9月までは「候補者を知る期間」として設定され、いわゆる選挙活動期間となっている。

 その後9月から候補者を絞り込む交渉が始まるが、およそ3回に渡ってラウンドが設けられ、その中でコンセンサスが取れる候補者を絞っていくという作業が進むこととなる。当然ながら、すべての国が賛成する候補を選ぶのは容易ではなく、今後も混乱が続くと思われる。

 目安として、ラウンドは2カ月程度とされているが、前回のアゼベドを選出する過程でも半年近くかかっており、今回もそれ以上かかるのではないかと考えられている。

 現在立候補している中で有力なのは、アフリカ出身で女性という点でナイジェリアのンゴジ・オコンジョ=イウェアラ(Ngozi Okonjo-Iweala)とケニアのアミナ・モハメド(Amina C. Mohamed)と見られている。

 現代の国際機関ではジェンダーバランスが重視され、女性候補が有利と見られている。ただ、現在の国連事務総長アントニオ・グテーレスが選出された時も、当初は女性が有利と言われていたが、結果として男性であるグテーレスが選ばれた。

 また、WTOの事務局長はこれまで先進国出身者で閣僚経験者が多く、過去6人の事務局長のうち、途上国はタイ出身のスパチャイ・パニチャパックとブラジル出身のアゼベドだけである。だから、途上国で事務局長を輩出していないアフリカ大陸出身者が事務局長になれば、7人中途上国出身が3人、先進国が4人というバランスになる。またオコンジョ=イウェアラもモハメドも外務大臣経験者であり、その点でも条件には合致している。

 その他、アフリカ出身としてはエジプトのアブデル=ハミド・マムドゥ(Abdel-Hamid Mamdouh)がおり、彼はWTOのサービス部長を経験したインサイダーという点で実務経験があるが、事務局長は各国の貿易担当大臣との交渉が重要になるため、やはり閣僚経験がないことがマイナスとなるだろう。

 メキシコからヘスス・セアデ(Jesús Seade Kuri)が出馬しており、彼もWTO事務次長の経験があるが、ラテンアメリカから連続して選出することは地域的偏りを考えても難しいと思われる。

 ダークホースとしてはサウジアラビアのムハンマド・マジアッド=アル=トゥワイジリ(Mohammad Maziad Al-Tuwaijri)がいる。彼は王室顧問としてサウジアラビアの金庫番の役を担っており、その点ではアラブ諸国やイスラム圏の国々の支持を得るだろうし、様々な交渉の局面で影響力を持ちうる人物である。しかし、国際的な経験が乏しく、事務局長としての実務をどこまでこなせるかは疑問が残る。

 また閣僚経験者としては、モルドバのトゥドル・ウリアノヴスキ(Tudor Ulianovschi)とイギリスのリアム・フォックス(Liam Fox)がいる。中でもフォックスはイギリスのEU離脱を主導した人物であり、国際交渉でも強硬な姿勢を見せる点で癖のある人物であるが、アメリカとの関係が強いという点で台風の目になる可能性もある。また先進国の閣僚経験者ということで、貿易の実務や影響力から考えると、一定の存在感を示すことになるだろう。

 最後に韓国の兪明希(Yoo Myung-hee)は、韓国の通商交渉本部長として貿易交渉の経験はあるが、閣僚級でもなく、大使館勤務の経験はあるが国際機関での経験もないため、小粒な印象である。

 いずれにしても、絶対的な本命がいない中、アフリカ出身の2人の女性が頭1つ抜けているが、いずれも票固めには苦労すると見られ、漁夫の利を得るような形で第3の候補にチャンスが転がり込んでくる可能性は大いにある(票が割れている時は加盟国が妥協出来る第3の候補になるというケースがよくある)。

 しかし、こうした混迷状況であることもあり、アメリカの強硬な姿勢や米中対立がそれに拍車をかけることになれば、事務局長が選出されるまでは相当な時間がかかるだろう。

どうなる日韓問題

 最後に、この事務局長の辞任と新事務局長選挙が、日韓関係にどのような影響があるのかコメントしておこう。

 韓国は日本が2019年7月に実施した輸出管理措置の変更、すなわちフッ化水素、フォトレジスト、フッ化ポリイミドの3品目を包括許可から個別許可に移し、またホワイト国(現在はグループA)から外して、グループBに移したことに対して強く反発し、3品目の個別許可は差別的だとしてWTOに提訴した。

 ただこの問題は、WTOへの数ある提訴の1つであり、事務局長が代わることで大きな影響があるとは思えない。

 仮に韓国から立候補している兪明希が事務局長になったとしても、事務局長が紛争処理メカニズムに介入することはあり得ないし、何らかの形で影響を与えるとすればパネル(第1審)の専門家(裁判官)の人選に影響力を行使することくらいだが、それも現状のスケジュールから考えると、パネルの設置までに事務局長選挙の結果が出るとは思えない。

 その点では、今回の事務局長選挙と韓国のWTOへの提訴は全く連動していないと言えよう。むしろ韓国の兪明希は、足下のアジア各国の支持を固めようとして日本にも支持を求めてきており、韓国国内の通商政策に一定の影響力のある彼女への支持を表明することで、ギクシャクしている日韓関係や輸出管理を巡る問題が好転するきっかけになるかもしれない。

 その点で、今回の事務局長選挙を日本にとって有利に働かせるという意味でも、事務局長選挙では決して有力候補とは言えない兪明希を支持するというのも1つの戦略としては考えられるだろう。

 

カテゴリ: 政治 経済・ビジネス
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執筆者プロフィール
鈴木一人(すずきかずと) すずき・かずと 東京大学公共政策大学院教授 国際文化会館「地経学研究所(IOG)」所長。1970年生まれ。1995年立命館大学修士課程修了、2000年英国サセックス大学院博士課程修了。筑波大学助教授、北海道大学公共政策大学院教授を経て、2020年より現職。2013年12月から2015年7月まで国連安保理イラン制裁専門家パネルメンバーとして勤務。著書にPolicy Logics and Institutions of European Space Collaboration (Ashgate)、『宇宙開発と国際政治』(岩波書店、2012年サントリー学芸賞)、編・共著に『米中の経済安全保障戦略』『バイデンのアメリカ』『ウクライナ戦争と世界のゆくえ』『ウクライナ戦争と米中対立』など多数。
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